「駅 STATION」(C)1981 東宝

「駅 STATION」(C)1981 東宝

2024.1.06

高倉健の良さを本当にわかっているのだろうか「駅 STATION」を見て明日成人式を迎える20歳のライターは自分に問いかける

2021年に生誕90周年を迎えた高倉健は、昭和・平成にわたり205本の映画に出演しました。毎日新聞社は、3回忌の2016年から約2年全国10か所で追悼特別展「高倉健」を開催しました。その縁からひとシネマでは高倉健を次世代に語り継ぐ企画を随時掲載します。
Ken Takakura for the future generations.
神格化された高倉健より、健さんと慕われたあの姿を次世代に伝えられればと思っています。

小田実里

小田実里

「私は高倉健の良さを本当にわかっているのだろうか」。「駅 STATION」を見終わった後に、この映画に対する世間の評価を見ていると、高倉健と同じ時代を生きていた方々と私が思ったことに壁を感じた。 彼はよく「神格化されている」と言われるけど、私からすれば正直神っぽくない。 だって、人に対して「神」を使うときって大体手の届きそうにない、「すごい」の最上級を 表したい時でしょ?「マジ神」は、「すごい」を 50 位ぐらい上位互換したものでしょ?
私が見た高倉健は、神とか手の届きそうにない存在というよりも、「無口で無愛想だけどおいしい焼き鳥を焼いてくれる焼き鳥屋のおじちゃん」という感じだ。
 
対して、大人たちの感想を見ていると、映画によってはこちらが高倉健を語るのが申し訳 なくなるくらいとても大きな愛に満ちている。中には私には共感できないような、彼の圧倒的存在感について語る感想も見受けられる。世代特有のものなのか、私が彼を知らない からか。えたいの知れない違和感に今回見舞われた。彼の映画を題材にコラムを書くときは、彼を愛する人たち、そして彼に失礼のないように と思って、「高倉健特集」の執筆を毎回やり過ごしていたのだが、今回の原稿はまさに血迷 い編となること、どうかご了承いただきたい。
 

あらすじ

舞台は北海道の港町。刑事の三上英次はオリンピックの射撃選手でもある。さまざまな刑事 事件が勃発する裏で、三上に待ち受けている 3 人の女性との宿命的な出会いと別れがオムニバス風に描かれる。
 

本当の「レトロ」って感じがした

高倉健演じる三上が、事件現場で見せる鬼気迫る表情と、女性との掛け合いで見せる柔らかい表情。この作品は、そんな移ろいゆく彼の表情に、人間の理性と欲望が揺らぐ瞬間が鮮明に映し出されている。それは、現代人の課題ともいえる「ワークライフバランス」に通ずるところがあるのではないだろうか。「駅」が時代を超えて語り継がれているのは、人間の本質的な問いを捉えているからであり、それが映像を通して多くの人の心に自然と伝わるからなのだろう。つまり、親近感があるのだ。ここでは、その親近感を醸し出す役割をこの作品で大きく担っているものとして、作り込まれたセットを取り上げたい。 セットの中でも居酒屋を営む女(倍賞千恵子)との色恋の様子が描かれているシーンで登場するブラウン管テレビや八代亜紀の「舟唄」、木枠の二重扉は、「昭和レトロ」なんかにまとめられないほど、年季を感じさせる。 「志村けんのバカ殿様! 私は画面を前にして一人、コントで見たやつじゃん〜」と今で こそダサさと表裏一体にある生の昭和レトロにかなり興奮した。 それは今はやりの昭和レトロの喫茶店のような色鮮やかさではなく、茶色の濃淡の入ったような色彩。 今の映画じゃ、高すぎる解像度のせいでこんな昭和感は絶対に見られない。見られたとしても見せかけの、おしゃれな喫茶店のような可愛らしさが至る所にちりばめられたものだ。
そんないかにも古ぼけたセットで繰り広げられる高倉健の、多くを語らずに酒をたしなむ演技。そして、そこに流れるゆったりとした男女の演技が、この時代を生きたことがない私の心にもゆっくりと入り込んできた。 高倉健は語らない。かといってジェスチャーを多用しているわけでもない。彼は表情で語るのだが、表情で語ることのメリットは、言葉にできないグラデーションがかかった感情を伝えられるところにある。
 

あくまでも近くにいそうなおじちゃん

高倉健の演技は言葉ではどうしてもラベリングできない感情を表情で語ることで、見る人の心にゆっくりと染み渡っていく。そこに「共感」や「親近感」がじわじわと生まれる。私が高倉健を「神格化」することにうなずけないのは、こういった観点からである。高倉健のように芯が通った男はどこにもいないからこその「神格化」ならうなずけるが、少なくとも高倉健を知らないZ 世代は、彼をラベリングする「神格化」というものを別の意味で捉えてしまう気がする。彼の演技に重なるのは、誰も近づけないカリスマ性ではなくて、あくまでも近くにいそうなおじちゃんである。彼のすごさは「神格化」と言われるほどの誰も引き寄せないすごさをあえて感じさせないところにあるのだ。 しかし、もし私が高倉健を世間の評価をなぞって「彼は神格化された俳優なんだよ!」と 友達に伝えてしまえば、「昔絶大に評価された俳優」としか友達には伝わらないのではないだろうか。「神格化」と「親しみやすさ」は遠い距離にあるからこそ、高倉健に「神格化」 を使うのはどこか違和感を覚えるのだ。良くも悪くも、世代の異なるものを理解するにはラベリングが影響を与えてしまう。知らないからこそ、ラベリングやキャッチコピーを入り口として理解する。そして、そこから受け取った第一印象はその後なかなか変えられない。
 

寡黙な高倉健と対照的に映る出演者の愛嬌

そんな語らない高倉健だが、他の役者さんについてもここでは書いておきたい。寡黙な彼によって引き立つその他の役者さんの味がこの映画において印象的だ。特に烏丸せつこさんの演技に見られる愛嬌(あいきょう)がこの映画ではとても可愛らしく映っている。彼女の演じる役は犯罪者を兄にもつ食堂の娘。実際に映画を見てもらえたらわかるのだが、この役が妙にクセを感じさせる。詳しく言うと、昭和のアイドルに多い、不思議ちゃんでつかめなくてふわふわしている感じ。確か、東京で友達とフラッと入った昭和歌謡曲バーの大画面テレビで流れていた松田聖子ちゃんも中森明菜ちゃんもみんなこんな感じだった。今のK-POPのかっこよさとは無縁の、かわいいに全振りした烏丸せつこさんの仕草は、この映画の全力推しポイントだ。
 高倉健の演技に私は暑苦しさを感じてしまうが、そんな武骨な演技の高倉健だからこそ、 烏丸せつこさんのような役者さんと化学反応を起こし、この映画を優しい雰囲気にしているのだ。
今回、私は高倉健と同じ時代を生きた世代への隔絶感と、彼のカッコ良さをそのまま真摯(しんし)に受け取れきれないもどかしさを感じたわけだが、彼のかっこよさを決して否定しているわけではない。小説「罪と罰」(ドストエフスキー著)に登場するような 「言葉はまだ行いじゃないわ」というセリフが寡黙な高倉健にぴったりの言葉であるとさえ感じているくらい、私は高倉健という人を尊い存在であると感じている。
 
ただ、私が今20 歳という年齢で、世界中から評価されている高倉健の作品を見ることは、 目の奥に取れないゴミが詰まったような、そんなゴロゴロした何かを毎回私の心に残すのだと思った。すでにたくさんの人に評価されている作品をあらためて批評することへの恐れ多さと戦いながら私はこれからも高倉健作品を見ていくことになるのだ。私は高倉健ファンが怖いのだ。それでも、どうやら高倉健と焼き鳥が結びついたのは私だけではないらしく、この映画の 2 年後に彼は居酒屋の店主を演じることになるのだけれど。

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ライター
小田実里

小田実里

おだ・みさと
小説家・脚本家
一般社団法人MAKEINU.代表
2024年5月に小説「今日も明日も負け犬。」(幻冬舎)で作家デビュー。

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