「ありふれた教室」©ifProductions Judith Kaufmann© if… roductionsZDFarte MMXXII

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2024.5.18

「ありふれた教室」若手教師はなぜ学校で孤立したのか 教育学部生が考えた解決策

誰になんと言われようと、好きなものは好き。作品、俳優、監督、スタッフ……。ファン、オタクを自認する執筆陣が、映画にまつわる「わたしの推し」と「ワタシのこと」を、熱量高くつづります。

井上亜美

井上亜美

学校は社会の縮図だと、学校教育について学ぶ中で実感する。多様性も負の側面も内包するからこそ、学校はあらゆる理不尽や差異と根気強く向き合わなければならない場になる。そんな学校が、「ありふれた教室」では生徒にも教員にも不寛容な場所になってしまった。主人公のカーラは、理想の教師であろうとするほど、生徒や同僚、親の信用を失っていく。教員は学校という入り組んだ社会で、どうあるべきなのか。教育に関心を寄せる学生として気になった。


盗難事件の犯人捜しが招いた危機

若手教師のカーラ(レオニー・ベネシュ)は仕事熱心で正義感も強く、生徒や同僚とも順調に信頼関係を築いていた。だが、盗難事件が頻発するなど、校内には不穏な空気が漂う。誘導尋問や授業中の抜き打ち検査など、生徒に対する学校の調査はどんどん強引になり、カーラの教え子が疑われる事態に発展する。独自に犯人を捜そうとしたカーラは、職員室にカメラを仕掛け、財布を残して席を外す。戻ってみると財布からお金がなくなり、上着を探る腕が映っていた。映像と同じ柄の服を着ていた職員を疑うものの、犯人扱いされた職員も黙ってはいない。決定的な証拠がないまま職員は学校から追いやられ、盗撮まがいのカーラの手法は批判される。カーラは保護者、生徒、同僚から疑いの目を向けられ、孤立無援状態に陥る。生徒たちの間にも動揺が広がっていく。ドイツ映画賞で作品賞などを受賞したほか、米アカデミー賞国際長編映画賞にもノミネートされた、注目の作品だ。

盗難事件の犯人を捜すサスペンス調の物語だが、終始フォーカスが当たっているのは学校と教員のあり方のように感じた。教員にとって、教え子たちは仕事として接する人々であり、学校は所属する組織だ。一方で教員は、教室の子どもの特性、学級の特徴などを熟知し、カリキュラムや学習環境をつくる。教育学的には、教員は「ひとりひとりの学びが成立する」という目的の追求や、学習環境のコーディネーターとして位置付けられる。物語の舞台であるドイツも、制度の違いはあれ、考え方はおおむね一致しているだろう。


学校と教え子の間で身動きできず

教員として生徒の権利や意思を尊重しつつ、組織の一員として秩序維持に腐心するカーラを見ていると、学校の上司や保護者らの権力と、教え子たちの間で身動きできなくなっている状況が浮かび上がってくる。やがて、教室では生徒たちが団結してカーラと対峙(たいじ)するようになり、学級のコントロールも困難に。保護者もカーラに不信の目を向ける。不安や疑いが入り交じり、カーラは意思疎通をはかる余裕もない。

校内には、人種が多様で幅広い年齢の生徒がいる。人権意識について、高い関心やリテラシーを持っている生徒もいる。学校新聞は「知る権利」を掲げ盗難事件をスキャンダルとして報じる。学校側も、職員会議に生徒を出席させて、発言の機会を与えていた。日本の教育現場ではあまり一般的ではない光景だと思った。人権問題が絶えず議論されているドイツらしさも感じられる。

だが作中では、校長は不寛容方式を掲げ、学校新聞は発禁処分に。もっと議論を挟めたはずの過程がそぎ落とされている。これでは問題を鎮静化させるだけで、解決にはならないと思った。組織の統制のために個人の自由を制限せざるをえないことは理解できるが、対話なき決定は溝を作る。カーラも学校の方針に違和感を持つが、対話と検証を怠っているのは彼女にも言えることだ。盗難問題に教員として対応するのであれば、きちんと記録を残し、過去のノウハウを参考にしながらチームで対処する選択肢もあったように思う。個人に理想や正義感があっても、対話がなければ信条が相手に伝わることはない。1人の正義感では何も変えられない状況は、リアリティーがある。


多様性のある社会ほど寛容さを失う逆説

エンディングの状況を一言でまとめるなら「板挟み」。カーラの正義感は揺るがず、学校側の厳格な姿勢も変わらない。生徒や保護者との信頼関係も回復しない。ひとつの狭いコミュニティーで関わりを持ちながらも、皆がパラレルの関係だ。ここに、問題解決の難しさを感じた。真実に近づこうとしただけなのに、救いがない。映画には、事態の打開方法として問題生徒の転校やクラス替えの案が出る場面があった。私も同様の案やケアマネジャーの配置などの対策が頭をよぎったが、集団の再構成や個別対応は対処の方法が増えるだけで、抜本的な解決にはならない。映画の中で、カーラが問題生徒の転校やクラス解体を拒んだのは、それを理解していたからだろう。

カーラはどうすべきだったのか。教育学の考え方を参考にしながら解決の糸口を探ろうとするも、答えのない問題だと痛感する。教師は集団にとってのベターを重視すべきなのか、正義を追い求めるべきなのか。個人の責任感や使命感が、空間全体の居心地を必ずしも良くするわけではない。多様性のある社会ほど、まとまりを保つこと、万人に寛容な空間であることは難しくなっていくと逆説的に示されている気がする。映画は99分で終わっても、複雑な後味は当分残るだろう。まるで、答え合わせのない宿題を解いているような気分だ。

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ライター
井上亜美

井上亜美

いのうえ・あみ 2002年鳥取県生まれ。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修在学中。23年5月より毎日新聞「キャンパる」編集部学生記者。

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