毎週公開される新作映画、どれを見るべきか? 見ざるべきか? 毎日新聞に執筆する記者、ライターが一刀両断。褒めてばかりではありません。時には愛あるダメ出しも。複数の筆者が、それぞれの視点から鋭く評します。筆者は、勝田友巳(勝)、高橋諭治(諭)、細谷美香(細)、鈴木隆(鈴)、山口久美子(久)、倉田陶子(倉)、渡辺浩(渡)、木村光則(光)、屋代尚則(屋)、坂本高志(坂)。
2024.10.11
この1本:「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」 悪のヒーローの内面
「バットマン」の悪役を主人公にした前作「ジョーカー」で、〝負け組〟のコメディアン志望のアーサーは悪のヒーロー〝ジョーカー〟として祭り上げられた。格差社会に蓄積した鬱屈が暴力として噴出するまでの物語が現実と重なり、アメコミ原作ものとは思えぬ衝撃作だった。その続編だから、さらなる暴力と混沌(こんとん)を予想されるだろうが、トッド・フィリップス監督は全く別方向にかじを切った。「フォリ・ア・ドゥ」は、妄想や幻覚を共有する精神障害の一つという。
アーサー(ホアキン・フェニックス)は病院に隔離され、5人を殺害した罪で裁判が行われるかどうか結論を待っている。病院の外ではジョーカーを巡る不穏な騒動が続いているが、アーサーは従順でおとなしく、非人道的な扱いにも抵抗しない。やがて病院の合唱サークルで、放火で捕らえられたリー(レディー・ガガ)と出会う。
前作を踏まえた先読みを尻目に、映画は意外な方向へと進んでゆく。一つはミュージカル。集会室で自分のニュースを見ていたアーサーは妄想の中で歌い出す。リーが現れてからはデュエットとなり、2人は生き生きと歌い、舞う。そしてラブストーリー。リーはジョーカーの熱烈なファンで、2人は引かれあう。
とはいえ多幸感とは無縁だ。死刑を恐れるアーサーの恐怖と焦燥は募り、リーとの関係に逃避して妄想と現実の境目がぼやけてゆく。寒色系の色調と病的に痩せたフェニックスの鬼気迫る姿で、前作同様、画面は沈鬱で重苦しい。
映画の後半の裁判で、アーサーはジョーカーとの間で引き裂かれる。フィリップス監督は原作コミックとの結びつきを残しながら、前作の暴力的な写し絵とは別の、現実社会の側面を示している。アーサーとリーは、原作ファンならずとも、ジョーカーとその恋人ハーレイ・クインを思い浮かべるだろう。「続編」への期待は裏切られるかもしれない。しかし悪のヒーローの内面とその末路は、ざらざらした皮肉と哀感の余韻を残すのである。2時間18分。東京・TOHOシネマズ日比谷、大阪・TOHOシネマズ梅田ほか。(勝)
ここに注目
原作コミックや過去の映画で描かれてきたジョーカーは、裏社会の犯罪王にしてバットマンの宿敵だ。前作が〝序章〟なら今回のジョーカーはとことん大暴れし、悪の限りを尽くすのでは? 本作はそんな予想を根こそぎ覆し、ジョーカーとして覚醒したはずのアーサーの精神的混乱をさらに掘り下げた。その選択は意外かつ大胆で、前作からの継続性を保った物語は心理スリラーとしてさらに深化。刑務所と法廷を舞台にした室内劇でありながら、現実と妄想の垣根を越える映像のシュールな夢幻性も圧巻だ。(諭)
ここに注目
「That's Life」をはじめ楽曲、歌詞、タイミングが映像にフィット。圧倒的な歌声にひきこまれた。時代の寵児(ちょうじ)となったアーサーとリーが、狂気と妄想の世界を共有する描写には説得力があり、思考をまひさせる力もある。ある種のトランス状態の感覚のようだ。その意味では、2作目の中心を成すのはアーサーの周囲の群衆だろう。高揚感と息詰まる歌唱シーンの連打に苦しさを感じはしたが、アーサーの存在が次第に希薄になっていく展開こそが、続編の核心ではないか。(鈴)