「怪物」©2023「怪物」製作委員会

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2023.6.16

言い違い、転覆病、鏡文字、横転する電車……「怪物」はなぜ〝間違い〟だらけなのか:よくばり映画鑑賞術

映画の魅力は細部に宿る。どうせ見るならより多くの発見を引き出し、よりお得に楽しみたい。「仕事と人生に効く 教養としての映画」(PHP研究所)の著者、映画研究者=批評家の伊藤弘了さんが、作品の隅々に目を凝らし、耳を澄ませて、その魅力を「よくばり」に読み解きます。

伊藤弘了

伊藤弘了

*映画の結末に触れています。ご注意ください。
 
「こんな学校がいる先生に……」
 
一見してわかるように、これは明らかな言い間違いである。じっさい、この言葉を口にした麦野早織(安藤サクラ)は、即座に「こんな先生がいる学校に子供預けられないでしょ」と言い直す。これが「普通」の言い方である。早織は、息子の湊(黒川想矢)が担任教師の保利(永山瑛太)から暴力を振るわれていると信じている。その担任を目の前にして、冷静さを失っていることがうかがえる。
 


 

早織の言い間違えが意味するもの

彼女の言い間違いは、撮影現場で偶然発生したものを採用したわけではなく、脚本段階から仕込まれていたものである。このくだりは映画「怪物」(是枝裕和監督)の決定稿に基づくシナリオ・ブック(坂元裕二『怪物』ムービーウォーカー)や、映画のノベライズ(佐野晶『怪物』宝島社文庫)にも出てくる。
 
そして、これは単に早織が「冷静さを失っている」ことを表現するためだけのものではない。映画の構成上、彼女がここで「間違い」を犯すことには意味がある。この映画の物語はさまざまな「間違い」によって駆動されているからである。また、早織の言い間違いが単語の順序を入れ替えたこと(逆転させたこと)によって生じている点も重要である。今回は映画の序盤に見られるこのささいな言い間違いを手がかりにして「怪物」をよくばりに読み解いていきたい。


 

誤植に執着する保利と金魚の転覆病

映画は3章構成をとっており、同じ時系列を3度にわたって繰り返す。冒頭に引用した言い間違いは早織の視点を中心に展開する第1章に見られる。保利を中心とする第2章では、彼の一風変わった趣味が明かされる。書籍の誤植を見つけて、出版社に手紙を送るというものである。
 
「目から魚が落ちる」という誤植を発見した保利は、喜々として恋人の広奈(高畑充希)に語りかける。「なんの魚だろうね。ブリかな、イワシかな」と。もちろん、正しくは「目から鱗(うろこ)が落ちる」である。早織の「言い間違い」に対応する形で、保利は「書き間違い」に執着しているのである。
 
保利は自室の水槽で金魚を飼っている。そのうちの一匹がひっくり返っていることを広奈に指摘された彼は、それが「転覆病」と呼ばれるものであることを教える。「普通」の状態から逆転していることを視覚的に表すモチーフである。。そして、この逆転は、保利の受け持ちであり、湊のクラスメートである星川依里(柊木陽太)が書く「鏡文字」と響き合っていく。

 

依里の鏡文字と保利の勘違い

依里がしばしば鏡文字を書いてしまうことは、すでに映画の第1章で提示されている。保利から「湊が依里をイジメている」と伝えられた早織は、真相を確かめるべく依里の家を訪問する。依里は早織の目の前で、風邪で休んでいることになっている湊にお見舞いの手紙を書く。そこで彼女は依里の書いている字が鏡文字になっていることを指摘するのである。鏡文字とは通常の文字の左右を反転させたものであり、普通は「書き間違い」と見なされる。
 
「書き間違い」であるところの依里の鏡文字は、しかし保利に「間違い」を気づかせる契機となっている。保利は、自身が見聞きした断片的な情報から湊が依里をイジメていると「勘違い」していた。この点において保利は、同様に限定的な情報から保利が湊に暴力を振るっていると「勘違い」していた早織と鏡像関係をなしている(この2人には「母子家庭」という共通点もある)。


「間違ってないよ。なんにもおかしくないんだよ」

暴力教師のレッテルを貼られた保利は、校長の伏見(田中裕子)に言い含められて不本意ながらも学年集会で保護者たちに謝罪をする。この件をかぎつけた記者が保利のマンションを訪ねてきたことが決定打となって、恋人の広奈は彼のもとを去る。さらには新聞で事件のことが大々的に報道され、自宅に嫌がらせ行為を受けるようになって、引っ越しを余儀なくされる。部屋の片付け中に、保利はボウルに移した金魚の水を生徒の作文の上にこぼしてしまう。彼が生徒たちに書かせた「将来」をテーマにした作文である。
 
一番上に位置していた依里の作文に目をとめた保利は、それをじっくり読み始める。誤植の発見を趣味にしている保利がそこで鏡文字にチェックを入れるのは当然のなりゆきである。そして、各行の頭文字に「横読み」の仕掛けが施されていることに気がつく。頭文字をつなげると「むぎのみなと」、「ほしかわより」と読めるのである。
 
こうして、保利は湊と依里の関係性を把握する。湊が依里をイジメているというのは保利の「勘違い」にほかならず、2人の関係はそれとはまったく異なるものだったのである。自分の間違いを知った保利は愕然(がくぜん)とし、台風による暴風のなかを、湊の自宅へと駆けつけ、大声で「麦野。麦野。ごめんな。先生間違ってた」と呼びかける。そして湊と依里の関係については「間違ってないよ。なんにもおかしくないんだよ」と伝えようとするのである。


横転した電車の秘密基地

保利が湊の自宅で声を張り上げていた頃、当の湊は部屋にいなかった。依里と2人で秘密基地である廃線跡地の電車のなかにいたのである。2人が乗っている電車は土砂崩れに巻き込まれて「横転」する。倒れた電車は転覆病の金魚と呼応している。
 
やがて2人はひっくり返った車両の窓から狭い水路へと降り立ち、台風が過ぎ去って陽光の輝きを取り戻した地上へとはい出る。あからさまに「生まれ変わり」を示唆する描写だが、2人はそれを否定し、むしろ生まれ変わっていないことを確認しあう。
 
依里「生まれかわったのかな」
湊「そういうのはないと思うよ」
依里「ないか」
湊「ないよ。もとのままだよ」
依里「そっか。良かった」
(坂元裕二『怪物』ムービーウォーカー、2023年、158ページ)
 

生まれ変わるべきなのは誰か

映画の結末に関して、2人が実は死んでいる(本当に生まれ変わっている)という説も唱えられているが、私はそうではないと思う。変わらなければならないのは彼らではないからである。湊と依里が変わる必要はない。変わるべきは、幻想にすぎない「普通」を押しつけ、そこから外れているように見える人々を苦しめる世界の方である。もちろん、それは容易な道ではない。しかし、保利がそうであったように、「普通」がはらむ暴力性に気づくことのできる人が増えていけば、もしかしたら少しずつ変えていけるのかもしれない。
 
とはいえ、映画が描けるのはここまでである。映画の先にあるはずの2人の「将来」に、彼らが安心して生きられるよりよい世界を用意できるかどうかは、この映画を受け取った我々観客に委ねられている。

ライター
伊藤弘了

伊藤弘了

いとう・ひろのり 映画研究者=批評家。熊本大大学院人文社会科学研究部准教授。1988年、愛知県豊橋市生まれ。慶応大法学部法律学科卒。京都大大学院人間・環境学研究科博士後期課程研究指導認定退学。大学在学中に見た小津安二郎の映画に衝撃を受け、小津映画を研究するために大学院に進学する。現在はライフワークとして小津の研究を続けるかたわら、広く映画をテーマにした講演や執筆をおこなっている。著書に「仕事と人生に効く教養としての映画」(PHP研究所)。


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