2024年を代表する映画、俳優を選ぶ「第79回毎日映画コンクール」。時代に合わせて選考方法や賞をリニューアルし、新たな一歩を踏み出します。選考経過から受賞者インタビューまで、ひとシネマがお伝えします。
第79回毎日映画コンクールで撮影賞を受賞した「十一人の賊軍」の池田直矢=長谷川直亮撮影
2025.2.11
師匠譲り86年前のカメラ ラストシーンに映った〝未来〟 毎日映画コンクール撮影賞 池田直矢「十一人の賊軍」
「作品にとって少しでも力になれたかな、と思うと素直にうれしい」と満面の笑みを浮かべた。笑顔の背景にあるのは「スタッフ、特に照明部と、一つでも形のあるものを残したい」という思いだ。撮影作品が毎年数本公開される活躍だが、毎日映コンは初受賞。「賞と呼べるもの自体、ほとんどいただいたことがなかった」と喜んだ。
「何かしたい」と思わせる白石和彌組
受賞対象となった「十一人の賊軍」(白石和彌監督)は初の時代劇。ロケ地は広大で、夜のシーンが目立ち、アクションもたっぷり。カット数も多く、力量が問われた。「〝月明かり〟とは言うものの、光がない。大きな地形で高い所からのライティングで、カメラは振るし、登場人物も多い。これまで何度も仕事をしてきた、照明の舘野秀樹さんと相談した。仕上げのグレーディングの時間を多めにとってもらい、画(え)がつながり音が入った時に映像としてどう見えるか、この作品にとって何がベストか最後まで探った」
白石監督とは「死刑にいたる病」に続いて2本目。「十一人の賊軍」では、砦(とりで)のセットを組んだ千葉県鋸南町の宿所で同部屋になり、何度も話した。「白石監督はプロデューサー的にも演出でも発想が鋭く、監督力が高い。この人のために何かしたいと思うし、努力に応じてポテンシャルが引き出される。自分が映画に残ると感じる現場」だったという。
「十一人の賊軍」©2024「十一人の賊軍」製作委員会
大人数の集団時代劇「色気感じた現場だった」
幕末を舞台とした、新政府軍と新発田藩の罪人11人による集団抗争劇。大人数が激しい動きを見せるが、映像は雑然とせず、どのシーンも強めのトーンで人物の感情を際立たせた。「映画を熱心に作っている人たちの色気を感じた。舘野さんも白石監督も、その瞬間の俳優がいいと思えばカメラをそちらに切り替える。白石監督はライティングが崩れても面白がって、ポスプロ(撮影後の仕上げ作業)できちんと仕上げればいいという構えだった」。その瞬間の〝いいもの〟にこだわるのは、池田も全く同じ。写真家を例にこう説明した。「篠山紀信はなんでこんな顔を写せたのか、荒木経惟の被写体はなぜこんな顔をしたのか。映画でもスチール写真の1枚から、誰が撮影監督か分かるのでは」
カメラに興味のない写真館の息子だった
香川県の出身で父親は写真館を営んでいた。だが子どものころはカメラの存在が近すぎて触ったこともなく、父親の仕事に関心もなかった。ただ、兄が撮った父親の遺影に感心し「家族が撮ったからこういう顔をしたのか」と考えたという。「作品の力になるとは、構図とか光の具合も、もちろんある。だが今自分がやろうとしているのは(兄が父を撮ったような)ことなのかもしれない」
穏やかで言葉を丁寧に選ぶ。「カメラマンになって賞をいただくなんて、想像していなかった。助手の時は目線やライティングのことは分からないし、カット割りにも興味がなかった。映画はあまり見ないし、そもそも強い意志があって映画界に入ったわけではない。全く駄目な助手だった」と振り返る。「でも、今は撮影にものすごく興味がある」と体を前に乗り出した。カメラマンの面白さは「役になった瞬間の俳優さんを、一番近い場所からのぞき込み、観察するぜいたくと楽しさ。その時の感情や画から感じるスタッフの仕事を見続けたい」と話した。
真田広之との〝出会い〟が将来を決めた
映画の世界に足を踏み入れるきっかけは、自主製作映画のカメラマンのつてで浜崎あゆみの収録現場に行き、その映像を見て関心を持ったこと。19歳か20歳のころだ。「高間賢治カメラマンの現場で、フィルムの詰め方から始まり、何から何まで面倒を見てもらった」。その後、木村大作や阪本善尚ら名カメラマンらの元で力をつけ、40代前半での受賞である。
「実は元々スタントマンになりたかった」と聞いて驚いた。中学生の時に映画「ヒーローインタビュー」(1994年)を見て、真田広之のとりこになった。テストで名前の欄に「真田広之」と書いたほどで、ジャパンアクションクラブに入りたいと言って親に号泣された。「今思うと、最初の頃は真田さんに会いたくてこの仕事をしていた。賞をいただいて、誰かを撮りたいという純粋な思いを追いかけてもいいのかなと思っています」と相好を崩した。
木村大作から譲り受けた機材と思い
インタビューの最後に、とっておきの話を紹介したい。この映画はデジタル撮影されたが、ラスト、11人のうち2人だけ生き残ったなつ(鞘師里保)とノロ(佐久本宝)が新潟湊の町中に登場するシーンは、フィルムで撮影された。
使ったのは、池田が助手としてついた「春を背負って」の監督、撮影の木村大作から「お前使え!」と譲り受けた86年前のカメラだ。「撮影中、同宿で同部屋だった白石監督に『ぜひ使わせてほしい』と思いを伝えたら、『やりましょう』と言ってくれた。亡くなった賊軍の思いを2人が受け継いで生きていくラストにふさわしいと思った」。日本映画を支えてきた大ベテランの名カメラマンから若き俊英への継承を感じるエピソードだ。
「フィルム事故のリスクもあったが、プロデューサーも受け入れてくれた。86年前の大作さんのカメラで撮ったら、何かが映るかもしれないと考えた」。最後のなつの表情のフォーカスがぼけていて、フィルムと気づいた方もいるだろうが、フィルムならではの質感、味わいがこの物語のエンディングにぴったりだった。
将来も見据えてこうも語った。「これからAIなどが発達し、きれいな画を撮れるようにしてくれるのかもしれないが、それは僕が撮れているのか、カメラを作った技術者の力で撮れているのか、グレーな状況になると思う」。考えながら言葉を続ける。「フィルムのカメラはデジタルに比べ不自由です。だからこそ、それでもいいものを撮る技術を考えていけば、力をつけて、求めてくれる監督やプロデューサー、作品に応えることができるのかなと考えています」