「箱男」

「箱男」 ⓒ2024 The Box Man Film Partners

2024.8.23

この1本:「箱男」 剛腕〝形而上〟を映像化

毎週公開される新作映画、どれを見るべきか? 見ざるべきか? 毎日新聞に執筆する記者、ライターが一刀両断。褒めてばかりではありません。時には愛あるダメ出しも。複数の筆者が、それぞれの視点から鋭く評します。筆者は、勝田友巳(勝)、高橋諭治(諭)、細谷美香(細)、鈴木隆(鈴)、山口久美子(久)、倉田陶子(倉)、渡辺浩(渡)、木村光則(光)、屋代尚則(屋)、坂本高志(坂)。

安部公房が1973年に発表した実験的な小説を、石井岳龍監督が映画化。97年に製作中止の憂き目にも遭っただけに、並々ならぬ熱量だ。筋立てを追えば混乱必至、迷路のような怪作である。

元カメラマンの「わたし」(永瀬正敏)は、すっぽりと段ボール箱をかぶった「箱男」として生きている。存在を消し去り、箱の中から社会をのぞき、妄想をノートに書き付けていた。あるとき古びた病院に誘い込まれると、病に侵された軍医(佐藤浩市)と、その世話をするニセ医者(浅野忠信)、それに看護師の葉子(白本彩奈)が暮らしていた。

物語を要約すれば、〝ホンモノ〟の箱男になろうとする、「わたし」とニセ医者、それに軍医の抗争ということになるが、そう思って見たところでこの映画は理解できまい。「一つの町に箱男は1人だけ」とその正統性から始まった確執は、次第に錯綜(さくそう)してゆく。

「わたし」が書きため、ニセ医者が目をつけたノートの妄想が、物語と境目なく映像化されて入り乱れる。箱に無頓着な葉子が、3人をかき乱す。箱男としての陶酔を求める軍医が葉子に倒錯的な性行為を求め、ニセ医者が軍医にされたことを再現させ、「わたし」がそれをのぞき見る。書く者と書かれたことが浸食し合い、メタフィクションの様相を呈してくる。「見る」「見られる」の関係が幾重にも絡み合う。「ニセモノ」と「ホンモノ」が逆転と再逆転を繰り返し、判別不能となる。

原作小説に埋め込まれた形而上(けいじじょう)的な仕掛けを独自に解釈し、映像にして詰め込んだ。カオスはアクションとして噴出し、箱男は走り、飛び、宙返りまでやってのける。石井監督の剛腕ぶりに、あっけにとられるしかない。

のぞき窓から世界を見る箱男の姿は、スマートフォンの画面をのぞき込んで周囲と隔絶される現代人と重なる。ただ決定的に異なるのは、映画の箱男たちが肉体でぶつかり合うことだ。存在を消し去るために全存在をかけるという逆説に、めまいがしそう。鬼才の挑発、しかと受け止めるべし。2時間。東京・TOHOシネマズシャンテ、大阪ステーションシティシネマほか。(勝)

ここに注目

箱の中に引きこもった男の憂鬱な自己問答ドラマかと思いきや、現代的なテーマ性と昭和のような空気感が混然一体となった映像世界は、奇想天外な娯楽性がたっぷり。商店街や路地をちょこまかと走り抜ける箱男が、襲撃者を相手に繰り広げるバトルアクション。脚フェチや窃視などの変態的なエロチシズム。何もかもがとち狂ったシュールな描写の連続だが、ラストシーンの象徴的なイメージが、箱男とは何なのか、人間とは何者なのかを問いかけてくる。女性の神聖さと魔性を体現した白本の助演も鮮烈。(諭)

技あり

カンヌ国際映画祭でも注目された「PLAN 75」も手がけ、国際的な評価の高い浦田秀穂撮影監督が撮った。修業時代を米国で過ごし、現在はシンガポール撮影監督協会員で、同地に拠点を置く。日本映画の風俗、伝統にとらわれない自由な描写が武器だ。かん腸場面の鮮やかな色と金色銀色の混交。「わたし」の箱の中の、電灯まである非現実的な広さ。診察室の、白衣の軍医を中央に上手にニセ医者、下手に半裸の葉子を配した舞台のような平面的なデザインの面白さ。どこか原作の時代を忘れない描写が秀逸だ。(渡)

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