2021年に生誕90周年を迎えた高倉健は、昭和・平成にわたり205本の映画に出演しました。毎日新聞社は、3回忌の2016年から約2年全国10か所で追悼特別展「高倉健」を開催しました。その縁からひとシネマでは高倉健を次世代に語り継ぐ企画を随時掲載します。
Ken Takakura for the future generations.
神格化された高倉健より、健さんと慕われたあの姿を次世代に伝えられればと思っています。
2022.5.14
高倉健さん:メモリアルイベント「健さんに逢いたくてin北九州」
高倉健の青春時代を過ごし、たびたびロケ地にもなった北九州。
2015年、一周忌に行われた鼎談を転載します。
*役職は15年当時のもの
昨年11月に他界した高倉健さんのメモリアルイベント「健さんに逢(あ)いたくて2015in北九州」(毎日新聞社などの実行委員会主催)が15日、北九州市小倉北区の北九州国際会議場であった。トークステージには、最も共演作品の多かった女優、富司純子(ふじすみこ)さん、評論家の川本三郎さん、「鉄道員(ぽっぽや)」で助監督だった瀧本智行監督が登場。東京国際映画祭の矢田部吉彦ディレクターの進行で、高倉さんの俳優人生や思い出が語られた。
“時代への抵抗”共感呼ぶ
<高倉さんは205本の映画に出ています>=矢田部
川本 高倉さんの活躍は三つの時代に分けられます。東映のまだ青年俳優の時代、任俠(にんきょう)映画の大スターの時代、フリーになって「八甲田山」「幸福の黄色いハンカチ」なんかに出演した時代。正直なところ、第1期の高倉健さんは美空ひばりの相手役の印象が強く、生意気な映画少年だったぼくは「なんだ、ひばりの相手役か」と割と軽く見ていたところがありまして、あまり印象に残ってない。任俠映画に出るようになってから、突然と言っていいほど顔つきもすごみが出てきました。
<任俠映画で一気にスターになったのが1963年、64年あたり。なぜこれほどブレークしたのでしょう>
川本 日本の社会は64年の東京五輪のころから豊かになり、近代化が進みました。ところが映画が描く世界は、時代に全く背を向けた着流しの男の義理人情で、そこに新鮮さがあった。もう一つは、ベトナム戦争が始まって、当時は学生の反体制運動が盛んになり、強いやつを打ち、弱いものを助けるという任俠映画の精神が重なった。
高度成長は格差社会も生み、繁栄を享受する人がいる一方で、取り残された人たちがいた。五輪関連の建設工事のため地方からたくさん労働者が上京してきたが、彼らは労働組合にも入れない。任俠映画は、つい「切った張った」の部分を見てしまうが、描いているのは港湾労働者や建設労働者の世界です。それが当時、地方からの労働者の心に響いた。時代に抵抗する人、時代に取り残された人、こういう人たちの心に訴えたというのがものすごく大きかった。
立ち回り、とにかくきれい
<まさにその任俠映画の人気の一角を担ったのが富司さん。64年の「日本俠客伝」で初共演し、30本以上で互いの主演作で共演した>
富司 高校2年でデビューし、私は学校に行きながら撮影所に通っていました。高倉さんはすでに大スターでしたから、ただただ憧れの人でしたが、本当に紳士的でお世話になりました。(高倉さんの役は)愛を振り切って切り込みに行くとか、惚(ほ)れられているのをわかってながら、惚れてないそぶりして行く役で、いつも私がすがって振られるパターンが多かった。だいたい着流しで切り込みに行くのですが、合気道などをなさっていたので、立ち回りの裾の割り方、腰の割り方がとにかくきれいでした。
<待ち時間の思い出は>
富司 スタッフに優しい方でした。コーヒー好きでコーヒーの差し入れが多く、私も勧められて飲めるようになった。それからクッキーみたいなのに東京から買ってきたピーナツバターを塗ってみんなに食べさせてくださったことも。
<当時はほぼ四六時中一緒にいる感覚ですよね。共演者か戦友か同志か。振り返るとどうでしょう>
富司 同志というか、父(東映任俠映画の大プロデューサー、俊藤浩滋さん)がいて健さんがいて私がいて、なんかこう家族みたいだったと思う。私が関西テレビの「沙羅の門」でたばこを吸う大学生の役をやっていた時、たばこを吸わなきゃいけないんで癖になって撮影所で小生意気に吸っていた。そしたら「純子ちゃん、女の子はたばこ吸っちゃいけないんだよ」って、まったく妹を諭すという感じ。「俠骨一代」の時は衣装の着物から胸が見えそうだったんですよね。そしたらやっぱりそばに来て「純子ちゃん、ちょっと胸が開き過ぎだよ」と。全く女優として見てくれてないというか、妹をかばうというか。ありがたかった。
<高倉さんは70年代に任俠映画を離れ、富司さんも引退された>
富司 父は「客が入る映画を作らなきゃ」という人でした。私が「こういう企画でこういう役をやりたい」と言った時も「そんなもん、おまえ、客が入るか」と一喝されおしまい。だから「ああ、東映でこのプロデューサーの下にいたら同じことの繰り返しだ。やめよう」と結婚し、引退した。高倉さんもやっぱり東映を出たからこそ、「黄色いハンカチ」などいい作品に出会った。東映では父と親子みたいな感じだったが方向が違った。いい時期に父と縁が切れて出ていかれ、良かったと思う。それから「高倉健」をご自分で作り上げた。
川本 フリーになった後の活躍は全然予想していなかった。俳優はほとんど映画会社に所属するものと決まっていた時代で、経済的にも勇気がいったと思う。ただ、山田洋次監督の「幸福の黄色いハンカチ」「遙かなる山の呼び声」に出演した時、当時の映画評論家はかなり批判的だった。つまり、東映と松竹は作品のカラーが違う。東映は時代劇から出発しているからアウトローやアウトサイダーを描くことが多いのに対し、松竹は「大船調」という言葉があるようにホームドラマ、家族映画を大事にする。それで「任俠映画で大スターになった健さんが、生ぬるい家庭映画をつくる松竹の映画に出るとはなにごとだ」と。でも結果的には成功した。役柄の幅が広がり、何より女性客ら新しいファン層を開拓した。
富司 任俠映画はあまり芝居どころがなかったから、東映を出た後、積み重ねてらした演技が花開いた。しかし、アクションはやっぱりお手の物なのでパッと決まる。硬軟が魅力となった。
<富司さんも89年に復帰なさって「あ・うん」で共演されました。この映画の高倉さんの役は珍しくコミカルです>
富司 うまい役者さんなんですよ。アドリブみたいな面白いセリフをふっとお出しになるし、もともと演技が大きいので、それはもう何でもなさる。私がカンカン帽をかぶって(高倉さん演じる)門倉を思いながら踊っているのを本人が隅で見ていて、後で自分もハンカチを出して家でおやりになるシーン。あれはアドリブの演技です。監督が演出をつけているわけではない。私に限りませんが、他の人が芝居しているのを陰で見ていて、つながりとかきっかけの大切な時は必ずそばにいてくださった。
想像超えるエネルギー
<高倉さんのためだったら、というスタッフが本当に多い>
瀧本 私は「鉄道員」ではセカンド助監督で、常に俳優さんのそばにいる役割でした。天候待ちで撮影が4日間なかった時も、僕はずっとそばにいないといけませんから、昔の映画の話などを聞かせていただいた。しかし、ずーっとしゃべっていたのに、ぽっと止まって30分くらい黙っていらっしゃる。「何か悪いことしたか」と考えていると、また話が始まり、その間、僕は直立不動でした。
いたずらがすごく好きで、急に「たきもと―――っ」と怒られる。いつもは「たきもっちゃん」と優しかったので、驚いて「はいっ」って振り返ったら、カメラでぱちっと撮られる。これを10回くらいやられた。
スタッフは全員、名前で呼んでくれるんです。各パートに50人くらい撮影の助手がいるんですけど「彼はなんていうの」と僕に一人一人の名前を聞き、照明の重い荷物をかついでいるスタッフの名前を呼んで「そこ、雪降っているから危ないからね」と声をかける。みんな好きになりますよね。
一方、撮影は一発勝負です。「一回しかやらないぞ」という感じで本番に入るので、通常味わったことのない緊張感が漂います。高倉さんが酒を飲みながら小林稔侍さんと父親の思い出話をするシーン、用意スタートの合図で高倉さんのセリフが出るはずが、1分くらい出ない。カメラは回り続けてます。カメラの回りにいる我々のような人間は、本番中は息をしないんですね。息する音が入らないよう、セリフをしゃべっている間に薄く合わせて呼吸するのですが、1分黙られると本当に苦しくて。後で、降旗康男監督に「何だったんでしょうか」と尋ねたら、「自身のことと何か重なったのではないか」とおっしゃっていた。スイッチが入ると、我々の想像を超えるエネルギーが出てくる。何度もそういう経験がありました。死ぬまで映画を作り続けたいと思わせてくださった方です。
富司 私も忘れないが、どうぞみなさんもこんな素晴らしい俳優さんがいらしたことを忘れないでいただけたら、今日来たお役目が少しでもあるかなと思います。