「仏教の次に映画が大好き」という、京都・大行寺(だいぎょうじ)住職の英月(えいげつ)さんが、僧侶の視点から新作映画を紹介。悩みを抱えた人間たちへの、お釈迦(しゃか)様のメッセージを読み解きます。
2024.7.07
「骨を掘る男」 先人たちを〝訪らう〟:英月の極楽シネマ
沖縄戦の戦没者の遺骨を40年以上にわたり収集し続けてきた具志堅隆松さんを、自身も沖縄戦で大叔母を亡くした奥間勝也監督が追ったドキュメンタリー映画です。地中から出てくる骨や歯、かんざしなどの遺品から、まるで声を聞くようにして、亡き人の年齢、性別、最期の様子を推察して言葉にしていく具志堅さん。彼に同行する監督は、会ったことのない大叔母に対して、悲しいという感情がわきません。その中で「出会ったことのない人の死を悼むことはできるのか?」との問いが生まれてきます。
さて、法事をお勤めする際に浄土真宗では、法要の趣旨を仏さまと参拝者に告げる「表白(ひょうびゃく)」というものを僧侶が読み上げます。そこには「前(さき)に生(うま)るゝ者は後を導き、後に生るゝ者は前を訪(とぶ)らい」という親鸞さんが大切にしたお経の注釈書『安楽集』の言葉があります。
「訪らい」は「とぶらい」と発音するので、文字を見ずに耳で聞いていると「弔い」だと思ってしまうかもしれませんが、「訪らい」は文字通り、訪ねる、訪問する、会いに行くという意味があります。その他にも、問いたずねる、調べる、という意味もあり、まさに具志堅さんの行動そのものです。亡き人を訪ね、掘り、出てきた骨から、その人の生きていた姿、そして最期を問いたずねる。先人たちを「訪らう」ことで、明らかにされていくことがあるのです。
そこには、身内か、身内でないか、会ったことがあるか、ないかは関係ありません。大事なのは、亡き人たちから知らされることがあるということです。生きている人の声だけを聞いていると気づけないこともあるのです。