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2024.1.27
元特攻兵を取材した記者が見た「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」2 若い命を捨て駒にした指揮官たち
ヒット中の映画「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」で、特攻隊員の佐久間彰(水上恒司)らは、自らの意志で特攻に行く。2023年からタイムスリップして来た高校生の主人公、加納百合(福原遥)は、佐久間を止めようとするものの「志願した」と言われて言葉を失う。特攻は「十死零生」、作戦とも言えない無謀な作戦だった。「国や家族を守るため、自ら犠牲になった英霊」という評価もあるものの、百合ならずとも「信じられない」と思う人は多いのではないか。
飛び立ったのは自らの意志だったのか
私は実際に特攻に出撃し、生還した多数の元兵士たちに直接会って取材してきた。その取材から言えるのは「自らの意志で征(い)った兵士はいた。しかし、そうではない兵士も確かにいた」ということだ。「愛する人のため、国のために命をささげた」。特攻にそういう一面があるのは事実だが、すべてではない。特攻隊員を「英霊」とひとくくりにしてしまうと、無責任で恥知らずな指揮官や、勝てるはずのない戦争を始めた為政者たちの責任が見えなくなってしまう。
拙稿「元特攻兵を取材した記者が見た「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」 特攻は〝作戦の外道〟 彰が身を投じた無謀な体当たり」では、特攻が立案された背景と、その非道さを報告した。今回は、特攻の内情について見てみよう。その実態を知れば、映画をより深く味わうことができると思う。
爆弾をつけた初めて、そして最後の飛行
私の見るところ、映画の舞台は陸軍の特攻基地があった鹿児島県・知覧と思われる。また、映画はその知覧の特攻をルポした高木俊朗の名著「特攻基地 知覧」(角川文庫)を参考にしているようだ。高木は早稲田大卒業後、松竹に入社して1939年に陸軍報道班員となり、マレーシアなどを経て知覧に渡った。当時の状況をこう伝える。
<陸軍の特別攻撃隊の飛行機は、この飛行場から沖縄に向って出撃した。(中略)特攻機の機種はさまざまであったが、どの飛行機も、機体に二百五十キロの爆弾をつけていた。操縦者の大部分は飛行経験がすくなく、爆弾をつけて飛ぶのは、その時が最初であった。そして、それが、ほとんどの最後の飛行となった>
米軍は作戦の成功=兵士の死となる「死んでこい作戦」を想定していなかった。だが日本軍の意図を知り対応を進めた。レーダー網を活用して迎撃態勢を整備した。特攻機の目標である航空母艦のはるか前に、戦闘機や護衛艦を配備した。特攻機は目標に体当たりするどころか、近付くことさえ困難になった。
また特攻隊員の技量不足も、戦果が上がらない要因だったと思われる。航空燃料の不足などで訓練が不十分なまま特攻に出撃した兵士にとって、目印の少ない海上を飛び続けて敵にたどり着くこと自体が容易ではなかった。彰は果たして、目標の敵艦を目にできたのだろうか?
©️2023「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」製作委員会
「後に続く」鼓舞した指揮官の取った行動
映画では、百合が勤め始めた食堂に通う彰たち5人の特攻隊員うち、1人が出撃前に逃亡を図る。婚約者が空襲で「一生歩けない体」になり、そばにいてやらねばと思ったのだ。彰は「俺たちは自分たちで志願してきたんじゃないか」と「説得」するが、その決意が固いことを知って見逃すことになる。
実際の特攻隊員の中には、飛び立った後にも、「機体の故障」を理由に何度も帰って来る兵士もいた。特攻に動員された機体の中には使い古された旧式機も多く、エンジントラブルが続出したことも事実だ。だがそうではなく、後に残る人を思い死にきれない兵士もいた。実例は前掲の「特攻基地 知覧」を参照してほしい。
また映画の中で別の隊員、加藤は、軍人である父親が敵前逃亡し、自分が特攻に加わることでその汚名をそそごうと躍起になっているという設定だ。加藤の父親のモデルかどうかは不明だが、実際に「戦場から逃げた」とされる特攻隊指揮官がいた。富永恭次陸軍中将だ。フィリピンで特攻を指揮した富永は、隊員たちを鼓舞するためか日本刀を持って飛行場に立ち、「自分も必ず後に続く」と約束して送り出した=トップ画像参照。
しかしその富永は、44年12月、上層部に自らの更迭を申し出た。それは却下されたが翌45年1月、許可がないまま台湾に渡ってしまった。4カ月後の5月、予備役に編入。事実上の「クビ」であった。戦争を始めた大日本帝国の為政者たちは、自身は戦場の最前線には行かなかった。そして最前線で特攻隊員を送り出した指揮官たちの多くも、自身は特攻しなかった。組織的地位の高い者ほど戦場から遠くにいて生き延びる。地位の低い者たちが命を落とす。それが大日本帝国の戦争であり、特攻はその典型だった。
航空特攻より戦死者が多かった水上特攻
さて映画では、「全特攻戦死者3948人」とされる。戦史研究によればおおむね妥当な数字ではある。ただ、これは航空特攻に限った話だ。「特攻」は他にもあった。たとえば戦艦「大和」特攻艦隊だ。
45年4月1日、米軍が沖縄本島に上陸した。同6日、沖縄の日本軍守備隊と連携して米軍を撃破すべく、「大和」以下10隻の特攻艦隊が連合艦隊から「海上特攻隊」の命令を受け、沖縄に向けて山口県・徳山沖を出撃した。連合艦隊の命令は、「片道燃料」であった。実際は現場の判断で往復可能な分が積まれたのだが、まさに「死んでこい」という「特攻」であった。
制空権も制海権も米軍が握っている状況で、沖縄にたどり着くことさえ奇跡に近かった。たどり着いたとしても、沖縄近海の膨大な米艦船群をたった10隻の艦隊が撃破するなど、奇跡そのものだ。
戦果は二の次「さきがけになってくれ」
だから特攻艦隊の司令長官だった伊藤整一中将は納得しなかった。それでも連合艦隊側から「要するに1億総特攻のさきがけになってもらいたい」と説得され、「それなら分かった」と同意した。つまり戦果は二の次、特攻自体が目的になっていたのだ。
出航の翌7日、米軍機の波状攻撃により、沖縄のはるか手前で「大和」以下6隻が撃沈された。大和の乗員3332人のうち、生き残ったのは1割に満たなかった。艦隊全体では計4000人以上が戦死した。つまり44年10月から45年8月まで半年間続いた航空特攻の戦死者に匹敵する人数が、たった1日で戦死してしまったのだ。
私は「大和」艦隊から生還した兵士22人に直接会って話を聞いた。上官から「特攻するかどうか」と聞かれた人は、ただの1人もいなかった。特攻は兵士の意志など関係ない、通常の「作戦」だったのだ。
本当の特攻、戦争を知るきっかけに
百合の父親は、溺れている他人の子どもを助けて命を落とした。経済的苦境を知る百合は「大学に行かない」とかたくなだ。母親は父親を「正義感の強い人だった」とほめたたえるものの、割り切れない。「家族をこんな目にあわせて人のために死んでる場合? 英雄気取りかよ。父親失格じゃん!」
タイムスリップした百合は、教師になるという目標、そして百合への思いを告白できないまま飛び立つ彰を見送ることになる。「百合。生きてくれ。人と人が傷つけあわず、一緒に笑って暮らせる未来を、平和で笑顔の絶えない未来を、一生懸命生きてくれ」という遺書が残される。現代に帰った百合は、とある場所で彰の戦死を知る。そしてふっきれたように、「大学に行かせてください」と母に告げる。教師になるべく――。
戦死した彰たち特攻隊員の分まで、懸命に生きよう。そういう意志が伝わってくる。この映画が特攻の全容、戦争の本質を知るきっかけになればと願う。
【参考文献】「特攻 戦争と日本人」(栗原俊雄著・中公新書)
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