「ゆきてかへらぬ」の根岸吉太郎監督

「ゆきてかへらぬ」の根岸吉太郎監督=下元優子撮影

2025.3.07

広瀬すず、岡田将生、木戸大聖 俳優の努力と理解が際立った 「ゆきてかへらぬ」根岸吉太郎監督

公開映画情報を中心に、映画評、トピックスやキャンペーン、試写会情報などを紹介します。

筆者:

鈴木隆

鈴木隆

撮影:

下元優子

下元優子

「遠雷」(1981年)、「キャバレー日記」(82年)、「探偵物語」(83年)、「雪に願うこと」(2005年)など多くの作品で日本映画をけん引してきた、根岸吉太郎監督の16年ぶりの新作である。大正末期から昭和初期を舞台に天才詩人、駆け出し女優、文芸評論家の3人の男女が愛し愛され傷つく、まぶしいまでの生きざまを映し出した。久しぶりに戻ってきた根岸監督は意気軒高、言葉の端々から映画への情熱がほとばしっていた。



京都。芽の出ない女優の長谷川泰子は、学生詩人の中原中也と出会い、互いにひかれ一緒に暮らし始める。泰子20歳、中也17歳だった。東京に出てきた2人の家を文芸評論家の小林秀雄が訪れる。小林は中原の詩人としての才能を誰よりも理解し、中原は批評の達人である小林に一目置いていた。泰子は2人に置いてけぼりにされたさみしさを感じるが、小林は泰子の魅力に気づいていく。

田中陽造の脚本「埋もれさせてはいけない」

東北芸術工科大理事長などとして後進の指導、育成にあたっていたが、映画作りへの情熱を改めて表す作品になった。数十年前から気にかけていた田中陽造の脚本を「埋もれたままにしていてはいけない、素晴らしい脚本」と絶賛。田中脚本の映画化は「透光の樹」(04年)、モントリオール世界映画祭監督賞の前作「ヴィヨンの妻 桜桃とタンポポ」(09年)に続いて3作目になる。

「田中さんとは気心が知れているし、『ヴィヨン』がうまくいったこともあった」と、6、7年前からプロデューサーらと準備を進めてきた。「最初の脚本からは、長い時間をかけてそれなりに改稿してもらった。陽造さん独特のけれんみみたいなものが強かったが、3人の関係性に全体を絞っていった」



「ゆきてかへらぬ」©︎2025「ゆきてかへらぬ」製作委員会

時代、関係性 すべてが特別でタイト

田中脚本のどこにひきつけられたのか。「三角関係とか青春といった枠に入るだろうが、とにかく特殊(な関係)ということ。一つは時代性。もう一つは、男2人は認め合っていて、お互いの発見者のように思っている。そこに何者かになろうとしてもがく女優が加わる。関係性も含めて鮮烈」と魅力の一端を語る。さらに「三角関係も奇妙なまま揺れ動き、1人を描いても残りの2人をどこかで意識せざるを得ない。2人を描くともう1人も。一つ一つのシーンだけではなく、すべてが特別でタイトな面白さにあふれている」と一気に話した。

強さの元となったのは、3人のキャラクターを鮮明に描き出したセリフである。「ある意味、文学的な言葉かもしれないが、非常に美しい日本語で会話をしている。日常の設定で(脚本の)言葉を話すのは、俳優にとってとても難しい作業だったと思う。それでも、テストを繰り返して、本人が思っている以上に自分のものにしていた。特に泰子役の(広瀬)すずさんは見事にこなした。女優としてステップアップしたところでもあるし、新しい広瀬すずを見せてくれた」と素直に感心したという。本作の広瀬に風格さえ感じたのは筆者だけではないだろう。

俳優たちが理解し努力して、場を作ってくれた

岡田将生、木戸大聖もしかり、どんな指導をしたのか聞くと「要求はほとんどなかった」とシンプル言葉が返ってきた。右向いてとかここで立ちあがってとか、もう少し(感情を)抑えてとか逆に激しく、といった程度だったという。「そうした動きがどんな意味を持つか理解してくれた。ほぼ順撮りで撮ったので、お互いのやり取りの中で役柄や心がどう壊れていくかも取り込めた。すずさんは『何も言われないので手掛かりがなくて、一生懸命考えた』と言っていた」

俳優に演じやすい状況や場を作るのも演出の一つだが、「俳優たちが自然と作ってくれた。脚本に恵まれ、それを読み込んだ俳優がそれぞれの人格を作りだした」ことを強調。「3人とも実際の人物だから、勉強する材料はたくさんあった。木戸さんは中原中也の記念館に撮影の前に行って、中原を体感し自分の中に取り込んできた」と努力に感謝の気持ちを示した。

舞台は大正デモクラシーや女性の解放に向けた運動、刻々と近づいてくる戦争の足音、さらに関東大震災と、政治や社会、文化の面でも際立つ時代だが「事象を半端に挿入するより全部横に置いて、3人の生きざまに執着した。3人が紡ぎ出すものを描けば、反発も、共感も生まれるはずだ。一人一人が自分に素直に生きようとしている。時代性とか、現代性というものではなく、見てくれた人がそれを受け止めてほしい」。

日本映画史を勉強し直した

久々の現場はどうだったのか。「進め方も含め変わってはいなかったが、スタッフは半分が従来一緒にやってきた人で、もう半分は新しい人。特にカメラマンの儀間眞悟さんと組むことで自分に刺激を与えたいと思ったし、実際うまくいった」。冒頭からカメラアングル、色彩感覚などが映像美を作り出し、根岸監督も満足の様子だった。

ただこうも話した。「(この期間に)映画についていろいろ勉強した。日本の映画史の中に自分もいると認識した」。「オリオンの殺意より 情事の方程式」(78年)で監督デビュー以来、日本映画界の中核にいた根岸監督が、映画について、日本の映画史について学び直したという。「結構勉強したからもう少しうまくなっているかと思ったが、始まったら何も進歩していない気がした」。以前から大風呂敷を広げる監督ではない。むしろ発言は謙虚であり、言葉を選んで真摯(しんし)に話す。「ただ、後退はしていないな、と思った」と笑顔も見せた。

次は手のひらに乗る現代劇をなるべく早く

「昨今は若い監督たちがたくさん出てきて、興味深く彼らの仕事も見た。僕らの時代の相米(慎二)や森田(芳光)、大森(一樹)ら素晴らしい才能が早く逝ってしまった。残った自分が若い監督たちに対抗してという意識ではなく、年齢や映画史でのポジションを踏まえて仕事を続けていきたい」

最後に「次作は何年も待たなくてもいいですね」と思わず聞いた。「文学者の話は続けて撮ったので、ピリオドを打つ。現代が舞台の映画をなるべく早く撮りたい。(今の時代)ある種のスケールがある映画は難しくても、手のひらに乗るような、さほど大きくない映画を作りたいと考えている」  

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