2021年に生誕90周年を迎えた高倉健は、昭和・平成にわたり205本の映画に出演しました。毎日新聞社は、3回忌の2016年から約2年全国10か所で追悼特別展「高倉健」を開催しました。その縁からひとシネマでは高倉健を次世代に語り継ぐ企画を随時掲載します。
Ken Takakura for the future generations.
神格化された高倉健より、健さんと慕われたあの姿を次世代に伝えられればと思っています。
2022.3.15
追悼特別展「高倉健」出演映画205本をまとめた職人の話その2
2016年、日本を代表する名優・高倉健の「追悼特別展」が東京ステーションギャラリーを皮切りに、2年かけて、本州をはじめ九州や北海道など全国10カ所を巡回した。この「追悼特別展」では、高倉健の出演映画205本が展示され、膨大な量の映像から厳選された特別映像も放映された。
西宮市大谷記念美術館展覧会の模様18年4月7日毎日動画より
その映像の編集を手掛けたのは映画予告界の大御所、“予告編専門ディレクター”の西川泉さん。インタビューの後編では特別展の思い出と俳優・高倉健の魅力について、「追悼特別展」の担当者と共に振り返る。
聞き手:宮脇祐介
まとめ:及川静
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モニターの前で立ち止まって、じっと食い入るように見ていた
――「追悼特別展 高倉健」は、どこでご覧になりましたか?
東京ステーションギャラリーで見ました。僕はただ編集しただけですが、自分が作ったものを多くの方が見てくださっていて、健さんって本当にすごいなと思いました。ご覧になる皆さんそれぞれに記憶のなかの健さんの姿があって、見た頃の青春時代の思い出やつらかったこと、悲しかったことも思い起こしているのではないかと思いました。皆さん、モニターの前で立ち止まって、じっと食い入るように見ていたので。
プログラムピクチャーの時代
――高倉さんの映像の横に年表を作ったのですが、そこに社会での出来事も入れたので、時代と映像をシンクロさせて見ていただけたのではないかと思います。特にいわき市立美術館(福島県)では学芸員が高倉さんの一生の年表をまとめました。東映時代はぎっしり詰まっていた仕事が、独立後にはぽつんぽつんとなって、仕事を選ばれていたことも伝わってきました。
独立以前はプログラムピクチャーで(*)、1年に10本以上出演していましたからね。
――当時は映画館で上映される作品本数がテレビ番組のように決まっていたので、その枠を埋めるために各映画会社がこぞって製作をしていたんですよね。
そうなんですよね。喜劇の「社長シリーズ」(森繁久弥)や「男はつらいよ」(渥美清)なども同じですね。
――会場にはプライベートの私物は一切置かず、脚本やポスターなど映画に関わる部分だけ展示したのですが、そこはいかがでしたか?
あまり気にならなかったです。健さんはオンとオフをしっかり分けられていましたしね。健さんは本当にプライベートを出しておられなくて、その一貫した姿勢が彼の存在をますます押し上げていったのだと思います。ただ、健さんも僕らと同じ人間で、母親を必ず心のどこかに持っているんですよね。「望郷子守唄」(1972年)で、警察に出頭する前に、健さんが年老いた母親を背負っていくところで心をグッとつかまれて、編集作業をしながら、涙がボタボタと落ちました(笑い)。
「勘弁してくれ」とわびを入れる
――「親にもらった体に墨を入れて、恥ずかしい」というようなセリフがありましたね。
そうです。「勘弁してくれ」とわびを入れるシーンがありました。それから、一人で殴り込みに行くシーンでは「死んでもいいんだ」という健さん独自の論理に男気があって、ああいうところにみんなが憧れたんだと思います。ただ、女性に対して、健さんのようなタイプの人は、今の時代は特にいないですよね。
――ぶっきらぼうというか、つれないんだけど、愛が伝わる感じの人。
そうそう。その不器用さがまた母性本能をくすぐるのでしょうね。私が世話してあげなきゃと思わせる。もちろん健さんはそれだけじゃなくて、器が大きい。親分や子分のために身をていして組織を守るなど、健さんが演じる役にはあらゆるものが詰まっていると思います。
――西川さんが個人的に見た高倉さんの映画で、お好きなものは?
現代劇では「幸福の黄色いハンカチ」(77年)です。共演(倍賞千恵子、桃井かおり、武田鉄矢、渥美清)もいいですし、映画のもとになったドーンの曲「幸せの黄色いリボン」も良く、印象に残っています。そして、「昭和残俠伝 血染めの唐獅子」(67年)などの任俠(にんきょう)ものは非現実ですけど、かっこいい健さんを見て、自分もあんなふうにかっこよくなれたらいいなと思いました。それから、独立してすぐに撮った「八甲田山」(77年)もすごい映画ですよね。
すごい映画
――コンピューターグラフィックスなしですからね。
しかも延べ3年かかった。八甲田山の寒さに何人か俳優が脱走したんですよね(笑い)。あまりにもつらかったんでしょうね。しかし、健さんはあの雪のなかで何時間も座らずにじっと待っていたという逸話がありますね。
――「南極物語」(83年)も本当に南極に行ってますからね。
南極ではすごいブリザードで、死にそうになったと聞きました。想像を絶する撮影ですよね。しかし、命を懸けているから、見る者にものすごく訴える作品になったのではないかと思います。
踊る健さん
――もし、もう一度、205本の作品の編集をしてほしいと言われたら、どうしますか?
一つの仕事を半年もかけてやる経験は初めてだったので達成感がありましたし、皆さんが喜んでくださった反響も届き、独特の歓喜が湧くお仕事でした。ですから、もし2度目があるのでしたら、前回と切り口を変えて作りたいです。前回、使用できずにキープしている部分もありますし、脇の俳優陣にスポットを当てたり、意外な健さんシリーズを作ることもできる。実は健さんは、おどけたシーンも多いんですよ。「ジャコ萬と鉄」(64年)や「網走番外地」(65年)でも踊っていますし。
「追悼特別展」が終わってから3年たちますが、色あせないものは色あせません。今回、自分が編集したものを改めて見たらやっぱり健さんはいいなと感じましたし、もう一度、美術館で見たいですね。
*プログラムピクチャー:日本映画全盛期、大手映画会社の下製作・配給・興行が一体となって、映画会社が決めた上映日程に沿って上映館を指定し上映する形態とそこで上映された映画を指す。