映画の魅力は細部に宿る。どうせ見るならより多くの発見を引き出し、よりお得に楽しみたい。「仕事と人生に効く 教養としての映画」(PHP研究所)の著者、映画研究者=批評家の伊藤弘了さんが、作品の隅々に目を凝らし、耳を澄ませて、その魅力を「よくばり」に読み解きます。
【図1】赤いきつね 緑のたぬきウェブCM 「ひとりのよると赤緑」 おうちドラマ編maruchanchannel(@maruchanchannel、YouTube)、最終閲覧日2025年2月27日
2025.3.02
ウェブCM赤いきつね「おうちドラマ編」は〝性的〟か 「猥褻」と「性的モノ化」は別問題だ
ここに一本のCMがあるとする。内容は何でも構わない。任意の一本を思い浮かべたら、次の問いに答えてみてほしい。そのCMは性的だろうか? あなたが思い浮かべたCMの内容にかかわらず、答えは一つに決まっている。
先ごろ公開されたマルちゃん(東洋水産)のウェブCMが人々の耳目を集めている。とりわけ、赤いきつねにフォーカスした「おうちドラマ編」の(例によって)女性表象が物議を醸しているようだ。なるほど、いかにも女性らしさに満ちた湿潤なつくりのCMではある。涙は古式ゆかしい「女の武器」に違いない。それが本人の意志では押しとどめられない体液の流出であるという点で、ホラー(スプラッター)やポルノグラフィーと同型の運動を描いている(メロドラマ、ホラー、ポルノを「身体ジャンル=ボディー・ジャンル」としてくくるのは映画論の常識である)。
論点は「問題視するほどかどうか」
さて、あるCMの表現が性的かどうかを問われれば「性的でもありうる」としか答えようがない。そもそも男性や女性、あるいは中性や両性や無性という言葉にさえすでに「性」は入り込んでいるのだから、男や女をうんぬんしている時点で十分に性的な話をしていることになる。性とはつまるところ文化が作り出す幻想である(性的唯幻論)。岸田秀の指摘をまつまでもなく「人間の性本能は無茶苦茶に壊れてしまっている」(注1)のだから、その気になれば動物や植物、無機物のいかんを問わず、およそあらゆる対象に性的なまなざしを向け、欲情することができる。
もちろん、大方の読者はそんなへ理屈じみた話が聞きたいわけではないだろうが、いずれにしても「性的かどうか」は最初から問いとして成立していない(すべては性的に決まっているのだから)。多くの人がじっさいに問おうとしているのは「問題視するほど性的かどうか」である。まずはこの点を峻別(しゅんべつ)しておきたい。
意見の一致はあり得ない
性的な状態にはほとんど無限の幅がある。人間はみな(男性であれ女性であれ中性、両性、無性であれそれ以外であれ)性的な存在なのだから、性的であることそれ自体に良いも悪いもない。とはいえ、すべてが無際限に許されているわけではない。時と場合に応じて何を許容し、何を拒絶するかは、究極的には社会や文化(法や慣習)が決める。しかし、人間の性が多形倒錯的である以上、社会構成員の意見が完全に一致することはどう転んでもありえない。性は人間にとって実存に関わる一大問題である。意見がぶつかったときに、お互いに譲り合うことは難しい。対立を繰り返すなかで、緩やかに傾向を変化させていくしかないだろう(それがどこを向くかは誰にもコントロールできない)。
「問題視するほど性的かどうか」にも大きく二つの水準がある。たとえば「問題視せざるをえないほど猥褻(わいせつ)である」と「問題視せざるをえないほど(性の描き方が)不適切である」とでは事情が異なる。じっさい、この水準のズレのために議論が平行線をたどっているように見受けられるケースが多々ある。
ゴールデンタイムの18禁放送は?
極端な例だが、地上波のゴールデンタイムに成人指定(R18、18禁)のアダルトビデオをそのまま放送することに対してであれば、(その人が日ごろAVを愛好しているかどうかにかかわらず)おそらく多くの人が否を突きつけるだろう。つまり、そのような場面においては猥褻であることが問題視されるわけである。もちろん、放送に賛成する人がいてもいいが(筆者はどちらかと言えば反対寄りくらいである)、現代の日本社会はそれを(法的にも倫理的にも)許容できない。
とはいえ「問題視せざるをえない」ラインを見定めるのはしばしば困難である。AVのインタビュー場面(着衣状態かつ内容的にも穏当な場面)のみであれば地上波で流してもいいのかと言えば、おそらく抵抗を感じる人が多いだろう。それ自体には猥褻なところなど何もないにもかかわらずである(もちろん文脈はある)。一方で「猥褻で何が悪いのか」という立場から現行法や社会規範への異議申し立てを試みる者もいる(たとえば筆者はろくでなし子の実践に敬意を表する)。そもそも猥褻かどうかに関係なく(女性の性的モノ化の最たる例である)AVそのものが不適切なコンテンツであり、その存在を許容しないという立場も当然存在する。
論理で克服できない食い違い
猥褻か否かの境界はつねに曖昧である。乳首や性器、陰毛が映っていないかどうかといった外形的な基準は慣習的に設定できるし、現にされてもいるが、それだけで一律に決められるわけではない。水着や着衣の状態でも十分に(たとえば子どもが目にするには)扇情的すぎるというケースはいくらでも想定できる。それこそ、(食べ)ものを別の何かに見立てて性の文脈に寄せる表現は、じっさいに多くのバラエティーや映画、イメージビデオ等で採用され続けている。
「問題視せざるをえないほど(性の描き方が)不適切である」ケースでは、露出や演出の過激さ以外が主要な論点になりうる。女性に対する社会的意味(ジェンダーロール)の押しつけや性差別的な表現が問題とされるようなケースでは、猥褻かどうかは直接的には関係ない(注2)。「性的モノ化(性的客体化)」はそのようなケースを批判する際にしばしばキーワード的に持ち出される概念である。たとえばドラマの中で妻がモラハラ夫に虐げられ、夜な夜な望まない性行為を強いられているとして、それ(妻は常に夫に従い、決して刃向かおうとせずに自分を殺し、かつ夫を性的に満足させるべきといった規範)が劇中で当然のこととして描かれていれば、作中で性行為のシーンがどの程度描写されているかにかかわらず、炎上は必至だろう。
ただし厄介なのは、じっさいには多くのケースで双方の水準(猥褻/不適切)が混じり合っていることである([やや]猥褻であり[やや]不適切/[やや]猥褻だが[それほど]不適切ではない/[それほど]猥褻ではないが[やや]不適切)。人によって踏まえている文脈や前提が異なり、問題の見え方も問題視するポイントもまるで異なるので、ひとたび食い違いが発生すれば、意見の一致を見ることはまずない。分断は深まるばかりである。それでは切り分けて考えればいいかと言えば、そもそも截然(せつぜん)と切り分けられないから問題になっているわけで、それはそれで現実味のない無意味な提言に思われる。はなから論理の問題ではないのである。
「かわいらしい女性のかわいらしい仕草」への違和感
前置きが長くなってしまったが、くだんのCMに関しては、猥褻性そのものというよりは、女性表象の不適切さ(「性的モノ化」)をめぐる批判が多い印象である。すなわち、しばしばアニメで描かれてきた(ある種の男性が理想とする)ような「かわいらしい女性」に「かわいらしい仕草」をさせていることへの違和感の表明である。麺をすする動作(そもそも食と性はきわめて親和性が高い。その意味で「食べ物のCMに性的な要素を持ち込むな」といった批判は的を外していると思う)や、アニメ的な記号(ステレオタイプ)の一環としての頰の紅潮(髪を耳にかける仕草もそうだろう)、人気声優によるASMR風のささやき声などの要素が重なった結果、不適切さへの違和感と猥褻さの感覚とが溶け合って混然一体となっている。
表現はそれを目にした人間の認識に確実に影響を及ぼし、社会的現実を構築する。人は実に気安く現実と虚構を見分けられるかのように言うが、残念ながら現生人類はそのような高度な能力を持ち合わせていない。目の前にいる生身の人間に影響されるのも、実写映画の登場人物に影響されるのも、アニメーションのキャラクターに影響されるのも、それほど違わない。文字という、ただの記号(インクの染み)からでさえ影響を受けられるのが人間である。
表現はまた、つねに批判に開かれている(もちろん批判も表現である)。一切の批判を寄せつけない完璧な表現などというものはこの世に存在しない。同じものを見ても、気に入る人がいれば気に入らない人もいるし、傷ついたり不快に感じたりする人がいれば特に何とも思わない人もいる。それらの感情は、少なくとも抱いている当人にとってはすべて真実である。だから、猥褻と言われようが不適切と言われようが、自分がそう思わないのなら(じっさいに当該企業がそうしているように)無視しておけばいい。すべての批判に応えなければならないという法など、どこにもないのだから(企業の場合、その結果は引き受けなければならないが)。無視できないほど何かを毀損(きそん)されたと感じて攻撃的になってしまうのだとすれば、その感情の由来こそがあなたが向き合うべき真の問題ではないだろうか。
〝男性ののぞき見〟感覚で作られている
ちなみに管見の限りでは、すでに出そろった感のある映像の性的解釈そのものは、(CM中で描かれている熱々のつゆに比して)はるかにぬるいと言わざるをえない。このCMははっきりと(男性)視聴者の窃視(のぞき見)感覚を満足させるような作りになっている。自室というプライベートな空間で、メガネを外して無防備に涙を流している女性を、視聴者が一方的に見ているという構図である。女性の正面に回り込んだカメラはその印象を強めている【図1】。このとき、カメラは女性が見ているテレビの位置にある。女性から視聴者の姿が見えることはなく、視聴者は安全地帯から一方的に女性をまなざすことができる(私秘性の侵犯、注3)。緑のたぬきのウェブCM(「放課後先生編」)にそのようなアングルはない。どころか、天ぷらを反射させた瞳のクロースアップは、依然として男性が「見る主体」であることを主張しているかのようである(注4)【図2】。
【図1】赤いきつね 緑のたぬきウェブCM 「ひとりのよると赤緑」 おうちドラマ編、maruchanchannel(@maruchanchannel、YouTube)、最終閲覧日2025年2月27日、
https://youtu.be/UKSyu8gZ_rs?si=x5Ojeh0gq9VxIL7P
【図2】赤いきつね 緑のたぬきウェブCM 「ひとりのよると赤緑」 放課後先生編、maruchanchannel(@maruchanchannel、YouTube)、最終閲覧日2025年2月27日、
https://youtu.be/KIEpfpuVzeQ?si=3GHVjgF7e6RM6csI
「ドラマを見ている女性」を見ている視聴者という構図は、彼女がきつねうどんを食べていることにも敷衍(ふえん)できる。つまり「おいしそうにうどんを食べている女性」を視聴者がおいしくいただくというわけである。それが成り立つためには、女性自体がおいしそうでなければならない。涙や湿度の高い空間設計は、女性をおいしそうに見せるための調味料に過ぎない。つゆを滴らせるほどにうるおいをおびて柔らかくなっている揚げは、性的に準備が整っていることを暗示するだろう【図3】。食べることはしばしば性的な比喩として用いられる。相手と性的な関係を持ったことを「食った」とか「いただいた」とか表現するのはその典型である。
【図3】赤いきつね 緑のたぬきウェブCM 「ひとりのよると赤緑」 おうちドラマ編、maruchanchannel(@maruchanchannel、YouTube)、最終閲覧日2025年2月27日、
https://youtu.be/UKSyu8gZ_rs?si=x5Ojeh0gq9VxIL7P
注1=岸田秀『ものぐさ精神分析』中公文庫、1982年、164ページ。
注2=「性的モノ化」の概念を詳しく知りたい向きは、ティモ・ユッテン(木下頌子訳)「性的モノ化」、(『分析フェミニズム基本論文集』慶應義塾大学出版会、2022年、120〜52ページ)などを参照されたい。入門書的なところでは、田中東子編『ガールズ・メディア・スタディーズ』(北樹出版、2021年)の第2章「広告の“もうひとつ”の光景」(上村陽子、16〜30ページ)や、林香里・田中東子編『ジェンダーで学ぶメディア論』(世界思想社、2023年)の第1章「表現の自由――なぜフェミニズムの議論は表現の自由と緊張関係を持つのか」(小宮友根、12〜27ページ)などが参考になるだろう。
注3=「「猥褻」とは、裸体や性器そのものに対して与えられた形容ではない。私秘的なものが「場違い out of place」に公的領域に登場すること、その文脈の混乱が「猥褻」感をよびおこす」(同書、121ページ)
注4=たとえば上野千鶴子の次の議論を参照されたい。「カメラマンと言うからには、ファインダーを覗くのは、つねに男なのである。たんにカメラというテクノロジーを操るのが男の特権だというだけではない。近代に「視線の優位」が確立して以来、「見る主体」はつねに男であった。そして「見られる客体」は女」(上野千鶴子『発情装置 新版』岩波現代文庫、2015年、123ページ)