ひとシネマには多くのZ世代のライターが映画コラムを寄稿しています。その生き生きした文章が多くの方々に好評を得ています。そんな皆さんの腕をもっともっと上げてもらうため、元キネマ旬報編集長の関口裕子さんが時に優しく、時に厳しくアドバイスをするコーナーです。
2023.9.24
運命の「過去への決別」の結末につながっていく「水は海に向かって流れる」のコラムに元キネマ旬報編集長が評価する
大学生のひとシネマライター古庄菜々夏が書いた映画コラムを読んで、元キネマ旬報編集長・関口裕子さんがこうアドバイスをしました(コラムはアドバイスの後にあります)。
当初、編集者に「グルメマンガ」として
映画を観ていると、ときどきそのストーリーよりも気になる、忘れられない料理が登場する。まさに古庄菜々夏さんも、「水は海に向かって流れる」でそれを経験したのだと思う。
舞台はシェアハウス。人が暮らすうえで食は必須だ。古庄さんも「疲れている時や落ち込んでいる時は必ずプチシュークリームを買って帰る」と冒頭で記しているが、食事や食にまつわる行為は、たいていの場合、気分をよりよい方向へと導いてくれる。
原作コミックの作者、田島列島氏も、究極の状態のときに頼っていたのは食事。ネーム(コマ割り、コマの中の構図、セリフなどを配した下描きのようなもの)ができないときにやっていたのは「納豆卵かけごはんを食べること」だったそうだ。
納豆卵かけごはんは、時間をかけずに作ることができ、食べているときだけはネーム作りの呪縛(じゅばく)から解放してくれる。しかもこの行為、「仕事を継続させるためにも大切なこと」であり、誰に対してかわからないがエクスキューズも完璧なのだ。できないものはできない。でもそれで許されるわけではないと知る大人の罪悪感も、食はほんの少しだけ薄めてくれるのだ。
実は、田島氏は当初、編集者に「グルメマンガ」としてこの漫画のネームを渡したのだそう。第1話のネームには、古庄さんもあげている「ポトラッチ丼」が描かれていた。不機嫌な榊さん(広瀬すず)の向いで、直達(大西利空)が世にもおいしそうにたいらげた、あの「高級なお肉に大胆にも市販の麺つゆだけで味付けをした牛丼」だ。グルメマンガという設定は早くも2話目で崩れたそうだが。
だから本作はグルメ映画ではない。それでも観客は、「食事にまつわる丁寧な描写を経て、ドラマチックな榊と直達の運命の『過去への決別』の結末につながっていく」と受け取った。古庄さんのように。
できれば、なぜ榊さんが「誰にも話さなかった自分自身の経験や葛藤(かっとう)を打ち明けるように」なり、榊の複雑な心と直達の純粋な心は「食事を重ねるごとに」距離を縮めていったと、古庄さんが感じたのかも知りたい。その分析のなかに、前田哲監督の描こうとしたものが潜んでいるように思うから。
古庄さんのコラム
疲れている時や落ち込んでいる時は必ずプチシュークリームを買って帰るのが私のお決まりだ。食べると幸せな気持ちになるし、少し元気が出る。近くのスーパーで販売されている糖質制限のシュークリームが甘さ控えめでお気に入りなのだが、あまりにも頻繁に買いすぎたのかシュークリームの入荷がどんと増えた。とてもうれしいのだが、いつも顔を合わせる店員さんにレジで会うとき無性に恥ずかしくなる。
キャラクターをうかがわせてくれるのが劇中の食事
「水は海に向かって流れる」、私もこの作品の主人公榊千紗と同じように食べることで自分を保っているなと気づいた。広瀬すず演じるいつも不機嫌で日々を淡々と生きるOL、榊を中心として物語は進んでいく。その不機嫌さに最初は作品の雰囲気を持っていかれるのかと思っていたら、観客の反応は予想外のもので、上映中何度も笑い声が聞こえてきた。
特に笑いの的になっていたのはシェアハウスの住人たちであり、そのシェアハウスを舞台に物語が度々転換していく。住人たちはそれぞれの事情でそこに住むことになっているのだが、不器用さや優しさがにじみ出る住人たちには時折いとおしさまで感じた。
そこに住んでいる榊だが他の住人とは違って普段はあまり感情を表には出すタイプではない。そんな中で彼女のキャラクターをうかがわせてくれるのが劇中の食事のシーンである。
ポトラッチ丼
冒頭シェアハウスに新たに越してくることになった直達を迎えに行き戻ってきた榊。おなかがへっているという直達に、おもむろに高級なお肉に大胆にも市販の麺つゆだけで味付けをした牛丼をふるまう。アメリカの先住民がおもてなしをする際に使う言葉から、シェアハウスの住人には「ポトラッチ丼」と呼ばれており、直達も思わず「うま……」と声を漏らす。
ポテトサラダ
なにかに怒っているのかと思ってしまうほど不機嫌そうでクールに見える榊だが、意外にもシェアハウスの人たちに料理をふるまうギャップが親近感をもたらしている。その中でも大量のジャガイモを榊がひたすら潰しているシーンは印象に残った。そのジャガイモで山盛りのポテトサラダを作るのだ。榊を子供の頃から知る大学教授の成瀬賢三との会話のシーンで、2人の間にどんとそびえ立つポテトサラダ!! 榊が思い悩んでいる時、食べる事だけではなく料理を作るその過程も榊にとっては心のよりどころになっているのだなと感じた。
カレーに生卵
そんな榊にまっすぐにぶつかり心ひかれていくのが直達だ。2人で食事をしている時、榊がカレーに生卵をかけて食べているのを見て、人生で初めて見たのか不思議そうに見つめる直達。だがやがてそれをマネして自分のカレーにも生卵をかけて食べてみる。そして直達の満足そうな顔。そのリアクションに今度は榊の不思議そうな顔。そもそも人のまねをする行為はその人への憧れや興味を表している。2人が心を通わせるようになる直前のこのシーンに親しみのあるカレーを取り入れることで、この映画の好ましさが存分に発揮されている。
誰にも話さなかった自分自身の経験や葛藤を打ち明けるようになるまでに榊の心を動かす直達。榊の複雑な心と直達の純粋な心は食事を重ねるごとに距離を縮めていく。そして食事にまつわる丁寧な描写を経て、ドラマチックな榊と直達の運命の「過去への決別」の結末につながっていく。そんな優しい映画の流れに私は胃袋も心もすっかりつかまれてしまった。