国際交流基金が選んだ世界の映画7人の1人である洪氏。海外で日本映画の普及に精力的に活動している同氏に、「芸術性と商業性が調和した世界中の新しい日本映画」のために、日本の映画界が取り組むべき行動を提案してもらいます。
2024.2.27
【追悼・世界のオザワ】音楽を共通言語にして生きたマエストロ・小澤征爾を語り続けよう
1991年4月24日、水曜日。思ったより寒くない天気だった。
だから良かったのか。いや、そうではなかったと思う。久しぶりに父と二人だけのシカゴ旅行だったが、やはり予測できないスケジュールで忙しくなった父は、筆者を父のユダヤ人の友人宅に預け、急いでニューヨークに行ってしまった。とはいえ、父の友人のミスターㆍアベルマンは、筆者が少しでも暗い顔をするのが申し訳なくなるほど優しい人だった。2歳年上のその家の娘・エリザベスも、筆者にシカゴの歴史や文化を説明することに必死だった。
ミスターㆍアベルマンとともに1904年開場したシンフォニーセンターを訪れ、その正面に筆者の英語の名前(「トーマス」)が刻まれていることを彼が指さしながら私の肩をたたいた時は、いつもより明るい表情をしながら笑ってみせた。普段友達に呼ばれるあだ名は「トミー」だったが。
鳥肌モノの感動! 〝世界のオザワ〟が見せてくれた真の芸術
コンサートが始まり、実にジャズとブルースを弁証法的に統合したジョージㆍガーシュウィンの「ラプソディㆍインㆍブルー」を連想させるヘアスタイルのアジア人指揮者が壇上に上がった。筆者は心からうれしくなった。客席に座って音楽が与える喜び以外にも、アジア人としての誇りと偉大なる芸術家への敬意、そしてこの全ての感情を調和させる感動で鳥肌を感じたからだ。
偶然にもボストン交響楽団を率いてやってきたマエストロの小澤征爾氏。時代を風靡(ふうび)した音楽の歴史、ヘルベルトㆍフォンㆍカラヤンの弟子。筆者の生まれる1年前から、アメリカ5大オーケストラのひとつに挙げられるボストン交響楽団の音楽監督に就任していた世紀の巨匠。久しぶりに再会することになった私たちのために、アベルマン家が企画したイベントだった。
音楽と映画それぞれが、観客に物語を響かせるメソッド
振り返ってみると、何よりも驚くべきことは、ベートーベンの交響曲第8番に続くレパートリーだったベルリオーズの幻想交響曲だった。類例のない多彩な管弦楽法で、ロマン主義の音楽語法を革新させた同作は、ベルリオーズを交響曲に本格的なナラティブを取り入れた最初の作曲家にした。愛する女性、ハリエットㆍスミスソンを象徴するメロディーを作り、楽章ごとに適切に配置し、リズムと楽器を変化させて使う作法。これは観客に展開される内容について説明し、それを基にどのような事件が起きるかを予測させる。同作では、若い音楽家が心の中に描く理想的な魅力を全て備えた女性に出会い、まもなく恐ろしいほどの愛に落ち、愛する女性のイメージがひとつの楽想と結合して彼の心の中に入り込むというある作家の想像を語る。
映画の世界でこれは現実世界を再生産する手段として使われるが、この過程で観客は映画と現実を同一視するようになる。ただし、映画は同一化に基盤を置いたストーリーの線形性(linearity)と安定性(stability)が核心であるため、自然に映画的な全ての要素はストーリー展開に働くように構成されるだけである。フランスの文学理論家、ジェラールㆍジュネットは、この概念を「ディエイシス(diegesis)」という用語で説明した(Gerard Genette, 「Figures II」, 1969)。特定の物語を作り出す事件の連鎖とその事件のさまざまな関係。要するに、時代を先取りしすぎたために当代の大衆には理解されず、一生経済的な困難に苦しんだ作家の脚本が話題になっているNetflixドラマ「BEEF/ビーフ」よりも、半世紀前にエミー賞を受賞した「ディレクター」によって「劇化」されたのだということになる。
映画理論家であり評論家としてジャンルの区分まで飛び越えてしまった人類文化史の巨匠に敬意を表しないことができるだろうか。それにもうひとつ、彼の息子で筆者の親友である小澤征悦に「君が世界を目指す役者になったのは、宿命かもしれない」と先に言ってあげられなかったことに悔恨さえ感じる。
今こそ世界中に届けたい物語――、日本人・小澤征爾の生涯
筆者はまだ、アメリカという生まれた国ではない土地でナショナルトレジャー(国宝)になり、やがて人種の区別を破り、同世代を生きていく皆に希望を与えた日本人の〝楽聖〟に告別の辞をささげることはできない。彼が「レニー」という愛称で呼んでいたもう一人の師匠、レナードㆍバーンスタインの生涯を描いた映画「マエストロ:その音楽と愛と」が、第96回アカデミー賞で作品賞、脚本賞、そして主演男優ㆍ女優賞など、なんと7部門の有力候補としてノミネートされている時点で、なおさらそうであろう。
だから、謙虚さゆえに自らの潜在力さえ忘れがちな日本映画界の仲間たちに懇願したい。
もはや小澤征爾氏の輝かしい生涯を語る映画を作り、人類を感動させる時ではないか。