ウクライナの美しい風景を取り入れた「ひまわり」©1970-COMPAGNIA CINEMATOGRAFICA CHAMPION(IT)-FILMS CONCORDIA(FR)-SURF FILM SRL, ALL RIGHTS RESERVED.

ウクライナの美しい風景を取り入れた「ひまわり」©1970-COMPAGNIA CINEMATOGRAFICA CHAMPION(IT)-FILMS CONCORDIA(FR)-SURF FILM SRL, ALL RIGHTS RESERVED.

2022.3.11

映画で知るウクライナ:人と文化に思いはせて

ロシアとの激しい戦闘が続くウクライナ。ニュースでは毎日、町が破壊されていく様子が映されています。映画は無力かもしれませんが、映画を通してウクライナを知り、人々に思いをはせることならできるはず。「ひとシネマ」流、映画で知るウクライナ。

勝田友巳

勝田友巳

社会主義リアリズムと芸術重視の伝統が生んだ傑作たち


「ひまわり」1970年 ビットリオ・デ・シーカ監督
「火の馬」 1964年 セルゲイ・パラジャーノフ監督
「戦艦ポチョムキン」 1925年 セルゲイ・エイゼンシュテイン監督
「ザ・トライブ」 2014年 ミロスラブ・スラボシュピツキー監督
「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」2019年 アグニエシュカ・ホランド監督
 

初めて撮影された西側映画「ひまわり」




ウクライナと関わりのある最も有名な映画は、「ひまわり」(1970年、ビットリオ・デ・シーカ監督)だろう。ソフィア・ローレンがひまわり畑で夫を捜す場面は、ウクライナ南部ヘルソン州で撮影されたという。東西冷戦下のソ連で、いったいどうやってイタリア映画の撮影を行ったのかは不思議だが、これがウクライナで撮影された初めての「西側」作品だったとされている。
 
東西冷戦と聞いてもピンとこない世代も増えてきたかもしれない。イタリアなど「西側」、つまり資本主義国からソ連への入国や、国内の移動が制限されていた時代である。映画の撮影などもってのほか。ウクライナ大使館のホームページによると、日本で発売されたビデオの説明に「ひまわり畑はウクライナではなくモスクワだ」と断ってあるという。「外国人はクレムリンから80キロ以上は離れてはいけないという規則があり、観光客がウクライナに押しかけるのを恐れたせいかもしれない」そうだ。ヘルソン州はロシア軍に制圧されてしまった。

社会主義体制の光と影 「火の馬」



パンドラ提供

1991年までのソ連時代、映画は製作から興行まで国家に管理されていた。つまり国家予算で製作費をまかない、国立撮影所で撮影し、国営映画館で上映された。ソ連を構成した15の共和国のそれぞれが撮影所を持ち、モスクワやレニングラードの大学で映画を学んだ卒業生が〝配属〟され、各地で映画製作に当たった。
 
国家の管理は、映画の内容にも及ぶ。社会主義リアリズムと理想国家建設の理念に基づいて検閲が課され、当局からにらまれれば弾圧される。ウクライナで撮影された「火の馬」(1964年)は、その映像美で世界にウクライナ映画を知らせたが、セルゲイ・パラジャーノフ監督は当局に理解されず迫害され、長く苦難の時期を過ごした。
 
一方でソ連には、帝政ロシア以来の芸術を重んじる文化的風土もあった。芸術や文化は社会で高い評価を与えられ、他の芸術家と同様、映画監督も生活を保証された。パラジャーノフ監督は弾圧されながらも映画を作り続けた。その芸術的才能が多くの映画人から支持され、政治的にも影響力を持ちえたからだろう。ソ連で映画の芸術性を追求した作品が多く作られたのは、社会主義体制のおかげでもあったのだ。ウクライナからはモンタージュ理論を提唱した「大地」(1930年)のアレクサンドル・ドブジェンコ、アカデミー賞外国語映画賞を受賞した「戦争と平和」(1967年)のセルゲイ・ボンダルチュク、「灰色の石の中で」(1983年)のキラ・ムラートワといった監督が知られている。

 近年では、ミロスラブ・スラボシュピツキー監督の「ザ・トライブ」(2014年が世界を驚かせた。ろうあ者の寄宿学校に入学した主人公が、学校がある組織に暴力で支配されていることを知る。主人公の生き残りをかけた闘いと、組織の女性との恋を描く。映画に一切セリフはなく、全ての会話は手話のみ。激しい暴力描写を交えた物語を、字幕も吹き替えもなしで通すという斬新さで、カンヌ国際映画祭批評家週間のグランプリを受賞した。



戦火迫る「戦艦ポチョムキン」の階段




さて、映画とウクライナといえば、忘れてならないのが1925年、セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の「戦艦ポチョムキン」の階段の場面だ。南西部の港湾都市オデッサで撮影された。階段は今も残っているが、ウクライナ大使館によれば「上から下まで広告という味気ない風景」になっているとか。オデッサは黒海への海運の拠点で、この原稿を書いている3月初旬の時点で、ここにもロシア軍の侵攻が迫っているという。
 
1991年のソ連崩壊後に各共和国が独立し、経済が回復し社会が安定すると、ウクライナでの映画作りも再開した。広大な草原やカルパチア山脈、歴史的建造物が、欧米作品のロケ地となってきた。1996年、ジャッキー・チェンが主演したアクション映画「ファイナル・プロジェクト」、2008年の「トランスポーター3 アンリミテッド」などが撮影された。2015年の日本映画「クレヴァニ、愛のトンネル」は、西部にある「愛のトンネル」と呼ばれる場所が重要な舞台だ。鉄路を覆った緑のアーチが続く場所で、カップルが歩くと願いがかなうという言い伝えがあるとか。
 

スターリン独裁下の大飢饉 「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」

今回の紛争に至るウクライナの歴史も、映画の題材となっている。2019年のポーランド映画「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」は、スターリン体制の下で起きたウクライナ大飢饉(ききん)の背景を描いている。この時のソ連中央への不信感が、反ロシア感情の下敷きになっているという見方もある。
 
1986年、キエフの北約130キロにあるチェルノブイリで起きた原発事故は、多くの映画の題材となり、ドキュメンタリーも数多く作られた。日本の本橋成一監督による1997年の「ナージャの村」は、放射能に汚染された村の生活を記録した。
 
2014年には「マイダン革命」と呼ばれる激しい騒乱が起きた。当時の親露派大統領、ヤヌコビッチの腐敗に対し、親欧米派の市民が大規模な抗議行動を起こす。政権は厳しく弾圧するが、抗議は激化して3カ月に及び、ヤヌコビッチ大統領はロシアに逃れて政権が崩壊した。その経緯を記録したのが、ネットフリックスのドキュメンタリー「ウィンター・オン・ファイヤー:ウクライナ、自由への闘い」だ。ロシアへの反発の強さをうかがうことができるだろう。
 
2022年秋公開予定の「オルガ」は、このマイダン革命を背景にしている。15歳のウクライナ人体操選手が、一人スイスに旅立つ。ヤヌコビッチ政権の汚職を取材していたジャーナリストの母親が襲われ、安全のために父親の故郷に逃れたのだ。ウクライナでの紛争に心を痛めながら体操に打ち込む少女を描いている。
 
ウクライナ大使館によれば、ウクライナの国土面積は日本の1・6倍、人口4140万人。映画に描かれた豊かな文化や風土が、失われることはあまりに悲しい。

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ライター
勝田友巳

勝田友巳

かつた・ともみ ひとシネマ編集長、毎日新聞学芸部専門記者。1965年生まれ。90年毎日新聞入社。学芸部で映画を担当し、毎日新聞で「シネマの週末」「映画のミカタ」、週刊エコノミストで「アートな時間」などを執筆。