藤原帰一・千葉大学特任教授が、新作や古今の名作の見方を豊富な知識を交えて軟らかく紹介します。
2023.6.15
正義は勝たない 現実映しハラスメントへの静かな怒り 「アシスタント」:いつでもシネマ
これまで#MeTooを取り上げた映画のなかで、もっとも優れた作品。といっても#MeTooって何、という方もおいででしょうから、ちょっとだけ説明を加えましょう。
権力を持つ者によって、本人の意志に反する性的加害が加えられた。権力を持った人は訴えられるとともに、性的加害が見過ごされることのないように法制度の整備が求められなければならないのですが、被害を受けた本人がそのことを訴えないか、あるいは訴えても相手にされず、多くの場合は沈黙を強制されてしまう。会社はもちろん、警察もマスメディアも相手にしてくれない。被害者はつらい立場に置かれてしまいます。
それが、被害経験を訴えた人が出てきて、マスメディアで報道されると、私もそんな目にあった、私もだと名乗り出る人が相次ぐような状況も起こります。ハーベイ・ワインスタイン事件の後、私もだ、#MeToo、というハッシュタグで知られるようになった運動はそのひとつでした。
ワインスタイン事件で広がった#MeToo
ハーベイ・ワインスタインといえば、ミラマックスとワインスタインカンパニーから優れた映画を発表してきた辣腕(らつわん)プロデューサーでした。ところがこの人、プロデューサーという立場を利用して、多くの女性に性的関係を強要してきた。配役を決める上でプロデューサーは中心的な役割を果たしますし、ワインスタインほど知られた人になると、言われたことに逆らうリスクが高すぎる。逆らった俳優はその映画に出演できなくなるだけではなく、映画業界から締め出される危険もある。実際にもワインスタインはもうこの世界では食べて行けなくなるぞという脅しを繰りかえしてきたと報道されています。
その行いは、「ニューヨーク・タイムズ」と「ニューヨーカー」の記事で暴露され、報道後にはほかの被害者が名乗り出ます。ワインスタインは刑事裁判ではニューヨークとロサンゼルスともに1審有罪判決、民事では巨額の賠償を求められますが、ワインスタインだけではありません。映画界一般、映画以外の業界、そしてアメリカ以外の諸国に#MeToo運動が広がりました。性的加害を許さない国際的な世論の形成です。
ハラスメントの加害者も被害者も出てこない
このコーナーでもご紹介した「SHE SAID/シー・セッド その名を暴け」をはじめとして、ワインスタイン事件は映画になってきました。映画界外の事件も、フォックスニュースのCEOだったロジャー・エイルズの性的加害を取り上げた「スキャンダル」のように映画化されています。今回ご紹介する「アシスタント」は名指しこそしていませんがワインスタイン事件に示唆を受けていることがはっきりしている映画。既視感たっぷりの二番煎じになりかねません。
でもこの「アシスタント」、既視感がありません。それどころか、社会問題を映画にするとオリジナリティーはどこかに飛んでいってしまうのが普通なんですが、こんな映画見たことないと驚かされるように独創的な表現。何よりも、新聞記者が犠牲者に重い口を開かせようと試みる「SHE SAID」のような正攻法の映画づくりと異なって、性的加害の加害者も、犠牲者も、映画には出てきません。出てくるのはオフィスで働くひとりの女性、そのほかにはいけ好かないオフィスの男たちだけ。事件は映画の舞台の外で起こるんです。
独裁プロデューサーの事務所で神経すり減らす主人公
夜明け前のニューヨークの町から映画は始まります。大物プロデューサーのアシスタントを務めるジェーンは、誰も来ないうちからオフィスを掃除して、備品を、そしてボスのスケジュールを確認する。同じ部屋で働く男たちはサボってばっかりで、ボスの奥さんからかかってきた電話の応対のような面倒な仕事はジェーンに押しつけるばかりです。
この映画、ボスはオフィスに来たときも隣の部屋にいて、映画に登場するのは電話など声だけなんですが、まあ粗暴というか無法というか、思いっきり勝手に決めつけて、頭ごなしにどなるだけ。ジェーンには荒っぽいオフィスの男たちもボスには平身低頭で、ボスが悪いときも(そしていつもボスが悪いんですが)ジェーンに謝れと強要します。ジェーンは映画界で活躍する夢を持ってこの会社に入ったのでしょうが、映画のなかでは神経がすり切れて、無表情の下で絶叫しているような状態です。
そのなかで、ジェーンが新しいアシスタントの手伝いを求められます。このアシスタント、仕事の経験はないのに、会社のお金で高級ホテルに宿泊するという。何が起こっているのかを察したジェーンは会社の人事部に報告しますが、そのおかげでこんな仕事、露骨にいえば情事の手配が会社の日常となっていることを知ります。
「不正見過ごさぬ」五分の魂の行く末
最初から最後まで不機嫌な映画です。ジュリア・ガーナーの演じるジェーンは感情を押し殺した無表情で終始するんですが、いわば落とし穴に落ちて、もがいている状態、いや、もがくのをあきらめて、自分では納得していないのに落とし穴のお掃除をしているような状態にあるんですね。
ですから我慢と諦めばっかりなんですが、性的加害を見過ごすのはおかしいという五分の魂はそれでも残されている。だから人事部への報告という行動も生まれてくるわけですが、それでも最初から諦めている。酷(ひど)いボスだ、酷い会社だ、酷い世界だという、最初からわかっている確信が、映画が進むにつれてさらにはっきりとし、出口はない、夢もないということを改めて自覚するんです。
観客にカタルシスを与えない
性的加害に焦点を置き、犠牲者の語りに目を向けるとき、加害を隠蔽(いんぺい)し続ける権力と不公正のリアリティーは表現の外に置かれてしまう危険があります。こんなことあってはいけないと映画が怒りをぶつけてくれると、見ている観客に安心感が提供されるんですね。映画のようなハッピーエンドがない世界に生きていることを私たちは知っているはずですが、不正への怒りがハッピーエンドに代わるカタルシスを与えてしまうだけです。
この「アシスタント」は、観客の代わりに怒ってもくれないし、カタルシスも与えてはくれません。だからこそ、リアリティーがある。正義は勝たない、弱い者は泣き寝入り、悪いやつはいつまでも悪いまま。それを突き放して描いたキティ・グリーン監督の冷えた怒りが感じられる作品です。
6月16日公開。