ワン・セカンド 永遠の24フレーム © Huanxi Media Group Limited

ワン・セカンド 永遠の24フレーム © Huanxi Media Group Limited

2022.6.06

「ワン・セカンド 永遠の24フレーム」 人間描き輝くチャン・イーモウ:藤原帰一のいつでもシネマ 

藤原帰一・千葉大学特任教授が、新作や古今の名作の見方を豊富な知識を交えて軟らかく紹介します。

藤原帰一

藤原帰一

今回の映画は、「ワン・セカンド」、文化大革命の時代の中国で映画を上映するお話です。でも映画の紹介って、なかなか難しい。見る前に予備知識を提供するとそれだけで見た思いになっちゃって、映画をご覧いただけない可能性がある。筋書きをもっと突っ込んで書き込むと、ネタバレのために見る気を失いかねない。こうなると映画評は映画の敵になってしまいます。
 


現代中国でギリギリの表現

そこで今回は開き直って、映画の始まりだけちょっとお伝えしましょう。で、この出だし、よくわからないんですね。舞台は砂漠地帯のそばの中国の地方でして、画面に映るのは砂漠ばっかり。そこにえたいの知れない男が、うろうろしている。何してるんだかわかりません。そしてこの男、これもえたいの知れない少女にフィルムを盗まれたので、それを取り戻そうとするんですが、どうしてフィルムが必要なのかはわからない。観客としては美しく緻密な画面構成に感心することはあっても、ストーリーは薄いし、まだ引き込まれません。
 
砂漠のそばの町に舞台が移ってから映画が動き出します。この町、常設の映画館がないので、公民館のようなところにフィルムを持ってきて映画を上映するんですね。で、上映の始まるずっと前から町の人が集まっている。みなさん、映画上映会が楽しみで楽しみで、もう待ちきれないんです。映画の最初に出てきた男はフィルムの缶を持っており、それを少女に盗まれ、追いかけ、取り戻した。ここでようやく、フィルムが狂言回しになった映画だということがわかってくる仕掛けです。


 

大事なフィルムが砂まみれ…どうしよう

そして、隣の町からフィルムを運ぶとき、缶のフタが開いていたことに気づかずに運んだので、フィルムが缶から出て、土埃(つちぼこり)いっぱいの道をひきずられ、砂埃にまみれてしまった。人間のはらわたが体外に出てしまったような衝撃です。でも映画はまだたっぷり時間が残っていますから、何とかするはずですよね。
 
ここで突然紹介をやめましょう。だってもう、ここからどうなるか予想できるじゃありませんか。いろいろとトラブルは起こるけれど、みんなで困難を乗り越えて、映画を見るために頑張るなんて映画愛いっぱいのお話を誰だって想像するでしょう。
 
実際、そんなお話なんです。映画への愛情を告白した作品としてはフランソワ・トリュフォー監督の「アメリカの夜」やジュゼッペ・トルナトーレ監督の「ニュー・シネマ・パラダイス」、あるいは山田洋次監督の「キネマの天地」などを筆頭として傑作が少なくありません。どれをとっても、映画の作り手の映画愛が、映画を見る側の映画への思いと一緒になって感動を誘います。
 

「見たい」思いが人々を結びつける

この「ワン・セカンド」も、映画愛でいっぱい。うっかりフィルムの缶を開けっぱなしにしたためフィルムは埃だらけ。もう映画上映は中止だ、おしまいだと町の人がみんなガッカリしたところで、いや、方法はあると映写技師が言って、なんと、フィルムを洗ってしまうんですね。
 
スパゲティのようにぐちゃぐちゃになった映画のフィルムを一本一本解きほぐし、フィルムに傷をつけないよう注意しながら洗浄する。映写技師の指示に従ってたくさんの人がその作業に加わり、その外では町の人々が映画上映を心待ちにしている場面は、映画を見たいという思いによってみんなが結びついている、映画への愛で満たされた名場面です。
 
ただ、この映画、映画愛だけじゃありません。主人公の男はニュース映画に娘がほんのちょっと映っていると知って、その姿が見たい一心で強制労働所から逃げてきた。みなしごの少女は、燃えてしまった電灯のかさの代わりをつくれといじめっ子たちに強要され、かさの材料に使うために男からフィルムを盗もうとしている。つまり映画の主要な登場人物である2人は、映画が見たくてたまらない人々よりも切迫した個人的な動機があり、そのためにフィルムを求めているんです。


 

プロパガンダに目もくれず 文革からの自立

その切迫した動機の背景には、文化大革命があります。1960年代の中国では、毛沢東の指示によって、革命の名の下で極度の暴力が展開され、数多くの人々が反革命分子として迫害と虐待を受け、殺されました。村で上映される映画「英雄児女」もプロパガンダ映画ですし、娘の姿がほんのちょっと映ったニュース映画は文化大革命の宣伝そのものです。
 
でも、主人公の男も、孤児の少女も、まわりはプロパガンダでいっぱいなのに、それに目もくれません。男には娘の映像、少女には一緒に暮らす弟の幸せが第一だからです。文化大革命を糾弾するというよりは、文化大革命に心を動かさないことによって、政治の不条理から距離をとっているんです。政治的抵抗ではありませんが、政治からの自立と呼ぶことはできるでしょう。
 
監督のチャン・イーモウ自身が文化大革命のために農村や工場での労働を強制され、映画を学ぶことができたのは文革によって閉鎖されていた北京電影学院が再開された78年以後のことでした。その後は「紅いコーリャン」「活きる」「妻への家路」などの傑作を次々に発表し、中国を代表する映画監督になりました。映像と色彩表現がすばらしく、特に赤の発色は並ぶものがありません。マット・デイモンなどハリウッドの俳優も登場する「グレートウォール」なんてスペクタクルも撮っています。今中国の映画監督といえば最初に上がる名前といっていいすぎじゃありません。


 

政治第一の社会に翻弄される人間像

ただ、私は、少数意見なのでしょうが、映像美やスペクタクル中心のチャン・イーモウにはこれまで心が動きませんでした。2回の北京オリンピックの開会式・閉会式の監督もしてるんですが、さすがチャン・イーモウだと思うよりは、こんなところまで政府の宣伝しちゃうんだという残念な気持ちがありました。でも、チャン・イーモウをプロパガンダに押し込めるのは不当でしょう。
 
確かにチャン・イーモウは政治的な監督ではありません。だからこそ北京オリンピックの開会式や閉会式の監督も務めることができたわけですね。でも、ハリウッドに張り合うような映像美やスペクタクルだけなら空疎な表現で終わってしまう。しかし、代表作と呼ぶべき「活きる」や「妻への家路」にはプロパガンダではない、そのままの人間が描かれています。政治が第一にされている社会のなかで翻弄(ほんろう)される人間像を表現するとき、チャン・イーモウが一番輝いていると思います。
 
文化大革命は、政治権力の不当な行使とその不条理の頂点のようなできごとでした。さらにいえば、現在の中国は、文化大革命の批判ではなく、むしろその批判を抑え込み、文革期のような大衆動員に向かっている。この「ワン・セカンド」は、現在の中国で表現することのできるギリギリの限界なのでしょう。
 
東京・TOHOシネマズシャンテほかで5月20日公開。

ライター
藤原帰一

藤原帰一

ふじわら・きいち 千葉大学特任教授、映画ライター。1956年生まれ。専攻は国際政治。著書に「戦争の条件」(集英社)、「これは映画だ!」(朝日新聞出版)など。「映画を見る合間に政治学を勉強しています」と語るほどの映画通。公開予定の新作や古今の名作の見方を豊富な知識を交えて軟らかく紹介します。