藤原帰一・千葉大学特任教授が、新作や古今の名作の見方を豊富な知識を交えて軟らかく紹介します。
2023.10.26
社会と自分に潜む差別と暴力 人ごとではない「ヨーロッパ新世紀」:藤原帰一のいつでもシネマ
差別と迫害を捉えた映画です。すぐ映画を紹介しますが、ちょっとその前にお時間を取って、次の文章を考えてください。あの人たちと自分たちは違う。違いを言うことは区別であって、差別ではない。言論の自由があるんだから言ってもいいじゃないか。この言葉、どうお考えになりますか。
差別と迫害はどこから来るか
これだけじゃ抽象的だ、賛成も反対もできないとお思いでしょうか。では、「あの人たち」を「黒人」、「自分たち」を「(白人の)アメリカ人」に置き換えたらどうなるでしょう。これ、人種差別ですね。「あの人たち」を「ユダヤ人」、「自分たち」を「(ユダヤ系ではない)ドイツ人」に置き換えると、ナチスドイツのような言説になってしまいます。違いだけでなく、「自分たち」の社会から「あの人たち」を追い出せという文章になれば、差別と迫害はもう明確でしょう。
私は、日本語でもアフリカ系アメリカ人を黒人と書くことに抵抗があります。上の文章でも、カッコの中に(白人の)とか(ユダヤ系ではない)とか補いました。でも、このような言葉を自分から口にする人たちは、アフリカ系のアメリカ人はアメリカ人ではないとか、ユダヤ系のドイツ人はドイツ人ではないとか思ったりするんでしょう。
「ヨーロッパ新世紀」©Mobra Films-Why Not Productions-FilmGate Films-Film I Vest-France 3 Cinema 2022
遠ければ見えるのに近いと見えにくい
さて、「あの人たち」を「中国人」、「自分たち」を「日本人」と置き換えたらどうなるでしょう。「韓国人」、「(韓国系ではない)日本人」にした場合はいかがでしょう。表だって語られることは少ないでしょうが、中国人は日本人と違うとか、ソーシャルメディアなどでそんな言葉に出合うことは珍しくなくなりました。いまお読みになった方の中にも、その通りじゃないか、中国人と日本人は違うんだと思われた方がおいでになるかもしれません。
黒人と白人、ユダヤ人とドイツ人といった差別には反発しても、日本人と中国人や韓国人の違いになると受け入れる人が出てくる。自分の社会から遠いところを見るときには差別が見えやすいのに、自分の社会になると差別が見えにくい。自分の住む社会の差別を捉えることはとても難しいと思います。
ルーマニアの病変をえぐり出すムンジウ監督
この「ヨーロッパ新世紀」をつくったクリスティアン・ムンジウは、ルーマニアを代表する映画監督。差別を描くと言っても、自分の住む国における差別を取り上げているんですね。映画の原題は「R.M.N.」。これはルーマニア語でMRI(磁気共鳴画像化装置)、ほら、磁気を使って体内を画像で表示する検査ですね。映画のなかにも高齢の父親の脳のMRI検査画像を繰り返して見る男の姿が登場します。そして、内部に病変があるのはこの老父だけではありません。この映画は、MRIによって体内の画像を描くように、ルーマニア社会の内部に潜んでいる他者の排除、差別をえぐり出しています。
舞台はルーマニアのトランシルバニア地方の村です。トランシルバニアといえばブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」の舞台になったところですが、この地域にはハンガリー語を母語とする人がたくさん住んでおり、ルーマニア語を母語とする人、そして数は少ないけれどドイツ系、さらにかつてジプシーなどと差別的に呼ばれたロマの人々もいます。言語もハンガリー語、ルーマニア語、それにドイツ語や英語など、さまざま。映画の冒頭でも、ハンガリー語は黄色、ルーマニア語は白、そのほかの言語はピンク色の字幕で表示していると断り書きが出てきます。言語、民族、宗教が多様な村ですが、経済的には貧しい。ルーマニアの外に出稼ぎに行くことでなんとか生活を支えているという状態です。
男らしさに取りつかれたモラルなき男
主人公のマティアスもドイツに出稼ぎをしていますが、工場の上司に、怠惰なジプシーめ、と呼ばれたことで頭にきて、上司に暴行を働いてしまう。そのまま工場を離れ、ヒッチハイクをしてドイツからルーマニアの故郷に帰ります。差別発言をされたマティアスに観客は同情的な目を向けるところですが、いえいえ、このマティアス、ひどい人です。
マティアスの息子は森に行ったとき、なにか恐ろしいものを目撃したらしく、言葉を言わなくなったんですが、この息子については、もっと男らしく育てなくちゃだめじゃないかなんて、妻にしつこく言いつける。妻と子供がいながら村のパン工場で経営を任されているシーラがもとの恋人でして、このシーラを追い回す。男らしさのイメージに取りつかれているのにモラルはない男です。
外国人労働者排斥で一致する村人たち
さびれた村の経済を支えるのがパン工場なんですが、みんな出稼ぎに行っちゃったので、求人広告を出しても応募がない。欧州連合(EU)の補助金が必要なので、人材派遣業者に頼んで、外国人労働者を雇います。スリランカから来た人たちなんですが、そんな人を雇ったら村に外国人労働者があふれてしまう、この国から追い出せなんてメッセージがネット交流サービス(SNS)で流れ、外国人労働者追放を求める署名運動も始まります。とうとうシーラと労働者が食事をしているところに火炎瓶が放り込まれるなんて事態になります。
署名運動を受けて、村の文化センターで緊急集会が開かれます。この村の集会の場面が映画の山場でして、ワンショットのまま17分くらい続くんですが、もうひどい言葉でいっぱいでして、毎日食べるパンをこんな人たちにこねてもらいたくない、なんて感じ。よそ者の労働者を追い払うべく、村人が一緒になって訴えるわけです。
乾いた描写に徹した表現
感情移入をすることのできる人が出てこない、とっても冷たい映画です。監督のクリスティアン・ムンジウは、「4ヶ月、3週と2日」でカンヌ国際映画祭のパルムドールを受賞した人ですが、妊娠した友人の中絶を実現しようとあちこち駆け回るというこの映画も、音楽もなければクローズアップもなく、感情移入を拒むような乾いた表現によって、チャウシェスク政権のもとのルーマニア社会を描いた作品でした。最初に見たとき、その表現力にびっくりしたのをいまでも覚えていますが、ムンジウはその後もルーマニアを映画で捉える執念に取りつかれたかのように、「汚れなき祈り」や「エリザのために」などの作品を発表し、今度は、ルーマニアの村に潜む排外主義と偏見を描いたわけですね。
社会に潜む偏見と暴力を描く点において、この「ヨーロッパ新世紀」はミヒャエル・ハネケの「白いリボン」、あるいはタル・ベーラの「ヴェルクマイスター・ハーモニー」に共通するものを感じました。ハネケはオーストリア人、タル・ベーラはハンガリー人ですが、オーストリアもハンガリーもファシズムを経験した国ですね。それもナチによって外から持ち込まれたのではなく、オーストリアはもちろんのこと、ハンガリーにもルーマニアにもファシスト政党がありました。
日本に目を向ける機会に
ハンガリーの矢十字党やルーマニアの鉄衛団のように、その土地の政治組織によってユダヤ人排斥が進められたんです。偏見と暴力は外からくるのではなく自分たちの内部にあるという感覚、そして社会の表面の裏に隠された偏見と暴力が解き放たれ、社会を変えてしまうという恐怖が、ハネケ、タル・ベーラ、そしてこのムンジウの作品に共通して見られると思います。
人ごとではありません。冒頭にしつこく申し上げたように、ほかの人々の持つ差別や偏見は目につくかもしれませんが、自分たちのなかにある偏見と暴力については目を背ける人が少なくない。この映画をご覧になるとき、ルーマニアってたいへんなんだなと人ごとのように考えるのではなく、いまの世界、そして日本に潜む差別、偏見、暴力に目を向ける機会としていただければと思います。