国際交流基金が選んだ世界の映画7人の1人である洪氏。海外で日本映画の普及に精力的に活動している同氏に、「芸術性と商業性が調和した世界中の新しい日本映画」のために、日本の映画界が取り組むべき行動を提案してもらいます。
2024.4.23
人が痛みに向き合う強さを、技術と芸術の融合で観客に語り掛ける「一月の声に歓びを刻め」
「No, the pleasure is mine!(いや、うれしいのは私の方だよ!)」
彼がにっこりとほほ笑みながら握手を求めてきた。思わず「やった!」と声を上げたくなる気持ちを落ち着かせ、彼の手を握った筆者。とても優しい顔をした白人の中年男性は、筆者の肩を軽くたたきながら話を続けた。
「May you can make today's story into a film later. With a title like “A Long Drive Cowboy”.(今日の話が映画化されますように。タイトルは『A Long Drive Cowboy』だね)」
そういう話をするのは当然かもしれない。あの夏の日、彼に会うために米ミズーリ州のブーン郡からウィスコンシン州のマディソン市までおよそ450マイル、つまり700何十キロを運転していったのだから。休まず運転しても約8時間はかかる。宿泊費が出せるような暮らし向きではなかったため、眠くなったら適当なところに駐車して仮眠し、1990年型フォードF150ピックアップトラックのガソリンをいっぱいに満たした。黒い髪の毛に黒い目だが、カウボーイブーツにブーツカットのジーンズ、ウエスタンチェックのシャツを着ていた筆者の姿が印象的だったようだ。
もちろん、筆者にもそこまでしてでも彼に会う理由は十分にあった。チャイニーズレストランでのホールサービングや皿洗い、スポーツバーの掃除まで終えてから夜明けに旅に出るぎりぎりの日程を甘受してでも「アメリカのアンドレㆍバザン(映画監督のデイミアンㆍチャゼルの表現によると)」の映画理論講義を聞き、あいさつができれば十分なやりがいがあったと言えるだろう。
三島有紀子監督が思い出させる、映画理論家デビッド・ボードウェルの研究
ウィスコンシン大学マディソン校の教授で、映画理論家のデビッドㆍボードウェル。筆者が訪ねる1年前、彼が妻のクリスティンㆍトンプソンとの共著で出版した「Film History: An Introduction」は、すでに世界の映画学徒の必読書になっていた。ニューヨーク大学ティッシュ芸術学部のマーティンㆍスコセッシ映画学科の学科長デーナㆍポランが発表した追悼文を読みながら、ドラマチックだった彼との対面を思い出した。2024年2月29日、76歳で逝去。怖いもの知らずの青春だった筆者もいつの間にか50代を迎えようとしている。彼の記憶を思い出したのは、亡くなる数日前まで侯孝賢(ホウㆍシャオシェン)についての文を書いていた当代の映画理論家をたたえるためだけではない。20年の全州国際映画祭のプログラムアドバイザーとして「Red」の作品を招待したことで出会い、いつのまにか「映画的同志」になった三島有紀子が、彼の逝去の約3週間前にちょうど彼の研究を思い出させる新作「一月の声に歓びを刻め」を公開したためだ。
ボードウェルは自分の研究の方向を次の三つの領域に区分している。①映画形式(特に敍事)の歴史と創造的源泉 ②映画技法。すなわちスタイルの歴史と創造的源泉 ③映画に反応する観客の活動を支配する原則。この三つの領域を統合するボードウェルのアプローチが、歴史的詩学(historical poetics)なのだ。彼の説明によると、映画の詩学はアリストテレスの「詩学」からロシア形式主義(Russian formalism)に至る文学批評およびハインリヒㆍべルフリンとエルンストㆍゴンブリッチなどの美術史研究が追求した関心事と同様に、芸術作品としての映画を構成、その映画の美的効果を生み出すのに関与する材料と技巧に注目した。これは材料と技巧の間の相互作用を支配する原則に対する質問につながるが、原則は特定の経験的状況で出現し変化するため、歴史的眺望も求める。
詩学と歴史が出合う地点には、規範(または規則、慣習)がある。この研究で重要な比重を占めるのが、自分の規範をスタイルと叙事で実現したカールㆍテオドアㆍドライヤー、セルゲイㆍエイゼンシュテイン、小津安二郎のような映像作家への注目だ。そのように「映像言語の規範とコンベンションを実験する監督」をアジアで発見し、最近では技術的、美学的実験を通じて従来のアジア的ミニマリズム(Asian minimalism)を越えてアバンギャルドの実験性を具現していく新しい流れに賛辞を送っていた。これまで培ってきた知名度と認知度にもかかわらず、スタイルを定義するのが難しいというほど新しい試みを繰り返している映像作家に、三島有紀子以上に的確な監督がいるだろうか。
千変万化の三島有紀子監督! 最新作に私が、世界が、また引き込まれる訳
以上のように作家について規定しておいて、彼女の新作「一月の声に歓びを刻め」を見てみよう。暗転でサウンドが聞こえ始め、夜明けの海辺を見ていたかと思えば、いつの間にか客席の私が運動性と時間性という両翼で飛んできたその美しい致命的なイメージの襲撃に息もできないほど没頭してしまう導入部の5分14秒以後で、観客は北海道の洞爺湖、東京の八丈島、大阪の堂島を横断する旅にでる。
まず、何度も嘆声をもらすのは日本の監督としては珍しく、アートディレクティングチームとの有機的な協力を通じて、色を通じた心理の表現から始まる驚くほどの視覚的完成度を見せている点だ。次に注目するのは、俳優を大衆的人気(例えばCMでの知名度などが基準となる)よりも、作品全般についてコミュニケーションできるキャストを選び、与えられた役の人生そのものを経験させながら「体という楽器を演奏する音色」として、ボイスを類例なき効率性で活用する作法が大成功を収めている点である。ここにはフランソワㆍトリュフォーの「隣の女」や「突然炎のごとく」、デビッドㆍリーンの「ライアンの娘」、ジョンㆍカサベテスの「フェイシズ」、アニエス・バルダの「幸福」などを映画評論家以上の深さで分析して得た演技演出の妙(彼女は筆者と韓国のメディアで行った「Red」のロングインタビューでこれについて詳しく説明している)が表れている。
一方、すでに監督が明らかにしているように「一月の声に歓びを刻め」は性的な暴力に直面した自分の体験に基づいており、一人の人間の人生を変える暴力について語る、いわゆる「サバイバー」に関する映画でもある。しかし、社会派の題材を扱いながらも、前述したボードウェルの技術的、実験が行われることによって、ドラマの面白さや観客に伝えるカタルシスという結実が現れる。 こういう面を見つければ見つけるほど、やはり同作は劇場に足を運んで見るべき日本を代表する女性監督の作品という評価はますます強固になる。
最後に同作の英語のタイトルがなぜ「VOICE」なのかがわかる。「前田敦子アクティング」の白眉を披露するラストシーンで筆者の頭の中に浮かんだのは、17年の「幼な子われらに生まれ」で三島監督が全州国際映画祭に招待された時、これまでの国際映画祭での輝かしい経歴にもかかわらず、むしろ「彼女は才能の割には過小評価されていた」と言っていたプログラムディレクターの金泳辰(キムㆍヨンジン=映画評論家、韓国ㆍ明知大学教授)の指摘である。「演出の呼吸は古典的でありながら端麗で、ショートを無駄にしない正確性を図っている」というだけでなく、前作の監督と新作の監督が本当に同一人物なのかと驚くほど新鮮さが感じられる中で、まねできない完璧を求める芸術魂が燃えているのだ。
24年4月8日、今回も決して見過ごされないだろうという予想通り、海外の国際映画祭に招待され出国を控えている彼女と今後の作品活動について電話で話を交わした。残念ながら、今は上映が終わってしまった劇場が多いが、依然として作品について話すことが多く、現実に安住せず映画を通じて世界に進もうとする数多くの計画を話すこの止まらない「フィルムㆍクルセイダー(映画の十字軍)」。電話が終わった後のある友人の一言を書いてみる。
「三島さん、精進もいいけどもう少し自分に優しく、たまには怠けても悪くないよ」