【図1】「なかなか聞き分けがいいな、いい子だ」という言葉を室戸からかけられ、おもしろくなさそうな表情を浮かべて鼻に手をやる三十郎。それは三十郎が映画の序盤で若侍たちに向かって言ったのと同じ言葉である。

【図1】「なかなか聞き分けがいいな、いい子だ」という言葉を室戸からかけられ、おもしろくなさそうな表情を浮かべて鼻に手をやる三十郎。それは三十郎が映画の序盤で若侍たちに向かって言ったのと同じ言葉である。

2022.4.14

よくばり映画鑑賞術 黒澤明「椿三十郎」 三船敏郎の「あばよ」が史上最も美しい幕切れとなったワケ

映画の魅力は細部に宿る。どうせ見るならより多くの発見を引き出し、よりお得に楽しみたい。「仕事と人生に効く 教養としての映画」(PHP研究所)の著者、映画研究者=批評家の伊藤弘了さんが、作品の隅々に目を凝らし、耳を澄ませて、その魅力を「よくばり」に読み解きます。

伊藤弘了

伊藤弘了

黒澤映画は見ておくべきだ!


あなたは黒澤明の映画を見たことがあるだろうか?

「日本映画の巨匠として名前くらいは知っているけれど、実は見たことがない」という人は結構いるのではないか。「映画ファンを自任するからには黒澤映画くらい見ておかないと」という無言の圧力を感じた経験を持つ人も少なくないだろう。とはいえ、あまりに高名であると逆に鑑賞のハードルが上がってしまうものである。代表作のことごとくが白黒映画であることに抵抗を感じる向きもあるだろう。代表作の「七人の侍」に至っては上映時間が3時間半近くにも及んでおり、きっかけがないとなかなか手が出しづらいかもしれない。
 
だが、やはり黒澤映画は見ておくべきである。「べき」などと押し付けがましく言うと時代錯誤な教養主義者と見なされてしまいそうだが(もっとも、その教育効果はあながちバカにしたものではないと信じるものであるが)、だまされたと思ってぜひ見てほしい。黒澤映画は、とにかくめちゃくちゃにおもしろい。見ないでおくのはあまりにもったいない。
 
「じゃあ何から見ればいいの?」。そんな声が聞こえてきたような気がする(気のせいかもしれないが)。黒澤映画の最初の一本として、私は折に触れて「椿三十郎」(1962年)を推している。娯楽映画としてきわめて高い水準に達しており、黒澤らしさや俳優・三船敏郎の魅力を存分に堪能できる快作だからである。
 

神は反復に宿る 繰り返されるセリフの差異

今回は「反復」に注目して「椿三十郎」を見ていきたいと思う。映画を見る際のポイントは無数に考えられるが、シンプルかつ実践的なのは「反復」を意識することである(実は「ドライブ・マイ・カー」を分析した連載の第1回と第2回でもこれをやっている。第1回は「水」、第2回は「回転」の反復に注目した。映画のなかに繰り返しあらわれるものは重要である可能性が高い。それをしっかり押さえることで鑑賞の質は格段に上がる。

「ドライブ・マイ・カー」はなぜアカデミー賞作品候補になったのか その1 その2
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また、反復は半ば必然的に差異を伴う。似ているように見えても、どこかに違いが生じる。いや、似ているからこそ違いが際立つと言うべきか。その「差分」にこそ映画のエッセンスが凝縮されているのである。反復される対象はセリフだったり構図だったり、音楽だったり小道具だったり俳優の仕草だったりと多岐にわたるが、「椿三十郎」ではとりわけセリフの反復が効果的に機能している。
 

未熟な正義の若侍を助ける知と力の浪人

まずは「椿三十郎」のあらすじを確認しておこう。舞台は江戸時代のとある藩である。藩内の汚職に気づいた9人の若侍たちは、悪(あ)しき家臣たちを取り除こうと画策する。しかし、経験不足と浅慮から逆に敵の謀略にからめ捕られそうになってしまう。そこに颯爽(さっそう)と現れるのが主人公の椿三十郎(三船敏郎)である。超人的な知力と武力を兼ね備えた三十郎は、若侍たちに肩入れし、藩に平和を取り戻すべく八面六臂(ろっぴ)の活躍を見せる。
 
「椿三十郎」の魅力のひとつに脚本の完成度の高さが挙げられる。それは要所に仕掛けられたセリフの反復によって強化されている。四つほど例を見ていこう。
 

同じ言葉を口にする、違う人物たち

まずは主人公・椿三十郎のセリフを、敵役の室戸半兵衛(仲代達矢)が反復している場面を取り上げる。映画の冒頭で窮地に陥っていた若侍たちを救ったあと、三十郎は彼らにこのあとどう動くつもりかを尋ねる。満足のいく答えを得られた三十郎は「なかなか聞き分けがいいな、いい子だ」と言う。
 
映画の中盤には室戸が三十郎に対してこれと同じ言葉をかける場面がある。敵方の情報をつかもうとして室戸のもとを訪ねた三十郎は、そこで室戸の気に入るような返事をする。それを受けて満足げな様子の室戸が「なかなか聞き分けがいいな、いい子だ」と言うのである。三十郎が複雑な表情を浮かべて鼻に2度手をやる仕草が、このシーンにコミカルさを添えているが【図1=トップ画像】、ことはそれだけにとどまらない。
  
映画のラストで室戸との一騎討ちに臨んだ三十郎は、決着がついたあとで「こいつは俺にそっくりだ」と苦々しげにつぶやく【図2】。劇中では明確に善と悪にわかれているものの、人間としての本質は同じだと感じているのである。両者が同じ言葉を口にすることで、三十郎のこの認識が裏打ちされている。この種の対比は黒澤映画にしばしば見られるもので、一見すると立場の異なる人間を前にして、登場人物が「状況が違えば自分もそうなっていたかもしれない」と認識する場面が複数の作品で描かれている。


【図2】室戸の死体を見据えながら、険しい表情を浮かべて「こいつは俺にそっくりだ」とつぶやく三十郎。
 
「椿三十郎」の場合、両者の本質は「抜き身だ」「こいつも俺も鞘(さや)に入ってねえ刀だ」というセリフに集約されている。実はこれもまたセリフの反復の一例であり、映画のテーマとも密接に関係している。二つ目の例としてこのセリフを検討してみよう。
 

「本当にいい刀は鞘に入ってる」三十郎がその意味を知る物語

劇中で最初に「抜き身」「鞘に入っていない刀」という言葉を発するのは、敵方に監禁されていた城代家老(伊藤雄之助)の奥方(入江たか子)である。自分を助けるために見張りの侍を躊躇(ちゅうちょ)なく斬り捨てた三十郎に対して、奥方は「助けられてこんなこと言うのは何ですけど、すぐ人を斬るのは悪い癖ですよ」と言い、それに続けて「あなたは何だかギラギラし過ぎてますね」「抜き身みたいに」「あなたは鞘のない刀みたいな人」「でも本当にいい刀は鞘に入ってるもんですよ」と畳み掛ける。そう言われた三十郎は返答に窮し、困惑した表情を浮かべる【図3】。「椿三十郎」は、三十郎がこの言葉の意味をはっきりと認識する過程を描いた映画だと言っても過言ではない。

 
【図3】城代家老の奥方から「本当にいい刀は鞘に入ってるもんですよ」と言われて、返答に窮する三十郎。
 
室戸との一騎討ちを経て、三十郎は自分が「鞘のない刀」であり、一つところにとどまっておとなしくしていられる人間ではないことを痛感する。そして、若侍たちに「本当にいい刀は鞘に入ってる」「おめえたちもおとなしく鞘に入ってろよ」という言葉を残して去っていくのである。
 
善玉の三十郎と悪玉の室戸はいずれも「抜き身」である点において共通しており、映画は2人が表裏一体の関係にあることをほのめかしている。だが、同時に三十郎の本質が絶対的に正義の側に寄っていることも示す。このことも、やはりセリフの反復から読み取ることができる。
 
それは、室戸を斬ったあとに若侍に向けて言った「気をつけろ、俺は機嫌が悪いんだ」というセリフである(反復の三つ目の例)。三十郎はこれとほぼ同じセリフを冒頭のシーンでも口にしている。大目付のわなにかかってその配下に取り囲まれてしまった若侍たちを助けるために、三十郎は一芝居を打つ。「気をつけな、俺は今寝入りばなを起こされて機嫌が悪いんだ」と言って、そこに若侍がいないことをアピールする。いましがたまで自分が一人で寝ていたかのように振る舞い、それを一方的に邪魔されて機嫌が悪いという体で大目付の配下を撃退するのである。
 

映画史上もっとも美しい幕引き「あばよ」

2度にわたる「機嫌が悪いんだ」のセリフは、それがいずれも演技である点が肝になっている。つまり、1度目は敵方を欺くため、2度目は若侍たちが自分を引き留めようとするのを振り切るためのポーズである。
 
演技とは、言ってみれば噓(うそ)である。噓をつくのは敵方も同じだが、そのベクトルは逆を向いている。敵方の噓があくまで保身のため、自分の利益を追求するための利己的な噓であるとすれば、三十郎の噓は若侍たちのための利他的な噓と言える。三十郎は、自分を悪者にしてでも他者にために噓をつくことができる人間であり、この点において敵方の悪人たちとは一線を画している。何かとそれらしい理由をつけて、若侍たちにはついにただの一人も人を斬らせていない。三十郎は自分の手を汚すことには一切のためらいを見せないが、若侍たちが鞘に収まっていられるように、彼らのことは徹底的に守り抜いたのである。
 
映画を締めくくるのは三十郎の「あばよ」というセリフだが、これもまた冒頭シーンの反復である(四つ目の例)。三十郎の噓によって急場をしのいだあと、彼は若侍たちに「じゃ、あばよ」と言って立ち去ろうとする。だが、すぐに思い直して9人の若侍たちを助けるべく当地にとどまることを決めたのだった。ラストの「あばよ」は、後ろ倒しにされていた三十郎の去り際が帰ってきたものである。遅らされていた本当の別れが訪れ、映画もまた幕となる。これは映画史上、もっとも美しい幕引きのひとつであると思う。

*東京・池袋の新文芸坐で、4月15~23日、特集上映「4Kで甦(よみが)る黒澤明」を開催。「椿三十郎」などの黒澤作品9本を上映する。

図版クレジット
【図1〜3】「椿三十郎」黒澤明監督、1962年(DVD=東宝、2015年)

ライター
伊藤弘了

伊藤弘了

いとう・ひろのり 映画研究者=批評家。熊本大大学院人文社会科学研究部准教授。1988年、愛知県豊橋市生まれ。慶応大法学部法律学科卒。京都大大学院人間・環境学研究科博士後期課程研究指導認定退学。大学在学中に見た小津安二郎の映画に衝撃を受け、小津映画を研究するために大学院に進学する。現在はライフワークとして小津の研究を続けるかたわら、広く映画をテーマにした講演や執筆をおこなっている。著書に「仕事と人生に効く教養としての映画」(PHP研究所)。