旧知の三船敏郎の「三船プロ創立15周年を祝うパーティ」出席のため来日し、帝国ホテルで記者会見中するアラン・ドロンと三船敏郎

旧知の三船敏郎の「三船プロ創立15周年を祝うパーティ」出席のため来日し、帝国ホテルで記者会見中するアラン・ドロンと三船敏郎1977年4月

2024.8.22

さらば美しき〝兄貴分〟 アラン・ドロンよ永遠に!

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ひとしねま

野島孝一

フランスの人気俳優、アラン・ドロンが亡くなった。88歳だった。私はドロンのインタビューをしたことがない。イブ・モンタンには会っているというのに。フランス映画はアメリカ映画に比べ、宣伝にもあまり金をかけず、スターが来日することも少なかった。ただ、会えてはいなかったが、アラン・ドロンは私の中では重要人物だった。

眉間のしわも美しかった

年齢的に近いということがある。私より6歳上ということは、兄貴分と言ってもよい。私が高校生から大学生という映画フリーク時代に「太陽がいっぱい」(ルネ・クレマン監督)は、まぶし過ぎた。ドロンの美男子ぶりは、早逝したジェームス・ディーンを凌駕(りょうが)するほどで、眉間(みけん)のしわさえも魅力的に見えた。「あんなふうにしわを作りたい」と鏡を見たものだ。共演したマリー・ラフォレもすこぶる美しかった。ギターを弾きながら歌うシーンにしびれた。そのマリー・ラフォレも2019年11月に80歳で亡くなり、ショックを受けた。

「太陽がいっぱい」でドロンは大スターになったが、貧しい青年のトムが富豪に成りすますという強烈な役柄が後を引いたという気がする。トムの卑しさのようなものが、ドロンに重ねられてしまった懸念があった。ただでさえやっかまれるドロンが「恋ひとすじに」で共演したロミー・シュナイダーと駆け落ち同様の熱愛に走ったからたまらない。「プリンセス・シシー」でドイツの清純派女優として人気があったシュナイダーはバッシングされ、後に不遇の死を迎えることになる。

ドロンにとって幸運だったのは、ルキノ・ビスコンティ監督の「若者のすべて」「山猫」に立て続けに出演できたことだろう。「ただの二枚目俳優ではない」と<名優>として一目置かれる立場になった。クレマン監督の「生きる歓び」、アンリ・ベルヌイユ監督の「地下室のメロディー」では貫禄すら感じさせた。そして、ジャン・ピエール・メルビル監督の「サムライ」がクールだったこと! あれ以来、ドロンのイメージが変わったね。

日本では「永遠の美青年」みたいなイメージがずっと持続した。テレビで洋服のコマーシャルに出続けた影響も強かった。晩年は監督もしたし、主演作品も公開されていたが、あまり日本でヒットした記憶はない。年老いたアラン・ドロンなんか見たくない、というファン心理が働いたのかもしれない。

ジャンポール・ベルモンドと双璧

ドロンと比べられることが多いのが、ジャンポール・ベルモンドだ。フランスではドロンより人気があったという。ベルモンドは1933年生まれ、ドロンは35年生まれで年齢も近かった。無名時代のドロンは57年に「黙って抱いて」という作品でベルモンドと共演したらしい。ベルモンドがジャンリュック・ゴダール監督の「勝手にしやがれ」に出て、公開されたのが60年、ドロンの「太陽がいっぱい」も60年に公開されている。ベルモンドはその後もゴダールの「気狂いピエロ」に出てからアクションに方向転換した。そのベルモンドも2021年9月に亡くなった。

一人ずつ名優たちが消えてゆき、そしてだれもいなくなる――のかな? 

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ライター
ひとしねま

野島孝一

のじま・こういち 1941年9月生まれ。上智大新聞学科卒。64年毎日新聞社に記者として入社。岡山、京都支局を経て東京本社社会部、学芸部で映画担当記者。2001年定年退社。フリーの映画ジャーナリストになる。著書に「映画の現場に逢いたくて」(現代書館)、週刊エコノミスト、ウェブサイト「野島孝一の試写室ぶうらぶら」執筆中。

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  • 鎌倉市の川喜多邸を訪れたアラン・ドロン(左)と川喜多かしこ東和映画副社長(右)、川喜多和子
  • 来日し、記者会見する(左から)アレキサンドラ・スチュワルト、フランソワーズ・ブリヨン、アラン・ドロン、マリー・ラフォレ、セルジュ・ブールニョギン監督
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