戦友の遺骨を抱いて出撃する陸軍特攻隊員=1945年4月

戦友の遺骨を抱いて出撃する陸軍特攻隊員=1945年4月

2024.1.23

元特攻兵を取材した記者が見た「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」 特攻は〝作戦の外道〟 彰が身を投じた無謀な体当たり

誰になんと言われようと、好きなものは好き。作品、俳優、監督、スタッフ……。ファン、オタクを自認する執筆陣が、映画にまつわる「わたしの推し」と「ワタシのこと」を、熱量高くつづります。

栗原俊雄

栗原俊雄

第二次世界大戦末期の1944年、大日本帝国の特別攻撃隊=特攻が始まった。そこから80年の今、特攻をテーマにした「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」がヒットしている。私は実際に特攻に出撃し、生還した元兵士たちに直接会って話を聞いてきた。作品を見る前、「特攻隊員=大切な人、大切な国を守るために自らの意志で犠牲になった若者たち」という「英霊史観」に基づいた、特攻礼賛一辺倒の物語と予想していた。だが、予想は外れた。映画が描いた特攻とは何か、理解を助けるべく振り返りたい。


敗戦2カ月前にタイムスリップした女子高生

主人公・加納百合(福原遥)は現代の高校女子3年生。45年6月、つまり大日本帝国敗戦まで2カ月前にタイムスリップする。慌てふためく百合を偶然通りかかった佐久間彰(水上恒司)が助けたことから交流が始まる。彰は陸軍の特攻隊員だ。隊員仲間とともに、百合が勤め始めた食堂に通い詰める。「未来」を知っている百合は、「日本は負ける」と言って憲兵ににらまれ、戦争を生き延びることを「生き恥」と表現した相手に「生きていることが恥なんておかしい」と反論する。彰を説得して引き留めようとするが、仲間とともに笑顔で飛び立っていく――。

「十死零生」の非情な「作戦」

大日本帝国の時代の特攻と言えば、多くの人が思い浮かべるのが爆弾を搭載した航空機が搭乗員もろとも敵艦に体当たりする「航空特攻」だろう。「あの花」もこれである。成功すれば、兵士は必ず死ぬ。「九死に一生」でさえなく、「十死零生」である。「戦争なんだから当然でしょう」と思う人がいるだろうか。だが通常、航空機による攻撃は、爆弾もしくは魚雷を敵艦に当てて帰ってくることが前提だ。いかに戦時中といえども「死んでこい」という命令はあってはならない。兵士の士気が下がるのは当然であり、戦力が低下するのは必然である。

さらに言えば、人材面でも特攻は戦略的に見合わない。兵士が搭乗員として独り立ちするまでには、膨大な時間が必要だった。300飛行時間では何とか飛ぶことができる程度で、「人間で言えばヨチヨチ歩きの段階」(小沢郁郎著「つらい真実・虚構の特攻隊神話」)であった。毎日3時間飛んで、100日もかけて、何とか赤ちゃんのようなヨチヨチ歩きができるようになる。その間、当時「血の一滴」と言われた航空燃料も相当に費やす。長い時間と貴重な燃料を費やして育てた搭乗員が、一瞬で死ぬ。貴重な機体も失う(当時は深刻な航空機不足だった)。しかも戦果も、特攻を推進した軍幹部が期待したほど上がらず、敵艦に体当たりするどころか近付くことさえ困難になっていった。


©️2023「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」製作委員会

圧倒的な物量差 連合国軍に太刀打ちできず

なぜ、そんな「作戦」を始めたのか。どうして継続したのか。端的に言えば、前述の通常作戦では米軍をはじめとする連合国軍に太刀打ちできなくなったからだ。たとえば零戦。開戦後しばらくは米軍機を圧倒した。しかし、米軍は新鋭の戦闘機を投入して零戦の弱点である防御力の弱さを突き、形勢は逆転していった。日本側は戦闘機をモデルチェンジする国力がなく、最後まで零戦頼みだった。さらに戦闘が長期化すると搭乗員不足が深刻になった。戦局が悪化し制空権、制海権を失うと南方から石油などの戦略物資を確保することが難しくなった。
 
そうした中で44年6月、日本の連合艦隊は航空母艦9隻を中心とする機動部隊で、米軍の機動部隊に挑んだ(マリアナ沖海戦)。マリアナ諸島、サイパンに上陸した米軍を撃退するためだった。同諸島を占領されると米戦略爆撃機B29による、日本本土爆撃が可能になる。日本としては失ってはならない場所だった。
 
大日本帝国の命運を握っていた機動部隊は、開戦以来最多となる500機近くで正攻法の攻撃をしかけた。だが米空母1隻すら沈めることができなかった。しかも最新鋭空母にして旗艦だった「大鳳」と真珠湾以来歴戦の「翔鶴」など空母3隻とほとんどの航空機を失った。圧倒的な物量の差(同海戦で米軍が展開した空母は15隻)と、レーダーなど科学・技術力の差からも日本軍の敗色は濃厚だった。そして同年10月。米軍は日本が占領していたフィリピンに襲いかかった。


5機の零戦で米空母撃沈の「大戦果」

特攻はこのフィリピン戦線で始まった。最初の特攻隊を送り出したのは大西滝治郎・海軍中将だ。最初の特攻機は零戦5機。軽量で身軽さが武器の零戦に250キロの爆弾を抱かせ(爆装)、米護衛空母1隻を撃沈し、1隻を大破させる戦果を上げた。通常の作戦では、空母を撃沈するどころか近付くことさえ困難になっていた。そんな戦況の中でたった5機の零戦が、小型とはいえ敵空母を沈めたことは「大戦果」だった。大西は特攻隊を「統率の外道」、すなわち本来はしてはいけない「作戦」と認識していたのだが、特攻の「効果」が証明されたことで「外道」が「通常の作戦」となっていった。彰たちが所属していた陸軍も、フィリピンで航空特攻を始めた。

しかし、米軍はフィリピン制圧を進め、主戦場は沖縄方面に移った。特攻は主に南九州の基地を拠点として展開していった。映画の舞台も、そうとは明示されていないが、私の見る限り鹿児島県・知覧にあった特攻基地がモデルとなっているようだ。

死ににいくのに「おめでとう」って

百合のいる食堂や松坂慶子演じるおかみにも、モデルがあると思われる。鳥浜トメさんが営んでいた「富屋食堂」だ。知覧飛行場の少年飛行兵が通い、鳥浜さんは家財を売って食材を集め、隊員にごちそうを振る舞ったという。鳥浜さんは「特攻の母」と呼ばれ、高倉健主演の映画「ホタル」にも登場する。

彰たち5人の隊員は、ここで最期の宴で杯を交わし、「同期の桜」を歌う。「出撃命令が出ました」という隊員に、食堂のおかみは声を震わせながら「おめでとうございます」と返す。当時の状況からすれば、こうした場面が実際にあったことは想像に難くない。しかし現代の感覚からすれば、百合の「『おめでとう』『ありがとうございます』。死ににいくんだよ。使い方まちがってるじゃん」というつぶやきの方がまっとうだろう。

映画では、1人が出撃前に逃亡を図り、見つけた彰に懇願する。「どうか見逃してください」。死ぬ覚悟はしていたが、16歳の婚約者が空襲に遭い、「一生歩けない体」になってしまったことで気持ちが変わったのだ。彰は「俺たちは自分たちで志願してきたんじゃないか」と「説得」する。「志願」した特攻隊員は確かにいた。しかし「志願」しなかった特攻隊員もたくさんいた。そうした事情は、稿を改めて見ていきたい。

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ライター
栗原俊雄

栗原俊雄

くりはら・としお 1967年生まれ、毎日新聞専門記者。2003年から学芸部。専門は戦後補償史、日本近現代史。07年からシベリア抑留体験者や遺族に取材を続けている。08年にはシベリアでの墓参に参加。著書に「シベリア抑留 未完の悲劇」(岩波新書)、「シベリア抑留 最後の帰還者 家族をつないだ52通のハガキ」(角川新書)など。

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  • 特攻②婦人会から贈られた人形と共に沖縄へ出撃する特攻隊員
  • 特攻①女学生に見送られて出撃する特攻機。陸軍特別攻撃隊振武隊の出撃。桜の小枝を振って見送る女子挺身隊
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