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2024.8.30
永瀬正敏① 「ションベン・ライダー」相米慎二監督と出会って一生が決まった
最新主演作「箱男」が公開中の永瀬正敏。1983年、「ションベン・ライダー」に主演してデビューして以来、メジャーの大作で小規模インディペンデントのアート作品で、主役から脇役、海外も日本も問わず、境界のない活躍が続いている。軽やかなフットワークと存在感は、多くの俳優の先駆けとなり、目標となって後進が続いている。ここにいたる約40年の道のりを、ロングインタビューで振り返ってもらった。
1982年のある日、宮崎県都城市の高校1年生だった永瀬正敏は、東京の映像制作会社「キティフィルム」の事務所でオーディションを受けていた。その前年、薬師丸ひろ子を主演に映画「セーラー服と機関銃」をヒットさせた相米慎二監督の新作「ションベン・ライダー」で、出演者を募集しているという記事を地元紙で目にし、応募したのだ。映画の撮影はおろか映画館にも縁遠かったが、当時は締め付けの厳しい高校生活に理不尽さを感じ、「大人の都合で大人にされたり子供にされたりすることに、フツフツとしたものを抱えていた。大人たちには絶対できないことを、やってみたかったんですよね」。
「ションベン・ライダー」の過酷な撮影
中学時代からパンクバンドを組んでいた音楽好きで「会社の名前が知っている音楽事務所に似ている。ミュージシャンに会えるかも、と。東京にも行きたかった」。好きなミュージシャンが所属する事務所と同じグループの会社だったのだ。「不純な動機でした」。1次審査の作文には「感じていた不満をただ書きなぐって」合格。面接は祖父と父親に反対されたものの、味方になってくれた母の口添えで「千葉に住むおばのお見舞い」という口実で1人で上京した。しかしオーディション会場に着くなり「こりゃあ無理だ」と観念したという。「児童劇団にいるようなキラキラした子たちが大勢いて、標準語で話していて。こっちはすごいなまってるし」
歌を歌うという課題では伴奏のギタリストに「イントロが短くて入れない」と注文をつけ、大声で歌った。「無理だと思ってるから、開き直ってました。東京に来られてよかった、ぐらいの気持ち」。オーディションには、1万7000人が参加した。しばらくして、思いもやらぬ合格の通知を受け取った。喜ぶよりも「しまった、どうしよう」と慌ててしまったという。「とんでもない」と猛反対の祖父と父を「青春の思い出に、一度だけ経験してもいいじゃないか」と祖母と母が説得してくれた。撮影現場も演技も初めて。「撮影所に行ったら、ずだ袋のような服を着てゲタを履いて、ゴザに寝てる人がいる。天井からハシゴが下がっていて、その人は『下にあるドラム缶に飛び降りろ』としか言わない。なんて失礼なんだと思いました」。それが相米監督だった。相米監督は演技経験のない子供たちから真情あふれる表情を引き出したが、撮影現場では説明も容赦もなく延々とやり直しを命じることで有名だった。
「ションベン・ライダー」の撮影も過酷だった。準備期間には、共演の坂上忍や河合美智子らと朝の調布駅前で踊り付きで歌を歌わされ、撮影に入ると汚い川に飛び込み、走っているトラックに自転車から飛び移り、貯木場の丸太の上を走らされた。夏休みに終わるはずの撮影は新学期が始まっても続き、髪を切れと言われてそり込みを入れていたから、ばんそうこうで隠して学校に通った。「監督は一度も『OK』と言ってくれなかった。『そんなもんだろう』とか『次、行こう』だけです」
ずっと現場に居続けたい
当時は腹を立てながらも「こんなものか」と受け止めたものの、思い返せばめちゃくちゃ。それでも撮影が終わって「お前たち、よくやった」と声をかけてくれた。身近にいた大人たちと違い、自分たちを対等に扱う撮影現場の居心地は良く、撮影した素材をつないだラッシュフィルムは4時間半にもなったが、「ものすごく感動した。映画ってすごいなと」。「魔法にかかったみたいで、ずっと現場に居続けたいと思いました」。グループの社長から「やってみるか」と声をかけられて「お願いします」と返事をする。「父親からは勘当同然」で上京し、アパートに1人暮らしを始め、俳優として本格的に歩き出した。「『一度だけ』のはずが、大うそついて40年」と笑う。
同じ制作会社による数本の映画に出演し、テレビドラマにもいくつか顔を出したが、80年代は助走期間。それでも「やめようとは一度も考えなかった」と振り返る。「いつかカメラの横にいる相米さんが、思わず『OK』と言ってしまう俳優になりたいとずっと思ってます」。相米監督は2001年、53歳で早世して願いはかなわなかったが、この出会いが一生を決めた。