「逃げきれた夢」©2022「逃げきれた夢」フィルムパートナーズ

「逃げきれた夢」©2022「逃げきれた夢」フィルムパートナーズ

2023.6.13

「逃げきれた夢」で光石研が巡回した校舎は、あの作品で苛烈なアクションの舞台になる:勝手に2本立て

毎回、勝手に〝2本立て〟形式で映画を並べてご紹介する。共通項といってもさまざまだが、本連載で作品を結びつけるのは〝ディテール〟である。ある映画を見て、無関係な作品の似ている場面を思い出す──そんな意義のないたのしさを大事にしたい。また、未知の併映作への思いがけぬ熱狂、再見がもたらす新鮮な驚きなど、2本立て特有の幸福な体験を呼び起こしたいという思惑もある。同じ上映に参加する気持ちで、ぜひ組み合わせを試していただけたらうれしい。

髙橋佑弥

髙橋佑弥

ここ数年、映画のなかに学校が出てくると、なぜだかしみじみとするようになった。なかでも、大学よりは小中高に感慨を刺激されるようだ。自らの学生生活を顧みても決して充実していたとは言えず、思い出すことも、いや思い出せることすらもほぼないのだから不思議でならないのだが、もはや縁遠い「校舎」という独特な空間に懐かしさを覚えているのかもしれない。

二ノ宮隆太郎監督作「逃げきれた夢」もまさにそのひとつ。光石研が演じる主人公が、定時制高校の教頭なのだ。だから当然、職場=校舎が出てくることになる。


人生を振り返る定時制高校教頭  

とはいえ本作は(予告をご覧いただけば分かるように)、熱血教師を描いた映画でも学園青春ものでもない。夜の校舎で窓ガラスを壊して回る不良も出てこないし、トイレの花子さんも出てこない。きちんと時間を割いて丁寧な描写がなされるが、あくまで「定時制高校の教頭」は主人公の構成要素のひとつに過ぎないのだ。本作が描こうとしているのは、主人公そのもののほうである。
 
病の発覚を機に来し方を顧みることになるという本作の主人公の状況は、条件反射的に黒澤明監督作「生きる」(1952年)の想起を誘うかもしれない。しかし、意外なことに本作の焦点は難病にも余生にも向かわない。重要な契機として間違いなく病は存在していて、じっさいに言及もされるのだが、決してそこにとどまることはない。


 

途方に暮れた主人公は彷徨する

むしろ本作は、どっちつかずな主人公の彷徨(ほうこう)をこそ描く。病を患っていることは分かったが、これからどうすればいいかは分からないのだ。そして、それは終幕まで解決されることもない。悩み、途方に暮れ、足踏みしている。これからが不安だから、これまでを顧みる──「これでよかったのか」と。だからこそ定年を1年後に控えていながら、彼は離職を検討することになる。辞めてから「したいこと」があるわけではないにもかかわらず。
 
職務から離れゆく主人公の関心と響き合うかのように、本作の展開は次第に校舎から距離を取り始めるが、それに先立つ、いまだじっくりと勤務が画面に収められていた前半部に、忘れがたい校内巡回場面がある。


 

主人公と歩きめぐる懐かしい場所

職員会議を終えて、全日制の生徒が帰路へと向かう廊下を「さよなら」と声をかけながら、緩んでいる水道の蛇口を閉めながら、主人公はひたすらすたすたと校内をめぐる。階段を上り、ベランダにたむろする生徒に声をかけ、食堂で食事を取ればもう辺りは暗い。そしてまた、再び校内を歩く。その頃には定時制の授業は始まっていて、廊下から扉の小窓をのぞいて教室内の様子をうかがう。音楽室にたたずむ生徒の話を聞いてやる。そして、最後は門を閉めて帰る。
 
わざわざ定時制高校の教頭を主人公に設定していながら、職務にあたっているのは、実のところ全編でこの一場面のみだ。しかも、業務内容の子細が描かれるわけではない。けれど、ここには紛れもなくある日の校舎の時間が流れていると感じられる。見る者が通った校舎と似通っていなくとも、豊かに提示される学び舎(や)独特の構造や動線が楽しいのである。


「野獣教師」© 1996 and 1999 Artisan Pictures, Inc. All Rights Reserved.

傭兵が教壇に立つ「野獣教師」

学校=校舎が舞台となる映画は青春映画からホラーまで古今東西あまたあるが、ぜいたくかつ印象的に校内が描出されている映画をふと考えてみたとき、真っ先に思い出したのが「野獣教師」(96年)だった。
 
主人公を演じるのは、狙撃者映画「山猫は眠らない」(93年)等、基本的にはアクション映画でなじみ深いトム・ベレンジャー。邦題の「野獣」というのは、彼のアクション俳優としてのイメージ、そして本作のアクション映画としての側面から導かれたものだろうが、原題は簡素に〝The Substitute〟で「代用教員」の意。素っ気ないが、明確きわまりない。
 
ベレンジャーが演じるのだから単なる教員ではないわけで──それはそれで見てみたいが、本作の主人公も真の姿はすご腕の傭兵(ようへい)。それが紆余(うよ)曲折を経て、代用教員として荒廃した高校の教壇に立つことになる。


戦いのバリエーションを生む校舎のギミック

主人公の目的は、麻薬取引の温床になっている高校を内側から調査することだが、その傍らで意外なほど真面目に勤めているのが面白いところ。最初こそ、ほほう典型的な不良高校か……という様子なのだが、誠意ある授業の語りが問題児らに響き始め、手応えを感じて主人公も感極まるというあたりが熱血教師映画としての需要も満たしうる作りで好ましい。
 
とはいえ、前述の通り本作は「アクション映画」だ。だから当然のごとく、日中の図書室で平然と緊迫感ある銃撃戦が起こりかけるし、麻薬取引現場を目撃してしまった居残り生徒が夜の校内を逃げ惑ったりもする。クライマックスに至っては、武装兵士たちの熾烈(しれつ)な殺し合いが、わざわざ深夜の校舎を舞台にして繰り広げられることになる。
 
これらの場面は、たしかに平穏無事な学生生活からかけ離れた出来事ではあるが、いずれのアクションも一貫して校内で行われるのみならず、校舎ならではのあらゆる場所が舞台に選ばれることで豊かなバリエーションが実現されている──それぞれ場の特徴が十全に生かされるのが、なんとも言えず良いではないか。見覚えのある(と感じられる)現実的空間のギミック(例えば図書室なら書棚ということになる)が、面白さに転化していくのである。主人公によって前半に設置された監視カメラも再活用され、まさに「校舎を制する者が戦いを制す」とでもいうべき収束へと向かうのが心地よい。


 

映画を締めくくる背中が胸を打つ

「逃げきれた夢」と「野獣教師」を半ば無理やりにつなげてみたが、むろん2作のあいだには大きな隔たりがあるだろう。どちらか片方が好きなひとからすれば「一緒にしないでくれ」と思うかもしれない。
 
だが、ここまで書いていて、両作ともに映画を締めくくるのは主人公の背中であることに思い至った。片や職を辞すことにした男、片や傭兵から教師に転じた男……詳しくは書かないが、ふたりとも先行きは不透明な状態である。明日からどうしよう? けれど、ふたつの背中はどこか楽観的でもある。諦めとも、開き直りとも違う、状況と乖離(かいり)した柔らかなゆとりが漂う。そこに胸打たれる。

映画は遠くとも、この爽やかな感動は近いかもしれない。

「逃げきれた夢」は公開中。「野獣教師」はU-NEXTで配信中。

ライター
髙橋佑弥

髙橋佑弥

たかはし・ゆうや 1997年生。映画文筆。「SFマガジン」「映画秘宝」(および「別冊映画秘宝」)「キネマ旬報」などに寄稿。ときどき映画本書評も。「ザ・シネマメンバーズ」webサイトにて「映画の思考徘徊」連載中。共著「『百合映画』完全ガイド」(星海社新書)。嫌いなものは逆張り。