誰になんと言われようと、好きなものは好き。作品、俳優、監督、スタッフ……。ファン、オタクを自認する執筆陣が、映画にまつわる「わたしの推し」と「ワタシのこと」を、熱量高くつづります。
2023.9.28
心の奥底で蓋をして放置していた感情もいつか沸騰してあふれ出す「アンダーカレント」
人は痛みを経験した分、強くなるという。けど、私はそう思わない。人は痛みを経験した分、臆病になる。人は痛みを経験する度に、臆病な自分を隠すのがうまくなるのだ。取り繕う仮面ばかりが厚くなり、臆病なままの自分は何も変わっていないのに、なぜ大切な人にまで仮面を外すことができないのか。
人が誰しも持っている本当の自分と、本当の他人について考える映画「アンダーカレント」
家業の銭湯を継ぎ、夫の悟と穏やかな生活を送っていたかなえ。しかし、ある日突然、悟が失踪し、残されたかなえは途方に暮れていた。街の人々の要望もあり、休業していた銭湯を再開させた直後、堀と名乗る謎の男が住み込みで働かせてほしいとやって来る。かなえは堀との奇妙な共同生活を続けながら、友人から紹介されたうさん臭い探偵・山崎とともに悟を探していく。
タイトルの「アンダーカレント」という言葉は、潜流という海面下を流れる海流を指す意味の他に、発言の根底にある抑えられた感情や暗黙という意味を持つ。思ったことをそのまま口に出すことや、湧いてきた感情をそのまま発散させる人はなかなかいない。人間誰しも、誰も知る由がない言葉や感情を奥底に持っている。その上で、その「アンダーカレント」な感情を認知するべきか、否か。そんなことを問いかけられているような映画だった。
この作品は、何故その行動に至ったのか? そういった疑問を多くの登場人物に対して抱かせる作品だ。かなえの夫・悟の失踪理由。堀がかなえの元に来た理由。そして、かなえが頻繁に見る溺れる夢の原因。こういった理由や原因が、物語が進んでいくにつれて明かされていく。大切な人が突然自分から離れていったり、唐突な出会いが待ち受けていたり、こういった人との出会いと別れは映画の中だけでなく、現実世界でも繰り返される。その出会いと別れにどんな意味や意図が含まれているのか、人間は無性に知りたくなるものだ。だけど、もしかしたら知って傷つくこともあるかもしれない。でも多分、知らないというのが一番怖い。
私は、「アンダーカレント」に出てくる登場人物はみんな、何かを「嫌いにならないように頑張っている」んだな、と思った。それは愛する人に対してなのか、または自分自身に対してなのか。表面張力ギリギリであふれそうなこの感情になんとか蓋(ふた)をして生きているのだなと。
これは最近1人暮らししている私の家であった出来事だが、家族からもらった玉ねぎを冷蔵庫に入れずに真夏のキッチンに放置していたら、室内とは思えぬ量のこバエを発生させてしまったことがある。いつか玉ねぎを消費しなければ、片付けなければと思いつつ、ずっと処理を後回しにしていた結果、大量の玉ねぎを腐らせ、ハエの巣窟を生み出してしまったわけだ。あーあ、見て見ぬふりして現実から目を背けていても、結局苦しみのツケは自分に回ってくるのだと、大量のハエを見ながらしみじみ感じていた。そんなポエミーな思考を繰り広げている間にもハエは繁殖し、もっと後処理が大変になったことも今となっては良い経験だ。
ハエは置いといて、言いたかったことは、放置して腐った玉ねぎと一緒で、ずっと心の奥底で蓋をして放置していた感情もいつか沸騰してあふれ出してしまうということだ。「アンダーカレント」の今泉力哉監督は、「人とのコミュニケーションが希薄になるこの時代に送る映画」と語っていた。この言葉の意図を私なりに解釈すると、人と人とのコミュニケーションによって、沸騰してあふれ出してしまいそうな感情の火を弱めることもできるのではないかということだと思った。
他人と省エネでつながれる時代だからこそ、仮面をかぶった自分で接するのが楽な時代になったと思う。しかし、結局仮面をお互いにかぶったままの関係性なんて、互いのエゴの押し付け合いに過ぎない。相手の、そして自分の仮面を外して向き合う関係を築くとは一体どういうことなのか。
この作品を通して、自分の大切な人と、自分自身の「アンダーカレント」な感情に今一度向き合ってみてはいかがだろうか。