誰になんと言われようと、好きなものは好き。作品、俳優、監督、スタッフ……。ファン、オタクを自認する執筆陣が、映画にまつわる「わたしの推し」と「ワタシのこと」を、熱量高くつづります。
2024.8.08
謎多き作曲家の人生を〝最も有名な異色曲〟を通して描く「ボレロ 永遠の旋律」
ラベルの作品の中で、最も上演されているのは「ボレロ」であることは間違いない。オーケストラ・コンサートで演奏されるだけではなく、本来の形のバレエとしても、数限りなく取り上げられている。
しかし、「ボレロ」はラベルの中でも、形式、旋律、リズム、管弦楽法のどれを取っても極めて異色。その異色たる理由に題材を見いだして、ラベルの人生を描き出し、一編の詩的な優れた映画を作り出したアンヌ・フォンテーヌ監督はただものではない。「ボレロ 永遠の旋律」は、さまざまなラベルの作品を用いながら、主題は「ボレロ」一作に絞り込んでいる。
同じテーマを17回 異質形式を生んだのは……
事実としてのラベルの人生の断片が「ボレロ」の異色な要因として理由づけられてゆく様は映画としても面白いし、作品解釈としても興味深い。たとえば、作曲のローマ大賞に落選したことは遠く「ボレロ」が同じテーマを17回繰り返す異質な形式に結びつくことを見るものに想像させる。軍隊に志願したことはリズムを招くことにつながり、母の故郷であるスペイン・バスク地方からの影響は「ボレロ」の多彩な色を描きだし、ダンサーのイダによって「ボレロ」が委嘱されたことは「ボレロ」の官能性、アメリカへ演奏旅行に行ったことはジャズにひかれることに結びつく。それらは事実の一面だが、映画によって詩的に納得させられる。
加えてフォンテーヌ監督が想像力を膨らませたラベルの生涯にわたるミューズや、娼婦(しょうふ)とのシーン、家政婦との交流などすベてが「ボレロ」の音楽につながってゆく。監督による「ボレロ」の一大解釈としてのパフォーマンスとも言えるだろう。またラベル自身がこの曲を憎んでいたという経緯も理解できるようになっている。それが実に自然で、魅力的であり、セクシーであり、映画ファン、音楽ファン双方に必見の仕上がりになっている。
純粋に音楽的にも「ラ・ヴァルス」と「ボレロ」の終わり方が共通していること、歌謡曲のリズムや工場の騒音が「ボレロ」に取り入れられていることなど、興味深いシーン(指摘)が多い。また映画としても、画面のカット割りも美しく、そこはかとない一編の恋愛詩になっている。
オペラ座元エトワールの踊りも圧巻
ラベルの名曲の数々を演奏しているのは、オーケストラがブリュッセル・フィルハーモニー管弦楽団、ピアノはアレクサンドル・タロー。これらの演奏の差し挟みかたがうまく、曲の新たな一面を聴く思いだ。
主人公のラベルを演じるラファエル・ペルソナはアラン・ドロンの再来と言われる端正なマスクがいかにもラベルの形式美に似合う。そこをこじあけるダンサーのイダ役は自身、ダンサーでもあるジャンヌ・バリバールで、個性的な演技が群を抜く。
エンディングで「ボレロ」を踊るのは、パリ・オペラ座の元エトワール、フランソワ・アリュが出演しているだけに圧倒的。加えてラベルの生涯にわたるミューズ・ミシア役のドリヤ・ティリエの知的な美しさが映画全体に優しさを刻印している。また、ラベルを支えるミシアの弟・シパ役のバンサン・ペレーズの味のある演技も忘れがたい。
曲から人生が浮かばず映画化困難
ラベルは、エッセーなどで自ら幼少時を語ってはいるものの、音楽史に残る作曲家の中で、あまり自己の内面を表に出さなかった作曲家だ。それだけに彼の心の内を知る資料には乏しく、伝記もいくつかはあるが、統括的なアプローチをしようとする後世の研究家やファンには、人生や作品の由来が分かりにくい作曲家でもある。
作品に伴う感情は、そこはかとないものから濃厚なものまで、さまざまにあるが、そこにラベルは自分の人生を持ち込んでいないので、聴衆は想像を巡らすほかはない。
ベートーベンやシューマンを筆頭に、曲を聴くことで、その曲を創作した時点での作曲家の人生が分かる場合は多い。しかしラベルはよく演奏される「夜のガスパール」や「逝ける王女のためのパヴァーヌ」を聴いても、彼の人生は思い浮かんでこない。作曲家として有名でありながら、いわば最も映画にしにくい作曲家だと言えるだろう。
「ボレロ」一点に集中し、ラベルの人生を見事に描き出し、音楽としても映画としても楽しめる作品に仕上げたのは見事と言うほかない。