「正体」

「正体」©︎2024 映画「正体」製作委員会

2024.12.05

明治以来の日本人のDNAと感性を刺激する〝唯一無二の年末大作〟「正体」と「レ・ミゼラブル」

誰になんと言われようと、好きなものは好き。作品、俳優、監督、スタッフ……。ファン、オタクを自認する執筆陣が、映画にまつわる「わたしの推し」と「ワタシのこと」を、熱量高くつづります。

洪相鉉

洪相鉉

アジア全体として見ると、まだ開化期の黎明(れいめい)すら見えない国々が数え切れないほどあった時代に、なんと「ジャーナリスト」を職業にしていた日本の男がいた。坂本龍馬の地、土佐藩郷士の息子として生まれた黒岩涙香である。


「噫無情」の「惻隠の情」と「俠気」

翻訳家であり作家でもあった彼は、自ら創刊した日刊紙「萬朝報」に翻案小説「噫無情(ああ、むじょう)」を連載した。この作品に筆者が驚く理由は二つある。まずは、直訳すると「不幸な人々」となる原題にあえて感嘆詞を加え、作品の興趣を即座に、しかも大衆的にアピールできる邦題をつけたこと。そして、日本国民の琴線に触れ、1902年から1年間連載されただけにとどまらず、06年に前後編にわたる単行本まで出版されたほどの人気だったこと。
 
その人気は、原作のビクトルㆍユーゴーの「レ・ミゼラブル」の内容を思い浮かべてみると、実は極めて善良な人が非情な司法制度の不条理によって逃亡者として生きていくしかなくなった一方で、彼を追う法の執行者も正義の心の持ち主で結局は彼を助けるというヒューマンドラマとなっていて、何でもできるオールマイティーではなく哀れな普通の人を応援するという、日本人のDNAに刻印されている「惻隠(そくいん)の情」や、強い者の勢いを抑制し弱い者の立場を擁護する「俠気(きょうき)」と通じていることが要因であろう。


「正体」©︎2024 映画「正体」製作委員会

客席を一体にする貴重な映画体験ができる

「正体」は、こうした「噫無情」のセールスポイントに加え、1889年に上述の黒岩が発表した小説「無惨」を起点にアジア最大の推理文学市場を形成してきた「ミステリーのソムリエ」ともいえる日本国民の感性を刺激する映画だ。素晴らしい原作に特有の社会派の感性と人間愛あふれるタッチを生かし、類例のない極上のヒューマンドラマを作り出したのは、韓国ではNetflixで配信公開された「ヤクザと家族」で9.26(11月18日現在)という驚異のネチズン評点を記録し、今や「アジアの若い名匠」として位置づけられている藤井道人監督である。

「今回も動画配信で公開した方が、より生産的なのではないか」と質問する人がいるかもしれない。もちろん一理ある話だが、筆者はそれでも「NO」と言いたい。「正体」は、途中で電話に出たりメールしたり、気軽にトイレに行けたりするような作品よりもはるかに高い集中力を必要とし、それによって得られる満足度もはるかに大きいからだ。何よりも、見知らぬ人たちと一緒に主人公に感情移入し、感動で目頭が熱くなり胸がいっぱいになる、奇妙な一体感を伴う映画体験は実に大切で貴重なのだ。


横浜流星と共演者のアンサンブル

さらに、筆者が執行委員長アドバイザーを務めているチョンジュ国際映画祭に正式出品された「流浪の月」での抜群の演技力で海外の観客を感嘆させ、最近見た中で格が違うと断言できるボクシング映画「春に散る」で日本映画を代表する若き名優に名を連ねた横浜流星が、八色鳥の魅力を誇りながら、スリラーにアクション、メロドラマに青春物まで結合された見どころ満載の2時間の上映時間を文字通り「飛ばしてしまう」爆発力を発揮し、「劇場最適化エンターテインメント」のすべての要素を輝かせている。

それだけではない。逃亡の過程で主人公が出会う人たちとの間に育む友情、信頼、そして愛に共感することで、それらの普遍的な価値を再確認できる。意外なところで胸を突く相手役の吉岡里帆と山田杏奈、そして森本慎太郎らとのアンサンブルは、まるで数本の映画を見るような楽しみがあり、それだけでその価値はチケットの価格をはるかに超えている。「俳優陣の活躍」の中でも特記すべきは、冷徹な刑事として登場し、最初は悪者ではないかと誤解さえ招くが、時間がたつにつれて深い愛情を感じさせる又貫役の山田孝之の名演だ。

何度も「どうしよう、どうしよう」と観客の胸を締め付けたこの作品は、「法の涙」と「人間への希望」を味わいながら満足した気分を感じさせるラストを迎える。「これに匹敵する年末大作はない」と言ってしまいたい。世界的に厳しい経済状況の中でスマートな消費を求めたくなる今、レイトショーでも見て充足した気分で帰り、ほほ笑みみながら眠りたいという方々に心から勧める。今年も頑張ってきた読者の皆さんには「その資格がある(You deserve it)」。

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ライター
洪相鉉

洪相鉉

ほん・さんひょん 韓国映画専門ウェブメディア「CoAR」運営委員。全州国際映画祭ㆍ富川国際ファンタスティック映画祭アドバイザー、高崎映画祭シニアプロデューサー。TBS主催DigCon6 Asia審査員。政治学と映像芸術学の修士学位を持ち、東京大留学。パリ経済学校と共同プロジェクトを行った清水研究室所属。「CoAR」で連載中の日本映画人インタビューは韓国トップクラスの人気を誇る。

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