誰になんと言われようと、好きなものは好き。作品、俳優、監督、スタッフ……。ファン、オタクを自認する執筆陣が、映画にまつわる「わたしの推し」と「ワタシのこと」を、熱量高くつづります。
2024.1.15
フィンランド、フランス、ブラジルの朗読詩の世界大会に参加した詩人の「PERFECT DAYS」鑑賞記。
見おわったあと、
心にこもれびの影がゆれている…
すぐれた映画は直接語らない。
複雑さ、不可思議さを残し終わる。
それこそが人生の本質に迫る唯一の近道だとわかっている。
結果、人生という言葉を一切つかわずに人生を語っている。
***
マルチタスクから遠く離れた
麗しきルーティン。
朝おきてからの一連のルーティンには、
かなり共感があった。
以下はぼくのルーティン。
5:30におきる
散歩
木に触れる(ここは別の登場人物に似ている)
朗読詩の暗唱
そうじ
メダカにエサ
水やり
メディテーション
夜があけてくる
風呂(熱め)
水シャワー
写真撮る
みそ汁づくり
糠(ぬか)漬け取り出し&仕込み
ごはん
歯磨き
コーヒー淹(い)れる
お茶淹れる
空を見る
短い詩を書く
日記
ギター練習
音楽をかけて
それから仕事
具体はちがえど、なんだか似ている。
みなさんもきっとそうだろう。
意識されてないかもしれないが。
ルーティンとは、
〝発見するための地ならし〟であると気づかされた。
発見を喜ぶ日々とはまぎれもない詩的生活である。
そう、主人公は最高の詩的生活 = PERFECT DAYS を送っている、
とぼくは解釈する。
この世界でそれを手に入れるためには、覚悟がいる。
だが、
それでも、手に入れられるのだ。
制約があるようで自由だ。
夜あけの首都高をかっとばす、
まるで銀河鉄道。
補充スタッフは頼もしいし、
宮司さんは苗木をくれる。
そして誰もがうらやむ「おつかれさん!」。
でも主人公は、
充(み)ち足りた日々に身を委ねているわけではない。
切り取り、のこしてきた結果なのだ。
自分の信じる、
カタチあるメディアとともに。
彼はカセットで音楽を聞く。
何十年も聞きつづける。
かえようとしない。
彼は旧式カメラで切り取る。
プリントして、気に入ったもの以外は容赦なく破り捨てる。
激しいのだ。
妹のような運転手つきの生活も、
彼は「捨てる」勇気を持つことで、「選んで」いる。
自分にとっての、きらめきを。
***
好きだったシーンがたくさんある
繊細な水やり(霧吹き)
部屋の中の音
蛇口をひねる音
トビラをひらく音…
日常のなかのひとつひとつがいとおしくなる
家を出るとき空を見て笑うこと
鳥居でのお辞儀
特別に盛られたポテトサラダ
「おじさん」という言葉のマジック
妹を抱きしめる兄
影ふみ…
すべてがハッピーではない
眠るときに心に映る
おだやかでない影
不安の音
みんななにかをかかえて生きている
***
〝 今は今
こんどはこんど〟
この考え方は、ポエトリー・スラム(詩の朗読の対戦)にも通じる。
朗読しているときにはいろんなことが起こる。
雑音、お客さんの動き、いいまちがい…
だからといって流れを止めることはできない。
〝 今は今〟で、持ち時間の3分をやりきる。
後悔や反省はまた〝こんど〟。
先送りではない。
自分と他者の関係性において、
たぶん最善の選択なのだ。
どうしようもない「流れ」は存在する。
大河のように、とうとうと海に向かってゆく。
予期せぬことも、あたりまえのように起こる。
逆らって泳ぐのもいいけど、
人生の時間はかぎられている。
流れに身を委ねつつ、一瞬一瞬判断して自分らしく泳ぎきればいい。
「時間」という名の川は、方向をかえることはない。
***
東京という街
人間というもの
この世界
どれもわるくないなと思える
意外といいじゃん
もし欠けてるものがあるとすれば…
および腰になって
さめた目をして
しょうがないよねと
ハタでながめてる
自分かもしれないね
そのピースがはまれば世界は…
…この映画はきっと「問い」。
答えの言葉を胸に持ちつつ、
もう一度見てみることが、
こちらからの「問い」。
主人公のように無口な映画だけど、きっとなにか返してくれるだろう。
問いと答えが重なりあったときに、
その意味はこもれびの影のように深さをます気がする。