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2023.10.17
〝なかったこと〟にするな! 「月」「愛にイナズマ」の「骨格は同じ」 石井裕也監督インタビュー
「月」(10月13日公開)と「愛にイナズマ」(同27日)が、立て続けに公開される石井裕也監督。かたや相模原障害者施設連続殺傷事件を題材とした辺見庸の小説の映画化、かたや映画界とコロナ禍の世相を風刺したオリジナル脚本のブラックコメディーと、見かけは対極。しかし石井監督いわく「骨格は同じ」。都合の悪いこと、見たくないことは隠しておけばいい。そんな世の中に「なかったことにするな」と真っ向から立ち向かうのである。
「月」では地獄を見るだろうな
いわば双子のような2作品。はじめにあったのは、「月」だった。石井監督は著書「映画演出・個人的研究課題」で「やまゆり園を題材にした映画を作りたい衝動がずっとあった」と打ち明け、辺見庸の文庫版「月」のあとがきでは、「月」を「懇意にしている商業映画のプロデューサーたちに薦めた」と書いている。「新聞記者」「空白」など野心的な社会派作品を手がけた故・河村光庸プロデューサーから声がかかり、いわば念願の企画実現である。しかし――。
「河村さんが『あとがき』を読んだんだと思います。オファーが来た時は、逃げられないなと観念しました」。事件は記憶に新しく、原作小説も「〝ひと〟とは何か」と「在る」ことについての根源的な問いを投げている。映画にするには「地獄を見るだろうなと」。
©2023「月」製作委員会
立ち向かう相手が大きい
「いろんなプレッシャーがありました。立ち向かう相手がものすごく大きいから」。存在そのものを問い直すだけに「精神を病む可能性もあった」とまで語る。「描くべきだと思うけれど、できれば目を背けて、なし崩し的にやっていければその方がよかった。それでも、重要なテーマでやるしかない」。正面から向き合うことになった。
原作小説は、障害者施設の入所者である、見ることも話すことも、手足を動かすこともできない「きーちゃん」の一人称の独白として、職員だった「さとくん」が入所者を殺害するまでを描いている。一方で映画では、施設に働きに来た作家・洋子(宮沢りえ)を視点人物として、施設と障害者を取り巻く現実を示し、さとくん(磯村勇斗)が犯行に至るまでの経緯を追っていく。いわば原作の視点を反転させた構成だ。
「このやり方しかなかった」と石井監督は振り返る。河村は「こういう作品だからこそ、大きく構えてたくさんの人に見てもらいたい」という意向を示し、石井監督も共感。「スキャンダラスな側面を強調して刺激度を高めた、規模の小さいインディペンデント映画だったらやらなかったと思う。どうやって映画的に変換して構築するか、多くの人に見てもらうための脚色をしました」
傍観者的な人物の視点から
洋子はかつて障害を持った子どもを亡くしていたが、再び妊娠が分かる。東日本大震災を題材とした小説で注目されたものの、「きれいごとだけを書いている」と批判される。職員の間には虐待が横行している。洋子は「きれいごとじゃない現実」に直面し、なすすべがない。
「被害者と加害者の、両方の視点に立った映画にしては絶対にいけないと思ったんです。その真ん中でためらい、うろたえたり動揺したりする、傍観者的な人物を描くしかないと。加害者目線にすれば犯人に加担することになるし、被害者のパーソナリティーを描けば道義的責任を問われ、遺族感情を必要以上に傷つける可能性がある。職業倫理としての抑制もあった」
ただ、原作が試みた問いかけは、映画にも反映した。「辺見さんを読み続けてきたから、彼の関心がこの事件に向かったことは理解できた。社会の欺まんを嫌い、撃とうとする姿勢がずっとあって、辺見さんが言う『おためごかし』の〝本丸〟に突入したと受け取りました。辺見さんがどうアプローチしたかも、おぼろげながら分かったので、その接近の仕方を描ければ、そんなに違うものにはならないという自信がありました。やりきったという思いはあります」
反動エネルギーを獲得するための「愛にイナズマ」
©2023「愛にイナズマ」製作委員会
もう一方の「愛にイナズマ」は、「月」の撮影を控えて、「思いついて、どうしてもやりたくなった」という作品。「『月』が大変なのは分かっていたから、その前にものすごく楽しい作品をやりたかった。まったく違う方に振り切れば、その反動でエネルギーを獲得できると確信していた」
「愛にイナズマ」は、自主製作の映画が認められてデビュー作品の企画を進めていた新人監督の花子(松岡茉優)が主人公。「業界の常識」を振りかざす助監督とプロデューサーに翻弄され、ついには監督交代、企画も横取りされてしまう――と、ブラックな映画業界の才能搾取が描かれる。
自身も経験したブラック業界「むしろ和らげました」
「今でこそ映画界も、性加害やパワハラが問題になってますけど、企画した当時はそれほどでもなくて。といって告発とか内幕ものというつもりはなく、屈辱的な気分から出発して世界を広げていくという映画にするのに、自分がよく知ってるものの方がいいと思ったから」
業界歴の長い助監督に「そんなやり方はしない」と頭ごなしにダメ出しをされ、企画を横取りしたプロデューサーは「上の判断だから」と責任逃れ。見ている方もムカッとくる傲慢さ。ご自身の体験ですか? 「映画界に限らず、日本中、世界中であることなんじゃないですか」。と言いつつ「映画の中のようなことを言われたりされたりしたことはあるけど、むしろ描き方を和らげたぐらいですよ」と苦笑い。
絶対諦めない 才能搾取された新人監督の反逆
後半は一転「絶対諦めない」と歯を食いしばった花子が、自身の家族にカメラを向けてドキュメンタリーを撮り始める。踏みにじられても負けずに立ち上がった花子の、反撃の巻である。「どうやったら大切なものを奪い返せるか、その方法を10年以上考えてきました。今や一ひねり加えないと、映画にならない。すっとんきょうな反撃になりました」
疎遠だった父と2人の兄にカメラを向けて、幼い頃に失踪した母親の真相にたどりつき、思わぬ父の一面も知らされる。ドキュメンタリー撮影のドタバタの中で、家族は本音をぶつけ合う。社会を描き、笑いに涙も盛り込んだ、石井流コメディー。
主語がない時代に映画ができること
見かけは異なる両作だが、重なる部分が多い。「月」でさとくんは「何のために生きてるの?」と問いかけ、「愛にイナズマ」で花子は「意味不明なこと描いて面白いですか」と否定される。「月」でも「愛にイナズマ」でも「そこにいる意味はある」と反論し、「隠したってなかったことにはならない」と訴える。「去年は思考も気分も、『月』のようなものに向けられていたと思います。つまり『隠されているもの』。2作ともテーマは一貫していて、描き方は違っても骨格は同じだと思う」。「隠されて見えなくても〝なかったこと〟にしてはいけない」という憤りに貫かれている。
異文化の出会いを描いた「アジアの天使」(21年)、コロナ禍の不公正をえぐった「茜色に焼かれる」(同)など、近年の石井監督は、社会の理不尽や矛盾への怒りを増しているように見える。「今の世の中は、鬼の首を取るとか悪魔みたいなラスボスぶっ倒すという時代ではないですよね。世界的に主語がすり替わり、なくなって、責任の所在がどこにもない。誰が悪いかもどうすればいいかも分からない。世界が悪くなってるのは間違いないのに、答えも目的も見つからない。それが息苦しさを生んでいると思っています」
それでも諦めはしないのだ。「こういう世の中だからこそ、文化、映画の重要性が増していくと思う。ただし一方で、それを期待する人は減っている。自分にとっては、映画作りそのものが抵抗というイメージです」