第96回アカデミー賞で「オッペンハイマー」が作品賞、監督賞などを受賞し、オスカー像を手にするクリストファー・ノーラン監督=ロイター

第96回アカデミー賞で「オッペンハイマー」が作品賞、監督賞などを受賞し、オスカー像を手にするクリストファー・ノーラン監督=ロイター

2024.3.31

クリストファー・ノーランは何者か 「技術がもたらす虚無」時間軸を操り問うもの

〝原爆の父〟と称される天才物理学者の半生を描いた「オッペンハイマー」。第二次世界大戦末期、広島、長崎に投下された原爆開発の舞台裏と天才科学者の葛藤を、壮大なスケールで映像化。日本公開までに曲折を経た一方、アカデミー賞では作品賞、監督賞、主演男優賞など7部門を制覇。賛否渦巻く問題作を、ひとシネマが独自の視点で徹底解剖します。

木村光則

木村光則

アカデミー賞作品賞、監督賞など7部門で受賞した「オッペンハイマー」は、人類を破滅させる力を持つ科学兵器を開発した人間の苦悩や葛藤を掘り下げた壮大なスケールの物語で、さながら映画版のドストエフスキー「罪と罰」とでもいった深みを感じさせる。クリストファー・ノーラン監督の集大成とも言うべき作品だ。



ノーラン監督の一連の作品には、「テクノロジーの発達によって生じる社会の危機や虚無に人間はどう向き合うか」という問いが潜んでいる。さらに、時間軸を自在に操る手法によって、作品世界をより深く、より大きく見せているのも特徴だ。初期の作品からひもといてみた。



「メメント」©2000 I REMEMBER PRODUCTIONS,LLC
U-NEXTで配信中

「メメント」 生きる意味の消失

ロンドンに生まれ、ロンドン大在学中から映画を製作していたノーラン監督は1999年、「フォロウィング」でデビュー。その名を世界に知らしめたのは監督2作目の「メメント」(2000年)だ。主人公のシェルビー(ガイ・ピアース)は妻が暴行、殺害された現場で犯人グループに頭を強く殴られ、記憶が10分しかもたなくなった。そこで大切なことを常に紙にメモし、時に入れ墨で彫りつけている。彼にとって最も重要なのは、「妻を殺害した人間に復讐(ふくしゅう)すること」だ。シェルビーの全行動はこのためにある。
 
同作の最も特徴的な構造が、時間が未来から過去へと流れていくシークエンスと、過去から未来へと流れていくシークエンスが交互に描かれていくことだ。そのため、見る側は物語を時系列で順に追うことはできない。結末が最初に示され、なぜそのような結末を迎えるのか、そして、シェルビーの思いや、妻の死を巡る驚くべき真実が、ラストで明かされる。
 
シェルビーは普通に生きる目標や目的を持つことはできない。なぜなら、目的を持っても、10分後には忘れてしまうからだ。これは「生きることの意義を見失いつつある現代人」を象徴していると私は考える。それに対し、シェルビーは生きる意義を「妻を殺した人間に復讐すること」だけに定める。だが、ここには大きな問題があって、「復讐」を果たした瞬間、シェルビーは生きる意義を失うのだ。そこで、シェルビーが下すある決断にこの作品の本質が潜んでいる。「メメント」では、現代人が抱える「虚無=生きることの意義の喪失」が抽象的な形で表現されている。
 
その後、ノーラン監督はアメリカンコミックのダークヒーローを描いた3部作、「バットマン ビギンズ」(05年)、「ダークナイト」(08年)、「ダークナイト ライジング」(12年)の世界的ヒットによって地歩を固めた。この「バッドマン」シリーズでも、ノーラン監督は単なるエンターテインメント作品にはせず、バッドマンや、悪役のジョーカーが抱える暗い過去や闇を描き出している。


 「インセプション」© Warner Bros. Entertainment Inc. and Legendary Pictures
U-NEXTで配信中

「インセプション」 夢の中へ

「ダークナイト」の次に製作したのが「インセプション」(10年)。この作品のアイデアは革新的でユニークだ。舞台は近未来の世界。夢の中に入り込み、アイデアや情報を盗み取る施術「エクストラクション」を手掛けるコブ(レオナルド・ディカプリオ)が、世界的実業家サイトー(渡辺謙)に「ライバル会社の次期社長、ロバート(キリアン・マーフィー)に、自分の会社を潰すような概念を植え付けてほしい」と依頼され、チャレンジするというのが大筋のストーリー。コブはある事情によって、殺人の容疑をかけられており、自分の子どもたちとも会えない。だがサイトーはコブが依頼を達成してくれたら犯罪歴を抹消し、家族にも会えるようにしてやる、と約束するのだ。

コブたちのグループはロバートを夢の中に連れ込むことに成功する。メンバーの誰かが、夢の保有者「ドリーマー」となり、メンバーはその夢の中に入り込む。夢の世界は多層構造になっていて、他の「ドリーマー」の夢へと次々に潜り込むことができる。夢の世界を奥へ奥へと潜り込むほど、時間の進行は遅くなっていく。


「インターステラー」© Warner Bros. Entertainment Inc.
U-NEXTで配信中

現実を見失う人間たち

夢の世界で前の階層に戻る方法の一つは、夢の中で「死ぬ」ことだ。この設定を巡っては、コブの妻モル(マリオン・コティヤール)の悲しい物語が哲学的な意味を持つ。モルはコブとともに夢の中に潜る仕事をしていたのだが、夢の中で理想の世界を作るうちに、現実世界に戻りたがらなくなる。そこでコブは、モルの夢の中で「これは現実ではない、現実に戻るためには死ななければならない」という思考を植え込む。その結果、モルは現実世界に戻ってもなお、「現実に戻るためには死ななければならない」と思い込み、自殺してしまう。

夢から夢の世界へと渡り歩き、何が現実なのかを見失ってしまう人間たち。これこそ、ノーラン監督が同作で発したかった警告だろう。テクノロジーや医学の発達によって、人間はどこまでも深い世界に潜れるようになるかもしれない。しかし、そのことによって、見失ってしまうものがある、というのがこの作品のメッセージだと思う。

14年公開の「インターステラ―」でも、「インセプション」と同じく時空を超えた世界が描かれる。砂嵐が絶え間なく吹き、食糧難に陥る近未来の地球。元テストパイロットで今は農家のジョセフ・クーパー(マシュー・マコノヒー)と娘のマーフィー(ジェシカ・チャステイン)は、マーフィーの部屋にもたらされる怪奇現象のメッセージを読み解き、ある基地にたどりつく。そこでは極秘裏に人類が生存可能な惑星を探し出し、移住させるプロジェクトが進められていた。

ジョセフはパイロットとして科学者たちとともに宇宙に旅立つ。そして、地球のある銀河から、別の銀河へと移行するトンネル「ワームホール」を抜けて、別の銀河へ移る。そこは地球と時間の流れが全く異なっており、最初に着陸した「水の惑星」での1時間は地球の7年に相当する。こうして、時空の全く違う銀河の世界と、地球の物語が並行して描かれるのだが、当然、地球の方が圧倒的に時間の流れが速いため、科学者となった娘のマーフィーがどんどん年を取る一方で、父親のジョセフはあまり年齢を重ねないというねじれ現象が生じる。

ジョセフと科学者たちも、その時空のずれは認識しており、人類が移住できる惑星を早く探さなくてはと悪戦苦闘する。一方、ジョセフたちが宇宙を探検する間も、地球の環境悪化は進み、人類の滅亡が近づく。人類を救う道はないかと必死に研究を重ねるマーフィー。時空のずれが物語に深みを与え、スリリングな緊張感をもたらす。


「TENET テネット」Tenet © 2020 Warner Bros. Entertainment Inc. All rights reserved.
U-NEXTで配信中

「TENET」現代予見 「キーウ」「テロ」「核」

最後に、20年に公開された映画「TENET テネット」に触れたい。この作品は現在の世界情勢を暗示している。

冒頭、ウクライナの首都キーウの劇場で立てこもりのテロ事件が起きる。劇場にいる米中央情報局(CIA)の工作員を謀殺し、彼が所持しているプルトニウムを奪うことが目的だ。その計画を阻止し、工作員とプルトニウムを保護するCIAの特殊部隊員(ジョン・デビッド・ワシントン)が主人公だ。主人公はやがて組織から、第三次世界大戦を防ぐために戦うことを求められる。

「キーウ」「テロ」「プルトニウム」「第三次世界大戦」――。当時のクリミア半島の帰属を巡るロシアとウクライナの緊張関係をすくい取り、現在の世界情勢にもつながるキーワードが並んでいる。

ただ、主人公たちが戦う相手はロシアではなく、「未来の地球人」だ。環境破壊によって、人間が地球で生きていけなくなり、未来の地球人が過去に居場所を求めてきたのだ。ここでも、未来から過去へと時間を逆行させる世界が描かれる。主人公の男たちの戦いは、逆行した時空の中で繰り広げられる。その作品構造は「メメント」と似ている。そして、戦いそのものが時間(現在)と時間(未来)の間で繰り広げられるのだ。何よりも、現代以上にテクノロジーが進化しているはずの未来の地球人が居場所を失い、さまよっているという状況が、環境破壊やテクノロジーの発展に対する警告となっている。

人間らしさ取り戻すために

ノーラン監督はインターネットを嫌い、今もスマホやメールを使わないという。また、映画製作にあたっては、極力コンピューターグラフィックス(CG)を使わず、大規模なセットを使った撮影を好む。おそらく、ノーラン監督の中には、進化するテクノロジーを人間がどう使うかということに対する強い危機感があるのだと思う。そして、映画製作を通じて、人間が人間らしさを取り戻すための模索を続けているのではないか。

「オッペンハイマー」の中にも、こうしたノーラン監督の思想が込められている。理論物理学の英知と科学技術を駆使して、人類を破滅させる力を持つ原爆という兵器を開発してしまったオッペンハイマー(演じるのはキリアン・マーフィー)の苦悩。原発は今もなお、ロシアのプーチン大統領がウクライナ侵攻を続ける上でのカードとして使われ、世界に恐怖を与えている。我々は生きる意義を何に求め、何を選択するのか――。過去から未来へ、未来から過去へ。時空を超えた世界を生み出すノーラン監督は作品を通じて、常に見る者に問いを投げかけている。

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ライター
木村光則

木村光則

きむら・みつのり 毎日新聞学芸部副部長。神奈川県出身。2001年、毎日新聞社入社。横浜支局、北海道報道部を経て、学芸部へ。演劇、書評、映画を担当。

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