「悪い夏」

「悪い夏」©2025映画「悪い夏」製作委員会

2025.3.19

「悪い夏」河合優実の無表情が反発から共感へと変わるまで

誰になんと言われようと、好きなものは好き。作品、俳優、監督、スタッフ……。ファン、オタクを自認する執筆陣が、映画にまつわる「わたしの推し」と「ワタシのこと」を、熱量高くつづります。

筆者:

洪相鉉

洪相鉉

「カサブランカ」「レイジングㆍブル」「雨に唄えば」「風と共に去りぬ」「アラビアのロレンス」「シンドラーのリスト」「めまい」「オズの魔法使」。映画製作者を教育し、アメリカにおける映画芸術の遺産を顕彰するアメリカの映画団体「アメリカンㆍフィルムㆍインスティチュート(American Film Institute、AFI)」が選定したアメリカ100大名作映画選の3位から10位までの作品には共通点がある。


「設計図」なしに名画は生まれず

マーティンㆍスコセッシ(「レイジングㆍブル」)、スティーブンㆍスピルバーグ(「シンドラーのリスト」)、アルフレッドㆍヒチコック(「めまい」)のように希代の映像作家として知られている大監督の映画が含まれているが、実はそれらのシナリオは監督自身ではなく他の脚本家が担当していたということ。製作現場の運営方式など、日本とはさまざまな違いがあることを認めても、「2対8」という数値が持つ意味は大変大きい。

いくら腕のいい監督でも作品の「設計図」といえるシナリオがなければ名作は決して生まれない。外資系配信業者の参入により「コンテンツ確保戦争」が非常に激しくなっている現状を見ると、「コンテンツのクリエーター」として脚本家の重要性はさらに高まっている。そのような面で浮き彫りになるのが、「物語の宝島」日本におけるオリジナルストーリーの生産力である。特記すべきは、その力が及ぶのが国内だけではないということだ。事例を探すの簡単だ。「イカゲーム」を見、「賭博黙示録カイジ」を参考にしなかったと言い張る人はいないだろう。韓国初のカンヌ国際映画祭グランプリ受賞作「オールド・ボーイ」の原作は、1990年代の日本漫画だ。


「悪い夏」©2025映画「悪い夏」製作委員会


「物語の宝島」支える向井康介

「悪い夏」のシナリオを担当した向井康介も、こうした「物語の宝島」を支えてきた人物の一人であろう。普段、まずは監督について取り上げるこのコラムで脚本家の彼の話をする理由は、その歩みが、相方となった監督によって分光器のように全く異なるスペクトラムを見せる独特のものだからだ。

最初に思いつくのは、山下敦弘とのケミストリー。初期の釜山国際映画祭で上映された、静かな物語に時々割り込むユーモアのリズム感、どこかアンバランスで滑稽(こっけい)だが情感あふれるキャラクターで観客を魅了した「ばかのハコ船」、鳥取県のつぶれた旅館に一緒に泊まることになった脚本家と映画監督の波瀾(はらん)万丈な一夜を描いた「リアリズムの宿」で、彼はアジアの映画青年が作っていく新しい流れをリードした。「コメディー」という単語を聞くやいなや、頭の中にバスターㆍキートンのスラップスティックやWㆍCㆍフィールズのダイナミックなアドリブを連想していた観客に、ホッと息をつくような愉快さを与える彼のドラマツルギーは、今やワールドスターになっている裵斗娜(ペㆍドゥナ)の出演で話題になった「リンダ リンダ リンダ」で頂点に達する。

職人・城定秀夫監督との出会いという事件

2000年代初期の向井康介はひとつの分岐点を迎えることになるが、メロドラマの名匠である三木孝浩と組んで、大衆的人気を獲得する作家としての爆発力を強く印象づけた「陽だまりの彼女」がそれである。同作は香港や台湾でも愛され、日本国内では17億9000万円の興行収入を上げて善戦した。次に、日本では珍しいポーランドのウッチ映画大学留学派らしく東欧風のミステリー映画の作り手として批評家と観客の両方に称賛される鬼才、石川慶との出会い。人間の暗い姿と救いへの身もだえを描いた「愚行録」「ある男」のベネチア国際映画祭正式出品に貢献し、「ある男」では日本アカデミー賞最優秀脚本賞を受賞。

このようなフィルモグラフィーをたどってみると、向井康介が「悪い夏」を通じて城定秀夫というもう一人の監督と遭遇したことは、「リトゥン バイ(written by)向井康介」映画に新たなページが加わったとも言えそうだ。筆者がプログラムアドバイザーをしていたプチョン国際ファンタスティック映画祭に「ビリーバーズ」を出品し、リモートでのインタビューで「自分の個性に意識的であるよりも、それが自然にあらわれることこそ作家性だと考える」という信念を披歴した城定秀夫は、ごく普通のすしに見えながら実はネタの味を最大限に生かしているすし職人のような個性の持ち主だ。そんな彼が、横溝正史ミステリ大賞優秀賞受賞作を原作に「破滅への転落と『今そこにある』恐怖を描く」というシナリオと出会ったのは、日本映画界における2025年上半期の「一大事件」とも言える。

物語に没頭させるサスペンス

読者の皆様に伝えたい「悪い夏」必見のポイントは、ピオトルㆍニエミイスキのカメラが映す東欧の重い空気感の中で切なさが胸を突く「愚行録」や、呪いのような血縁関係から抜け出そうともがく弱い人間群像を描いた「ある男」とはまた違うスタイルのサスペンスを構築しているということ。文芸理論家の韓国外国語大学名誉教授(ドイツ文学)の金光堯(キムㆍグァンヨ、2010年没)は、ドラマへの持続的な期待を誘発するサスペンスを同情、無知、芝居、音楽のサスペンスなどに区分する一方、「このようなサスペンスの中で観客はハラハラして、不安な状況にある登場人物と同一化し、ドラマにますます没頭する」と説明した。

「愚行録」では、無残な成長環境を克服しようとしながら、結局彼女を嫌悪し蔑視していた悪人の餌食になってしまう登場人物の光子が強く観客を引きつけるが、物語の発端である恐ろしい写真を誰が撮影したのか、結末に至るまで分からない。「ある男」では、口数は少ないが家庭的で優しい父親だった「大祐」が死んだ後、彼が全くの別人だったことが明らかになる。しかし観客には彼の正体がなかなか分からない。いずれも「無知」のサスペンスだ。

個性派俳優アンサンブルの妙

一方、「悪い夏」の物語をリードする愛美(河合優実)が引き出すのは、予告編でのファムファタールの雰囲気とは異なり、意外にも「同情」のサスペンスだ。「模範的でヒューマニティーに満ちた公務員を転落させる『最悪のヤツ』に何の同情の余地があるか」と反問する客席に座った人々の憤りを逆転させ、時間がたつにつれスクリーンに近づけるようにする不思議な映画体験。肉体関係に耽溺(たんでき)し、沈没していく欲望の行方を描いた数多くの作品を思い浮かべても、何の役にも立たなくなる。

予告編ではこれまでになく退廃的なイメージに変身した河合優実が目立つが、本編の愛美は時間がたつほど、観客の胸を詰まらせながら近づいてくる。最小限の関心しか持たないような表情を貫く彼女が、会話の中では次第に主人公に心を開いていく姿が強く響く。さらに、総体的なシナジー効果を発揮し、映画的な面白さを極大化させる伊藤万理華、毎熊克哉、窪田正孝ら誰一人見逃せない個性的な脇役キャストのアンサンブルが、「悪い夏」を見に来てよかったという満足感を伝えてくれるだろう。

それなら、もう劇場に駆けつける理由は十分ではないか。1分1秒ももったいない仕組みの堅固なストーリーテリングが、全く新しいサスペンス映画を望む皆様を待っている。

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