シベリア抑留でなくなった山本幡男さん=長男顕一さん提供

シベリア抑留でなくなった山本幡男さん=長男顕一さん提供

2022.11.15

二宮和也が演じた悲劇の人 山本幡男の遺書とシベリア抑留 「ラーゲリより愛を込めて」解題

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栗原俊雄

栗原俊雄

「ラーゲリより愛を込めて」で二宮和也が演じている山本幡男は、実在の人物だ。第二次世界大戦後、ソ連によって日本人およそ60万人がシベリアに抑留され、6万人が命を落とした。山本幡男さんはその一人。本稿では作品の背景となるシベリア抑留と、山本さんの人となりについて見ていきたい。
 


 

第二次世界大戦 敗戦後の悲劇

第二次世界大戦は1945年夏、大日本帝国の降伏で終わった。メディアはそこを「終戦」ととらえ、「戦後○○年」という表現をしばしばする。しかしその「終戦」の後に始まった新しい戦争被害がたくさんあった。たとえば、シベリア抑留である。
 
ソ連は44年、日本と中立条約を結んでいた。しかし力による現状変更、国際秩序の破壊をやってのけるソ連(日本もそうだったが)は条約の期限が切れる前の45年8月9日、日本の植民地でかいらい国家だった旧満州(現中国東北部)に攻め込んだ。さらに日本兵や民間人を自国領やモンゴルに拉致。最長11年間拘束した。これがシベリア抑留だ。
 
ソ連はドイツとの死闘などにより、国が荒廃していた。復興の人的資源も不足していた。それを補うために捕虜に労働をさせた。山本さんたち捕虜(被抑留者)は極寒と飢え、重労働の「三重苦」にさいなまれた。その痛苦は、映画の中でもよく再現されている。


シベリア抑留から帰国した引揚者は、上陸早々故郷への手紙をしたためた=京都・舞鶴港で1948年5月6日、納富通撮影

収容所内にはびこる日本軍の抑圧構造

ソ連は捕虜を管理する上で、日本軍の階級秩序を利用した。これが悲劇を大きくした。戦争は終わっていても、「上官の命令は絶対」であった。「上官」はこの「秩序」を利用し、「部下」をこき使うことがあった。自分は重労働をせずに部下たちに働かせる。そして、ただでさえとぼしい食糧なのに、下級兵のピンハネをした。暴力も横行した。
 
記者(栗原)は100人近い抑留体験者に取材し、体験者たちの膨大な手記を読んできた。映画の中でも、桐谷健太が演じる相沢光男が、山本を敵視してつらく当たる。この登場人物は映画の創作だが、モデルになるような者(旧軍の秩序を利用する者)はたくさん実在していた。


「ラーゲリより愛を込めて」 ©2022 映画「ラーゲリより愛を込めて」製作委員会 ©1989清水香子 

ロシア語学び、満鉄調査部勤務の経歴がアダ

山本さんは08(明治41)年、島根県・隠岐4島の西ノ島町生まれ。東京外国語学校(現東京外国語大)でロシア語を学んだ。在学中、左翼運動に参加し28(昭和3)年、日本共産党員らが弾圧された3・15事件で逮捕された。卒業間際だった山本さんは、退学を余儀なくされた。36年満州に渡り、日本の国策会社だった南満州鉄道株式会社(満鉄)の調査部に採用された。以後、ソ連の経済や社会、軍事などの分析を担当した。当時のインテリであり、ロシア通であった。日本の敗色が濃くなっていた44年、陸軍に召集された。ハルビン特務機関に配属され、ソ連に関する情報の分析に当たった。
 
抑留後、この経歴があだになった。ソ連は山本さんを「スパイ」と断定し、裁判で「重労働25年」の判決を下した。まともな弁護なし、控訴もできない。ソ連のこうしたいいかげんな「裁判」で断罪されたケースは多数ある。しかし崩壊した日本政府に、彼ら「被告」を救うことはできなかった。事実上、被抑留者は見捨てられていたのだ。山本さんは49年、極東ハバロフスクの強制労働収容所に移された。


 

「民主運動」がもたらした、さらなる「苦」

ソ連側は「ダモイ」(帰国)は近い」と言い、捕虜たちのモチベーションを保とうとした。しかし多くの場合、それはうそだった。仲間が次々と死んでいく。理不尽な旧軍秩序が残る。少ない食糧をめぐるいがみ合い、盗み合いまであった。いつ帰国できるか分からない。それどころか、自分も死ぬのではないか――。そうした絶望が広がった。さらにこのころ、前述の「三重苦」とは別の「苦」がラーゲリを包んでいた。
 
理不尽な旧軍秩序を解体する動きが、捕虜たちの間で広まっていた。「民主(化)運動」と呼ばれた。しかし運動が進むにつれ、日本人同士を分断することになった。ソ連主義、共産主義に感化されるか、感化されたふりをした者たちが、ソ連の力を背景として「新しい秩序」の担い手になった。
 
自分たちを不法に拘束しているソ連を「祖国」として礼賛するような、倒錯した価値観も生じた。さらに旧軍時代に「反ソ」的な活動をしたり、立場にいたりした者たちを「反動」として糾弾し肉体的、精神的なリンチを行うことも少なくなかった。映画ではこの「民主運動」もよく伝えている。


 

「アムール句会」が希望の光に

捕虜たちが絶望にさいなまれる中、山本さんは希望の光をともす。映画の中ではほとんど描かれていなかったが、日本語による文芸活動を広めたのだ。「アムール句会」という俳句サークルを結成した。ソ連は共産主義の勉強会など特定の目的以外で日本人が集まることを禁じていたので、句会は「秘密結社」であった。下級兵や将官、民間人も参加した。家族や故郷への思い、季節の変化などを詠んだ。
 
さらに「文芸」という小冊子を編さんした。紙が不足していたため、作業場のセメント袋を紙がわりにした。俳句や和歌、エッセーなども掲載された。これもソ連側が極度に嫌う活動であった。見つかったら「スパイ」扱いで、投獄される恐れもあった。そんな活動を山本は主宰した。捕虜同士の精神的つながりを生み、強くする活動であった。ソ連側の理不尽な要求に体を張って抗議することもあった。優しい人柄と豊かな教養、勇気。そこから生じる人望とリーダーシップ。山本はしだいに捕虜たちの精神的な支柱となっていった。
 
しかし病魔に襲われる。収容所にいた東京外国語学校の先輩で、満鉄の上司でもあった佐藤健雄は、山本の死期が迫っていることを悟り、遺書の執筆を勧める。それは「あなたはもう長くない」と宣告することだ。よほどの信頼関係がなければ、そんなことを勧められない。2人の絆があればこそだっただろう。


 

4500字の遺書、遺族に伝えた驚くべき執念

山本は受け入れた。必ず家族の元に届けてくれと、母と妻モジミ(映画では北川景子が演じている)、3人の子どもたちに計4通の遺書をしたためた。4500字もの長文である。しかしソ連は日本語で書かれた物を国外へ持ち出すことを許さなかった。それでも山本の遺志を家族の元に届けたいと願った6人の仲間たちは、驚くべき方法で山本との約束を果たすのである。
 
本作の原作は、作家・辺見じゅんによるノンフィクション「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」。仲間がどのようにモジミに「遺書」を届けるかは、作品のクライマックスだ。映画でそのシーンが描かれることは、見る前から分かっていた。それでも映像として見ると、胸に迫るものがある。


 シベリアから最後の引き揚げ者を乗せ、京都府・舞鶴港に到着した「興安丸」。帰国前に亡くなった山本幡男の遺書を遺族に届けようとしていた仲間たちが乗船していた=1956年12月26日撮影

辺見じゅんのノンフィクションが埋もれた歴史を発掘

辺見は「遺書」の存在を知った後、3年かけて山本さんのことを取材した。山本さんの長男である顕一さん(87)によれば、「山本幡男を少しでも知る人をたずねて、全国を回られた。シベリア抑留に関するあらゆる資料に目を通された」という。抑留については、アカデミズムの研究が絶望的に立ち遅れた。ジャーナリズムも実態を十分に伝えてこなかった。であればこそ、辺見の原作は一層価値が高い。
 
しかし依然として、抑留の実態を知らない人も多い。映画は、近現代史にさほど関心がない人、あっても抑留についてよく知らない人(アカデミズムとジャーナリズムの役割放棄の影響が大きいのだが)も集うメディアだ。山本さんと家族、仲間たちが残した奇跡は、本作によってさらに長く語り継がれるだろう。

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ライター
栗原俊雄

栗原俊雄

くりはら・としお 1967年生まれ、毎日新聞専門記者。2003年から学芸部。専門は戦後補償史、日本近現代史。07年からシベリア抑留体験者や遺族に取材を続けている。08年にはシベリアでの墓参に参加。著書に「シベリア抑留 未完の悲劇」(岩波新書)、「シベリア抑留 最後の帰還者 家族をつないだ52通のハガキ」(角川新書)など。