誰になんと言われようと、好きなものは好き。作品、俳優、監督、スタッフ……。ファン、オタクを自認する執筆陣が、映画にまつわる「わたしの推し」と「ワタシのこと」を、熱量高くつづります。
2024.2.05
三島有紀子監督の覚悟を目の当たりにした、シンガー・ソングライターが見た「一月の声に歓びを刻め」
3人の声が耳から離れない。カルーセル麻紀、哀川翔、前田敦子それぞれの特徴的な声にのった生々しいせりふが、ぐわんぐわんと頭を巡る。最も印象的だったのは回想シーン。俳優の声と立ち回りで構成された場面の演出は舞台のようでもあり、細かな映像で見るよりもはるかに身体に力が入った。それに応える俳優陣の演技にも圧倒され、くぎ付けになりながらも目を背けたくなるという不思議な感覚を初めて味わった。
三島有紀子監督の長編10本目となる「一月の声に歓びを刻め」。監督自身が幼少期に受けた性暴力事件を基に、3人の人生と三つの島、それぞれが抱える罪の意識や過去との向き合い方を描きながら、交わるはずのない物語が呼応していく。
この映画の核のひとつは、言わずもがな【声】だと思う。くしくも最近「声」についてよく考えていた。歌手としては当たり前だが、歌以外の部分で、だ。
私たちには、常に聞こえ続けている声がある。それは脳内の思考に伴う内なるもの。時には誰にも言われていない否定的な言葉を、自ら呪文のように、呪いのように繰り返す。心音よりも鮮明なこの内なる声のパワーは恐ろしく驚異的で、私たちを奮い立たせることもあれば、地獄へ突き落とすこともある。映画を通して、三島監督自身の脳内を駆け巡ってきた内なる声が聞こえた気がした。
そこから一歩先。歌う行為はもちろん、自分を守りたい時、全てを遮断したい時。咽喉(のど)を通って何かを発すると同時に、それが一番響くのは、この身体である。骨や空洞を震わせて。そして誰かの声や外界のリアクションを受け、また思考は展開する。やはり「声」が自分に与える影響はとてつもなく大きいと考えていたとき、この作品に出会えた。静かな叫びが声になると、誰かの救いとなることも教えてくれた。劇中、前田敦子さんが口ずさむのは、奇妙礼太郎さんの「きになる」という楽曲の一節。個人的に、この映画の存在を知ったきっかけでもある。たったワンフレーズで作品のメッセージを補完し、さりげなく希望やアフターストーリーを示唆してくれる作詞作曲の早瀬直久さんの凄(すご)みと、この曲を選んだ三島監督の鋭い感覚に心を揺さぶられながら、声と音の余韻が続く映画だった。
ロケーションや音が美しく繊細であればあるほど浮き彫りになるドロッとしたもの。人間の欲望、醜さ、ズルさ、汚さ。向き合う過酷さは想像し難い、過去の経験。それらを映画で表現した三島監督の覚悟を目の当たりにしたとき、罪や許しについて己と対話するだろう。きっと正解はない。終わりもない。ただ、耳を澄ますだけでいいのかもしれない。