誰になんと言われようと、好きなものは好き。作品、俳優、監督、スタッフ……。ファン、オタクを自認する執筆陣が、映画にまつわる「わたしの推し」と「ワタシのこと」を、熱量高くつづります。
2023.11.01
中途半端に表現することができないと思った。「アナログ」を大学生ライターが見てみた
連絡手段としてはもちろん、買い物から運命の出会いまでも今や全てをデジタルに頼ることが可能な時代。Z世代と呼ばれる私たちはなおさらデジタルに頼り切った生活を送っている。今やあまりなじみのない「アナログ」という言葉だからこそ、独特な温かさのようなものを映画館のスクリーンから感じた。ぬくもりや愛が恋しくなるこれからの季節に出会いたい作品だ。
会えるかどうか分からない人をお互い思い続ける
落ち着いたマスターと共にひっそりとたたずむ「Piano」というカフェ。ここで悟(二宮和也)とみゆき(波瑠)は運命の出会いをする。2人は「Piano」で話していくうちに、周りにはあまり理解のされてこなかった価値観が重なりあい意気投合する。そうときたら連絡先を交換、といきたいところだが彼らはそうはいかない。みゆきは携帯を持たないため連絡を取ることができない。そこで2人は木曜日に「Piano」で会う約束をする。もちろん仕事もあるため毎週都合が合うとは限らない。週に一度会えるかどうか分からない人をお互い思い続けるのだ。静かに穏やかに、それでいて落ち着かない日々が過ぎていくのだが、それでも、悟はみゆきにプロポーズを決意する。しかしその日から彼女は「Piano」に現れなくなった。
1年間を想像したくなる作品
それから2人が再会するまでに1年の月日が流れる。この作品には「1年後」という表記が2度出てくるのだがその1年間を描いていないところにひかれた。決して再会が約束された1年間ではなかったが、悟は彼女のことを忘れられずに生きていたのだと想像すると、どんな形であれ2人が共に過ごしている時間は輝いて見える。「〇年後」と作中で表記されるたび、その年月を想像したくなる作品と、あまりその気にならない作品があるが、この映画はもちろん前者だ。1年という月日の長さやはかなさは人それぞれ感じ方が違う。だからこそその1年間にどんな思いで、何をして過ごしたのかを想像することで、今流れている時間を大切に感じることができる。
高校生の時、友人と初めて「今日も明日も負け犬。」という映画製作をした時もセリフの行間や劇中で描かれるシーンの隙間(すきま)を丁寧に考えた。劇中の年月を正確にそしてはかなく感じてほしかったからだ。映画のシーン構成は原作である小説から抜粋したものだ。小説に描かれていることはもちろん、そこに入りきらなかった主人公の毎日や周りからかけられたであろう言葉などを考えると、演じ手として受け止めるべきものはたくさんあった。ちなみに「今日も明日も負け犬。」には「1年半後」という表記が出てくる。その間の主人公の環境の変化や心境の変化はとても大きいのだが、1年半という月日をどのように感じたのかは映画を見てくださった方それぞれなのだろう。
作品ととても相性の良い技法
作品の話に戻るが時間経過で面白いと感じた表現がもう一つある。長回しで撮影したうえで編集にて複数回カットをかけているシーンが存在することだ。リアルな友人関係ってこれだよなと思わせるタカハタ秀太監督の秀逸な人間の描き出し方だと感じた。全役が等身大で作品の中に存在している。それによって静かだったカフェの時間から雑多な居酒屋の雰囲気にすっとのみ込まれたり、悟とみゆきのゆったりとした時間の流れがいい意味で乱れたりする。この作品ととても相性の良い技法であり新鮮なテンポの作り方だと思った。
ここまでを振り返るとこのコラムの中であまり内容について触れることができなかった。正確には触れたくなかったのかもしれない。なぜこの作品がこの秋一番の感動作と呼ばれるのか。愛する人を思い続ける心、愛の原点、突きつけられる謎、明かされる真実。中途半端に表現することができないと思った。作品の何か一つを伝えようとするとそこにつながる全ての出来事や感情、人間関係を表現したくなってしまう。映画館でこの作品からあなた自身が「愛とは、生きるとは何なのか」と問いかけられてみるのはいかがだろうか。