誰になんと言われようと、好きなものは好き。作品、俳優、監督、スタッフ……。ファン、オタクを自認する執筆陣が、映画にまつわる「わたしの推し」と「ワタシのこと」を、熱量高くつづります。
「ゆきてかへらぬ」©︎2025「ゆきてかへらぬ」製作委員会
2025.3.01
<解説>日本近代文学史上もっとも有名な三角関係 小林秀雄と中原中也が愛した女優「ゆきてかへらぬ」
天才的な詩人の中原中也。近代日本を代表する文芸評論家、小林秀雄。2人の男に深い影響を与えた女優、長谷川泰子。彼らが織り成す人間模様は日本文学史上、最も有名な三角関係の一つだろう。
この3人の間に一体、何があったのか。根岸吉太郎監督の「ゆきてかへらぬ」はこの問いに真っ向から挑み、切れ味鋭く表現している。メリハリの利いた演出で128分の上映時間が短く感じられた。
若き才能が表現者としての核心をつかんだ出会い
舞台になっているのは主に1920年代から30年代の京都と東京。才能がありながらもうまくそれを表現できないでいる若き詩人の中原中也(木戸大聖)。抜群の切れ味を見せながら、何かが足りない文芸評論家の小林秀雄(岡田将生)。その2人が長谷川泰子(広瀬すず)と出会い、表現者としての核心をつかむ青春物語だ。
長谷川が中原や小林に「きっかけを与えた」というのとは少し違う感じがする。ここでは小林の著作「Xへの手紙」から、次のような言葉を思い出したい。
「女は俺の成熟する場所だった。書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行こうとした俺の小癪(こしゃく)な夢を一挙に破ってくれた」
中原や小林は長谷川泰子という「場所」で人間的に成長し、世界の一端をつかむ表現者としての力を養ったといえばいいか。現実の底にあるものを体験して、文学者としての基礎を築いたといえばいいか。
「ゆきてかへらぬ」©︎2025「ゆきてかへらぬ」製作委員会
ローラースケートが似合う詩人
中原は長谷川に去られたことで、この世の芯にある虚無感に直面して、名詩「朝の歌」を書き得たとこの映画では読める。教科書に載るような有名な詩だが少しだけ引用しておこう。
天井に 朱(あか)きいろいで
戸の隙を 洩れ入る光、
鄙(ひな)びたる 軍楽の憶(おも)ひ
手にてなす なにごともなし。
一度、読んだり聴いたりすると、長く記憶に残る一節だ。リズミカルな五七調。ソネット形式(14行の定型詩)の言葉の連なりがしみじみと身体に伝わってくる。長谷川と別れたことで、冷めた意識で世界を見つめ直したため、この詩を書くことができたと考えても、無理な発想ではないだろう。木戸大聖は写真で見る中原中也とよく似ている。彼がローラースケートで滑る場面があるが、なるほどすばしっこい天才詩人とはこういうつかみどころのない姿をしていたのかもしれないと思わせる。かろやかで、えたいが知れない。なんと、ローラースケートが似合う詩人かと考えてしまう。
合理主義が及ばぬものを知った知性
一方の小林は友人の中原から長谷川を奪い、やはり、この世界の一端を知ることになる。小林は知性だけではどうしようもないもの、骨董(こっとう)品の値打ちを見抜く眼力だけではどうしようもないものがこの世にあることを長谷川と同棲(どうせい)することによって、教えられたのではなかったか。人間という存在は合理主義や審美観では理解できない。そのことをこの感性のままに生きる駆け出し女優から教えられたのではなかったか。これは「日本近代を代表する知性」が天下無双になる過程だったのではないだろうか。
岡田将生は神経質な心を毅然(きぜん)としたしぐさで覆う演技がよかった。それは小林の師のフランス文学者、辰野隆(カトウシンスケ)から金を借りる場面の態度や、長谷川泰子のために食事を買って帰るシーンの表情にも表現されていた。一方、長谷川によって、生身の人間は骨董品とは違うということをいやというほど思い知らされる場面では、その毅然さが打ち壊されるショックを鮮やかに演じていた。
それでは、2人の文学者の誕生に寄与した長谷川泰子とはどういう女性だったのだろう。負けん気が強く、優しく、料理がへたで、あくまで自分の意思を貫く女性。家庭的ではなく、男たちを支えることはしないが、表現者にとって何が最も大切なことかを気づかせる女性。そして、やがて自身は神経を病んでしまう女性。広瀬すずがそれをどう熱演したかも楽しんでほしい。