©2022「わたしのお母さん」製作委員会

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2022.11.11

この1本:「わたしのお母さん」 機微を柔らかに厳しく

毎週公開される新作映画、どれを見るべきか? 見ざるべきか? 毎日新聞に執筆する記者、ライターが一刀両断。褒めてばかりではありません。時には愛あるダメ出しも。複数の筆者が、それぞれの視点から鋭く評します。筆者は、勝田友巳(勝)、高橋諭治(諭)、細谷美香(細)、鈴木隆(鈴)、山口久美子(久)、倉田陶子(倉)、渡辺浩(渡)、木村光則(光)、屋代尚則(屋)、坂本高志(坂)。

母と大人になった娘の物語である。終盤まで、これといった事件はない。日々の生活を淡々と映し出しながら、母と娘のすれ違う心を刻んでいく。絞り込んだセリフ、無駄のない俳優の動きが、柔らかさと同じくらい厳しさに満ちた感情の揺らぎを拾い上げる。豊かな映画体験に目も心もくぎ付けになっていく。

息子の勝夫婦と同居していた母寛子(石田えり)はボヤ騒ぎを起こし、夫と2人暮らしの長女夕子(井上真央)の家に転がり込む。夕子は駅まで寛子を迎えに行くが、寛子が夕子に気がついた途端、目をそらしてしまう。すぐに夕子は笑顔を作る。序盤のこのシーンだけで、2人の関係性を一気に見せる。

寛子は隣人家族と親しくなり、家事を仕切り始める。悪気はないが何かと余計な一言を口にする。夕子はうつむき黙り込む。子どもの頃から感じていた母への違和感や苦手意識が広がり、息苦しさを帯びてくる。井上は言葉に出せない感情やどうしようもなさを隠すように表情を崩さない。石田の飾らない明るさが、時に母娘の高まる密度の切迫から解放してくれる。

終盤にきてドラマが変転する。前半はやや冗長感がまさってしまった長回しが、終盤にきて映画全体を息づかせる。母の部屋で、母の紅を塗り、これまで内に秘めていた真情を吐露する井上が繊細な演技を見せる。体全体で夕子を救い上げていく。それまでの鬱々とした夕子を置き去りにして、ゆっくりと部屋から解き放つ。

杉田真一監督は娘や母の心の機微にじっくりと向き合って、わだかまりや気持ちの波、高ぶりを切り取った。何より説明を極力避けて、観客に委ねる時間を生みだした。母と娘、このやっかいな切り離しようのない関係性に、人の思いを誘い、静かに提示した。今の時代に貴重な作り手である。1時間46分。東京・ユーロスペース、大阪・シネ・リーブル梅田ほか。(鈴)

異論あり

主人公の少女時代の回想シーンが挟まれるのに、意外な真実が明かされるわけではない。母と娘が本音で激突する修羅場のクライマックスもない。そして日本映画にありがちな、すべてが丸く収まって家族の絆をうたうという結末には目もくれない。そんな〝ないない尽くし〟のこの映画、かなり肝が据わったチャレンジングな作品だと思う。しかし静謐(せいひつ)な場面の連続に停滞感を覚えた。主人公の生きづらさや母親への違和感は前半だけでもひしひしと伝わってくるのだから、もっとドラマやサスペンスで映画を動かすべきではなかったか。(諭)

技あり

鈴木周一郎撮影監督は新しいホームドラマを撮った。出だしのボヤ騒ぎは、油鍋を火にかけたまま玄関で話し込み、気づくのが遅れるまでを淡々と見せる。画面の上手半分で鍋の炎だけを見せ、次は夜の庭先で会話する寛子と消防士。引いた情景のような撮り方だが、山場は濃密だ。夕子が飲めない酒を飲んだ帰り道。歩く夕子をバストアップの手持ち、後退移動でうまく追う。家に帰ると寛子が起きていて「何してたの」と責めるが、夕子は無言で拒絶の構え。切り返しで濃い場面を作った。狭いロケセットで芝居を見せようと健闘した。(渡)

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