2021年に生誕90周年を迎えた高倉健は、昭和・平成にわたり205本の映画に出演しました。毎日新聞社は、3回忌の2016年から約2年全国10か所で追悼特別展「高倉健」を開催しました。その縁からひとシネマでは高倉健を次世代に語り継ぐ企画を随時掲載します。
Ken Takakura for the future generations.
神格化された高倉健より、健さんと慕われたあの姿を次世代に伝えられればと思っています。
2022.5.06
いわき市立美術館館長、杉浦友治さんが選んだ高倉健映画5選
「美術館から見た高倉健」と題して、追悼特別展「高倉健」巡回の美術館の学芸員から見た高倉健やその作品を語った記事を再掲載します。
3回目はいわき市立美術館館長(当時は副館長)、杉浦友治さんさん執筆の5回シリーズ一挙公開です。
「電光空手打ち」(1956年) 人柄浮かぶ手書きの文字
高倉健が生涯に出演した205本の映画すべてから、出演場面の抜粋映像を紹介し、初期から晩年にいたる演技や顔、しぐさなどの変遷を動画でたどるのがメイン展示です。また、スチール写真やポスター、高倉健が所蔵していた脚本36点も展示します。こうした貴重な資料からは、さまざまなことを考えさせられます。
初主演作「電光空手打ち」の脚本は半世紀以上前のもので、大切に保管していたことが分かります。一方、晩年の脚本では、項目ごとにインデックスが付けられ、その文字は丁寧に書かれています。
高倉健はスターになった後でも、初めて会うスタッフに対して自分から深々と頭を下げてあいさつするなど、礼儀正しい人格者として知られていました。脚本に書き込まれた手書きの文字からは、スクリーンの中の高倉健ではなく、人間・小田剛一(高倉健の本名)の姿が浮かび上がってきます。
脚本を見ると、情報量が意外と少ないと感じるかもしれません。俳優は限られた言葉からイメージを膨らませ、演技を考え、役作りをし、撮影に備えます。俳優になったつもりで演技を考えながら読んでみれば、俳優がいかにクリエーティブな表現者であるかが分かることでしょう。
2018年06月23日掲載
「非常線」(1958年) 現場で鍛えられて成長
高倉健はもともと俳優志望ではなく、役者の道を歩むことになったのは偶然でした。貿易の仕事がしたくて明治大学商学部に進みましたが、不況のため思い通りに就職できずにいる時、東映の幹部にスカウトされたのです。
当時、新人は俳優座の養成所で半年間、演技の勉強をすることになっていました。しかし、高倉健は全くの素人だったため、講師から「他の人の邪魔になるので、脇で見ていなさい。役者には向いていない」などと言われる始末。なのに2カ月もたたないうちに、翌1956年の映画での主演デビューが決まります。初めて顔にドーランを塗られた時には、身をやつした気がして涙があふれたそうです。
晩年、高倉健は「きちんとした演技指導を受けぬまま俳優になってしまったことに、コンプレックスを持っていた」と回想していますが、彼は戸惑いながら、一作品一作品、ベテランの監督らから現場で演技の指導を受け、体で覚えていったのです。
「非常線」(1958年)は、子役としての英才教育を受け、日本舞踊の所作を研究し、演技指導に定評のあった名匠・マキノ雅弘監督の作品に初めて出演した映画です。高倉健を手取り足取り教えたマキノ監督は、恩人といえる人です。初期の時代、現場で鍛えられながら、役者として育っていくのです。
2018年06月26日掲載
「昭和残俠伝 唐獅子牡丹」(1966年) 任俠映画ではまり役
日本映画の全盛期だった1950年代後半、大手映画会社6社は毎週およそ2本ずつの新作を公開します。新人だった高倉健も年間10本程度の映画に次々と出演しますが、役者としては模索期といえる時代でした。
60年代、映画産業はテレビの急速な普及とともに斜陽の時代を迎え、63年には観客数が最盛期の半分ほどになります。映画界はワイドな画面を取り入れるなど、テレビにはまねできない魅惑で観客に訴えようとします。
そんな中、64年のマキノ雅弘監督の「日本俠客伝(きょうかくでん)」で、任俠映画のスター高倉健が誕生します。三白眼で目つきのきつい顔はかつて「役者には向かない」と言われましたが、逆にその目力のある顔が任俠映画でははまり役となり、マキノ監督の演技指導もあって俳優として花開きます。
「昭和残俠伝」シリーズでは、最後に悪い親分を倒しに高倉健と池部良が命を賭して殴り込みをかけるのがお決まりとなっていました。耐えに耐え、強大な力に立ち向かう姿は、当時の学生運動に力を入れていた学生や高度経済成長時代にとり残された底辺労働者たちの共感を呼びます。深夜上映の映画館では彼らが熱狂し、拍手喝采しながら見ていたといいます。
今回の展覧会では美術家、横尾忠則氏の展示ディレクションにより、当時の予告編6本のループ映像を、同時に5台のプロジェクターで映写する空間を設けます。その頃の熱気や時代が伝わってくる映像空間です。
2018年07月04日掲載
「幸福の黄色いハンカチ」(1977年) 控えめな演技、リアリティー
任俠(にんきょう)映画のスターとなった高倉健でしたが、1970年代前半に任俠映画はマンネリ化し、人気が下火となります。そして、深作欣二監督の「仁義なき戦い」など暴力と策略による実録やくざ映画が受ける時代となる中、高倉健は役柄に行き詰まりを感じ、76年に東映を退社しフリーの俳優になります。
77年、松竹で「男はつらいよ」シリーズを撮っていた山田洋次監督と出会うと、それまでのイメージを破り、市井の不器用な男を演じる高倉健のかたちが生まれます。
これらの映画では、高倉健の演技は、演技をしていないかのように控えめで、素のようにも見えます。それは彼が「映画はドキュメンタリーである」と考え、役柄になりきろうとしているからです。
「幸福の黄色いハンカチ」(77年)では、刑務所を出所した後、食堂でラーメンとカツ丼を食べるシーンがあります。その撮影の前日、彼は絶食して撮影に臨みました。シャバでうまい飯を食うことを楽しみにしていた気持ちを体全体で表現しようとしたのです。
2001年の「ホタル」では、漁師の役づくりのため、撮影に入る前、沖縄の海で船酔いに苦しみながらも小型船舶の免許をひそかにとっています。そうした姿勢が映画に丸ごと反映されるのであり、リアリティーをこのような形で映画に込めようとした俳優は多くないことでしょう。
2018年07月05日掲載
「鉄道員(ぽっぽや)」(1999年) 立ち姿だけで存在感
東映時代に20年間で183本の映画に出演した高倉健ですが、フリーになってからは36年間で22本と大幅に減ります。特に1980年代後半以降は3年に1本のペース。その間、出演依頼がなかったのではなく、脚本を吟味して出る映画を選んでいたのです。
前の作品から5年ぶりとなる「鉄道員(ぽっぽや)」では、廃線となる鉄道の駅長を演じます。地味な役柄ですが、ホームに立つ姿だけでも絵になっており、存在感のある彼でなければ映画が成立しなかったのではないかと思わせます。
この作品で4度目の日本アカデミー賞最優秀主演男優賞のほか、モントリオール世界映画祭でも最優秀男優賞を受けます。審査委員長を務めたスウェーデン人の女優は「あれだけしゃべらないで、あれだけの演技ができて、人を感動させることのできる俳優は素晴らしい」と講評しました。彼の演技は日本だけでなく、世界でも評価されたのです。
この映画から7年後には、世界的に評価の高いチャン・イーモウ監督が高倉健主演で「単騎、千里を走る。」を製作し、名作となりました。中国人の素人を相手に高倉健は演じますが、映画が実際の出来事のように自然に感じられるのは、スターとしてお高くとまるのではなく、一人の人間として相手に真摯(しんし)にぶつかっていったからでしょう。もっともっといろいろな監督が撮る高倉健を見たかったという思いを抱く人が少なくない中、2014年に惜しまれながら世を去りました。
2018年07月07日掲載