分かりやすく誰もが楽しめるわけではないけれど、キラリと光る、心に刺さる作品は、小さな規模の映画にあったりする。志を持った作り手や上映する映画館がなかったら、映画の多様性は失われてしまうだろう。コロナ禍で特に深刻な影響を受けたのが、そんな映画の担い手たちだ。ひとシネマは、インディペンデントの心意気を持った、個性ある作品と映画館を応援します。がんばれ、インディースピリット!
2022.8.25
ファムファタール幻想を打ち砕く生身の女 「ストーリー・オブ・マイ・ワイフ」 矢田部吉彦
現代ハンガリー映画界を代表する存在のひとりであるイルディコー・エニェディ監督は、夢を現実のように、そして現実を夢のように描く作家だ。彼女にカンヌ国際映画祭の新人監督賞「カメラドール」をもたらした「私の20世紀」(1989年)では、星がささやき、モノクロ画面とアイリス・イン/アウトを駆使した幻想的なサイレント映画の世界観の中で、性格が正反対の双子の女性の運命がつづられていた。奔放と貞淑を体現するふたりを待ち受けるのはどんな世界だろうか。価値観の転換点となるべき20世紀の到来への現実的な期待と不安を、非現実的なタッチで描くエニェディ監督の鋭利なセンスは、処女長編で十分に感じることができる。
夢と現実 交錯させるエニェディ監督
「心と体と」(2017年)は、夢そのものが重要な柱になる。幻想的な表現はなく、リアリズムの描写の中で夢を媒介にした愛の物語が語られる。同じ(寝ている時に見る)夢を見ていると気付いた男女が、年齢やバックグラウンドの著しい差異にもかかわらず、魂の根底の部分で通じ合い、愛し合うようになる物語である。同じ夢を見るという設定だけで十分に面白い作品であるが(ベルリン国際映画祭で最高賞を受賞している)、今どき珍しいほどストレートに人間関係の可能性とその効果に信頼を置き、すがすがしい感動をもたらす傑作であった。
4年ぶりに届けられた新作「ストーリー・オブ・マイ・ワイフ」では、エニェディ監督は前作とは趣向を変えつつ、夢/ファンタジーと現実を交錯させてみせる。ファンタジーを生きる主人公が抱く幻想が、現在の社会が重視する主題を照射することになる物語をつづっている。
1920年代とおぼしき時代。中年男性のヤコブは遠洋貨物船の船長であり、体調不良を相談したコックから結婚すると健康に良いと聞かされ、陸のカフェで最初に入ってきた女性と結婚すると知人に告げ、実行に移す。するとミステリアスで若く美しい女性リジーは、その場で結婚を承諾する。
「心と体と」反転させた同床異夢
この設定は十分にファンタジーだ。海上や船のフォルムは幻想的に美しい。円形の船窓から向こう側をのぞくようなショットはアイリス・イン/アウトを連想させ、エニェディ監督のサイレント映画へのノスタルジアが漂う。どこか現実離れした浮遊感でスタートする作品は、若き青年船員たちに囲まれたホモソーシャルな世界への安住を破ったヤコブが、おとぎ話的に出会ったリジーと送る生活の顚末(てんまつ)を追っていく。
作品は全編ヤコブの視点で描かれ、彼の登場しないシーンは無い。リジーとの関係は奇跡的にうまくスタートするが、ヤコブが長旅で留守にしている時、リジーが何をしているのかは、全く分からない。長期不在と短期滞在が繰り返される結果、夫婦関係はどうなるか。疑念に駆られるヤコブはリジーをひとりにすることを恐れるあまり、船を下りることさえ決心する。しかし同じベッドに寝ていても、ヤコブが見るのは海と水平線の夢であり、リジーと同じ夢は見られない。この状況はまさに「心と体と」の裏返しだ。
本作は、奇跡は残念ながら長続きせず、やがて壊れていく夫婦の愛をさまざまなアップダウンを描きながら紡いでいくラブストーリーであるが、誤読を誘うトリックが巧妙に仕掛けられていることが見過ごせない。
1920年代を舞台にした反マチズモ
ヤコブはそれなりに誠実な人物であり、船長としての腕も良く、尊敬に値する好ましい男性として感情移入することができる。そのヤコブの視線に寄り添う限り、リジーの心は読めず、疑ってしまう気持ちも分からないではない。しかしヤコブの視点から少し離れてみると、事態はいささか異なって見えてくる。
そもそも、ヤコブの抱く最初の幻想は、「男らしさ」幻想だ。ホモソーシャルな環境で生きる海の男として、「男らしく」あることが身に染み付いている。しかしエニェディ監督は20年代を舞台とするこのドラマに現代的な視点を盛り込み、「男らしさ」幻想を無効化する。火災に見舞われた船の運命を託されたヤコブは、プレッシャーのあまり嘔吐(おうと)してしまうのである。
さらに「男らしさ」幻想にとらわれるヤコブは、寛容な態度を取ろうと妻への疑惑を隠して接するが、そこでコミュニケーションは決定的に不能に陥ってしまう。マチズモ幻想やコミュニケーションの不可能性といった現代的な事象がここに明確に浮かび上がってくる。
古典的恋愛劇に現代の視点
ヤコブは、嫉妬と疑念の塊となり、目がくらんでゆく。リジーはなまめかしい魔性の女にしか見えなくなる。映画的には、ここでファムファタールという形容が用いられもしよう。実際に、ミステリアスで、思わせぶりで、本音が読みにくいリジーをレア・セドゥが絶妙に演じ、エニェディ監督がそのように演出しているので、誘導されてしまいそうになる。
しかし、ここは違う。映画の描くリジーのイメージ自体が、ヤコブの幻想なのである。男を破滅させる魔性の女としてのファムファタールは、男性の負のファンタジーの産物だ。リジーはヤコブを破滅させなどしない。ヤコブは徹頭徹尾、完璧なまでに「自滅」するのである。ファムファタール幻想はここで消滅し、リジーはあくまで生身の女性として存在していることに気付かされる。
一見クラシカルで甘美ですらあるラブストーリーの背後に、エニェディ監督はアクチュアルな視点を取り入れている。ファンタジーの中で主人公が抱く幻想は、ゆがんだ現実として現代に届く。「ストーリー・オブ・マイ・ワイフ」こそは、夢を現実のように、そして現実を夢のように描くエニェディ監督の会心の作品だ。
インタビュー:愛憎うずまく万華鏡にようこそ「ストーリー・オブ・マイ・ワイフ」 イルディコー・エニェディ監督
シネマの週末 この1本:「ストーリー・オブ・マイ・ワイフ」 愛の遍歴 重厚、精緻に