「ブロンド」の一場面 Netflix © 2022

「ブロンド」の一場面 Netflix © 2022

2023.3.06

マリリン・モンローを通して、今を生きる私たちが向き合うテーマを提示する「ブロンド」:オンラインの森

いつでもどこでも映画が見られる動画配信サービス。便利だけれど、あまりにも作品数が多すぎて、どれを見たらいいか迷うばかり。目利きの映画ライターが、実り豊かな森の中からお薦めの作品を選びます。案内人は、須永貴子、村山章、大野友嘉子、梅山富美子の4人です。

村山章

村山章

3月13日(日本時間)に発表される第95回アカデミー賞で、「ブロンド」のアナ・デ・アルマスが主演女優賞にノミネートされている。「ブロンド」は、伝説のハリウッドスター、マリリン・モンローの生涯をモチーフに、昨年9月にNetflixで独占配信された2時間47分の大作だ。キューバ系のアナ・デ・アルマスがモンローを演じたことに賛否が渦巻いたものの、まるで憑依(ひょうい)したかのような熱演で絶賛を浴びている。
 


アナ・デ・アルマスが熱演するも、マリリン・モンローの描き方に対して押し寄せた批判

 しかし「ブロンド」に吹いた逆風は、アナ・デ・アルマスに対してよりも映画自体への方が強かった。というのも、作品が公開されるや「マリリン・モンローという実在の人物を矮小(わいしょう)化し、史実をゆがめて描いている」といった批判や酷評が押し寄せたのだ。
 
実際、脚本も手がけたアンドリュー・ドミニク監督のアプローチには露悪的な側面が強く、矛先が向けられるのもわかる。劇中のモンローは、常に庇護(ひご)者を求め、関係を結んだ男性を誰でも「ダディー」と呼ぶ。私生活ではやたらと裸でいるし、性的搾取にあらがうすべを持たず、やがて精神の均衡を崩していく。絵に描いたような〝悲劇の女性〟像だ。
 
また精神疾患を持つ母親に殺されかけた少女時代のエピソードや、大スターの2世であるチャールズ・チャプリンJr.とエディ・ロビンソンJr.との倒錯的な三角関係などは裏付けがない捏造(ねつぞう)だと指摘され、ジョン・F・ケネディそっくりの〝大統領〟との情事はグロテスクな性的虐待描写だと非難を浴びている。
 
ちなみにNetflixのレーティングは「18+」。性描写、ヌード、言葉づかい、性的暴行、家庭内暴力を理由に「18歳以上の視聴に適しています」と説明を付記している。センシティブな題材をトリッキーに表現していることは確かで、筆者も誰彼構わずオススメしたりはしない。
 

ノンフィクションを志向していない原作

しかしスキャンダラスな話題性を狙ったゴシップ的な見せ物かと聞かれると、筆者はそうではないと答える。まず、誤解されがちなところから説明すると、「ブロンド」はそもそもノンフィクションを志向していない。まったく違う意図を持った作品であるということだ。
 
「ブロンド」の原作は、現在84歳の女性作家ジョイス・キャロル・オーツが2000年に発表した長編小説『ブロンド-マリリン・モンローの生涯』。邦題こそ「モンローの生涯」と書かれてしまっているが、原題はシンプルに「ブロンド」で、オーツは序文から「この本に歴史的正確さを求めるのはお門違いである」と宣言している。
 
オーツの狙いは、モンローというアメリカ文化のアイコンを通じて、ハリウッドや男性優位社会で虐げられてきた女性たちの現実を浮かび上がらせることだった。オーツはモンローの悲惨な境遇に触発されて、自分がよく知っている名もなき女性たちの群像を描こうとした。
 
オーツの本を読んでいると、モンローを含むすべての登場人物が、抑圧や差別の一面を象徴していることに気づかされる。オーツの「ブロンド」は、悪夢的であると同時に現実そのものであり、いや応なしに暗い淵へと引きずり込まれる。まさに怪物のような書物だと思う。
 

史実との相違の説明不足で伝記映画と捉えられる

 そしてオーツの小説の映画化を熱望し、10年がかりで実現させたのがドミニク監督だった。映画「ブロンド」のモンローが、思慮や主体性に乏しく、男たちに翻弄(ほんろう)されるのは、現実のモンローとはほとんど関係がない。むしろ映画の中にいるのは、大衆が抱いていた〝マリリン・モンロー〟という勝手なイメージの具現化なのだ。前述したように裸のシーンの多さも、「夜は香水しかつけない」と公言したモンロー自身のイメージ戦略と、それに乗っかった大衆の妄想を反映してのことだろう。
 
そしてアナ・デ・アルマスは、虚像が実体化した存在として劇中のモンローを生き、傷つき、疲弊し、ポップアイコンを消費し尽くすわれわれ大衆の犠牲となって死んでいく。われわれ観客はそんな〝虚像のマリリン〟の混濁した心象風景を、2時間47分もの長い夢の中に迷い込んだかのように追体験させられるのだ。
 
ただ、映画「ブロンド」は、原作小説のように作品中で「これは史実ではありません」と大声で表明することを怠ってしまった。Netflixの紹介文やエンドクレジットに小さくフィクションである旨が書き添えられているものの、モンローの実人生に起きた出来事や、あからさまに実在の人物をモデルにしたキャラクターが大勢登場する以上、見る人が普通の意味での伝記映画だと捉えてしまうのも当然だろう。
 
ドミニク監督は史実との相違について「だってオーツの小説が原作なんだよ」とコメントしているが、作品の意図や意義を伝えるプレゼンテーションの不足が酷評を呼び寄せたという面は、絶対にあったと思っている。
 
また、どんな意図であれ、結局はひとりの女性を都合よく利用しているという見方も筋の通った批判であるように思う。実在の人物を物語やテーマに取り込んで好きにアレンジする創作物は数多く存在するが、創作という目的のためならどう表現しても許されるのか? 個人がこの世を去ってどれだけ時間がたてば、歴史や伝説の一部となるのか? その時、個人の尊厳は無視されてしまうものなのか? 
 
「ブロンド」を見ると、多種多様なモヤモヤが頭の中を駆けめぐる。そのどれもが、今を生きるわれわれが切実に向き合うべきテーマであり、やはりこの映画は筋金入りの問題作だと思うのである。
 
「ブロンド」はNetflixで配信中


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ライター
村山章

村山章

むらやま・あきら 1971年生まれ。映像編集を経てフリーライターとなり、雑誌、WEB、新聞等で映画関連の記事を寄稿。近年はラジオやテレビの出演、海外のインディペンデント映画の配給業務など多岐にわたって活動中。