「658km、陽子の旅」 ©2022「658km、陽子の旅」製作委員会

「658km、陽子の旅」 ©2022「658km、陽子の旅」製作委員会

2023.7.28

この1本:「658km、陽子の旅」 癒やされていく孤独感

毎週公開される新作映画、どれを見るべきか? 見ざるべきか? 毎日新聞に執筆する記者、ライターが一刀両断。褒めてばかりではありません。時には愛あるダメ出しも。複数の筆者が、それぞれの視点から鋭く評します。筆者は、勝田友巳(勝)、高橋諭治(諭)、細谷美香(細)、鈴木隆(鈴)、山口久美子(久)、倉田陶子(倉)、渡辺浩(渡)、木村光則(光)、屋代尚則(屋)、坂本高志(坂)。

物語は明快、タイトルそのまま。急死した父親の葬儀に出席するため、東京から青森県弘前市に向かう陽子の旅を描く。移動距離が658㌔。途中で人と出会い、陽子が自分を見つめ直す展開も定石通り。奇をてらったわけではないロードムービーだが、現代を映すような陽子の造形と、陽子を演じた菊地凜子の好演が相まって、胸にしみる佳品となった。才能発掘の公募企画「TSUTAYA CREATORS′ PROGRAM」で入選した室井孝介の脚本を原案に、熊切和嘉が監督。上海国際映画祭で作品、女優、脚本の各最優秀賞を受賞した。

名前と裏腹に、陽子は無愛想で社交性皆無。在宅、オンラインで働き、買い物も通販、半ば引きこもりのような1人暮らしの42歳。いとこが父親の死を知らせに来ても、話し慣れないので声が出ない。日本の経済停滞期に夢破れ、人生を投げたような存在だ。いとこの車で弘前に向かったものの、途中のサービスエリアで置いてきぼりにされ、ヒッチハイクする羽目になる。

陽子は初め、傍らに現れる若き父親(オダギリジョー)の幻にしか話しかけられない。つまり独り言。しかし車に乗せてもらわないとどこにも行けなくなり、仕方なく他者に働きかける。怪しげな陽子を拾ってくれる人が善人とは限らず、素っ気なく放り出されるし、ゲス男(浜野謙太が心底むかつかせる怪演!)にひどい目にも遭わされる。陽子には災難だが、安易なほのぼの展開に向かわないところが映画のミソである。

ほとんどの場面で画面の中心に陽子がいるから、菊地の独り舞台。オーラを消して生気のない陽子を体現しつつ、彼女の底に残っている人間性も感じさせる繊細な演技で映画を支え、直線的な物語に膨らみを持たせた。

冬の季節に北に向かう旅はいささか重苦しいが、陽子は世の中の情や優しさに救われる。凝り固まった心がほぐれていくにつれて次第に人間らしくなり、その変化に見ている方もホッとさせられるのである。1時間53分。東京・テアトル新宿、大阪・シネ・リーブル梅田ほか。(勝)

ここに注目

父との確執や東京での挫折など陽子の過去の多くは省かれており、きちんとドラマが語られる作品を好む人はとっつきづらい。しかし突然のいとこの訪問で外界に引きずり出された陽子の挙動から、どうしようもない孤独感、閉塞(へいそく)感が伝わる。無口で無表情。端から見れば〝怪しい人〟だが、カメラは途方に暮れたように漂流する彼女を見据え、不思議と「この旅を最後まで見届けたい」と思わされる。終着点の荒涼とした冬景色、そしてもはや演技であることも忘れさせ、えも言われぬ感情を発露する菊地に圧倒された。(諭)

技あり

小林拓撮影監督が撮った。岩手の道の駅に着くが、出棺時間に間に合わないと焦る陽子が、乗せてくれる人を探す。金ボタン詰め襟の少年がうちの車でと、手を挙げてくれる。車内で陽子が「個人的な話」と、20年会わずに亡くなった父の話、自分の情けなさ、道中乗せてくれた人への感謝などを切々と語る。この長回しのアップ芝居が全編の白眉(はくび)。その後、少年の兄が途中までバイクで送ってくれ、お礼を言うと「なんも、なんも」と走り去る。雪が舞い、岩木山が見える道に陽子が差し掛かり、小林のカメラが彼女に付けて動く。そびえる岩木山と、人間の動きの対比を描いて秀逸。(渡)

新着記事