毎週公開される新作映画、どれを見るべきか? 見ざるべきか? 毎日新聞に執筆する記者、ライターが一刀両断。褒めてばかりではありません。時には愛あるダメ出しも。複数の筆者が、それぞれの視点から鋭く評します。筆者は、勝田友巳(勝)、高橋諭治(諭)、細谷美香(細)、鈴木隆(鈴)、山口久美子(久)、倉田陶子(倉)、渡辺浩(渡)、木村光則(光)、屋代尚則(屋)、坂本高志(坂)。
2025.1.17
この1本:「敵」 老境淡々と思いきや
全編モノクロ、描かれるのは長塚京三演じる70代後半の元大学教授、渡辺儀助の日常である。大した事件が起こるわけではなく画面は地味なのに、目が離せない。どころか、物語が進むほど前のめりになる。筒井康隆の小説を吉田大八監督が映画化。東京国際映画祭で東京グランプリ、最優秀監督賞、最優秀男優賞と3冠に輝いたのも納得だ。
フランス文学の権威だった儀助は20年ほど前に妻に先立たれ、古い一軒家に一人暮らし。貯金とわずかな収入を支出で割って、ゼロになる日がXデー。遺言も整えて、算出した余命を淡々と生きている。
映画は落ち着いて滑り出し、夏から始まる儀助の四季をたどる。生活の細部を丹念に描く。食材と調理法にこだわって食事を支度し、家の中はきちょうめんに整える。パソコンに向かって連載原稿を書き、時に友人と会う。人生を達観しているようで、女性への欲望が尽きていないのがなまめかしい。教授時代の教え子、鷹司(瀧内公美)を招いて手料理を振る舞い、行きつけのバーで仏文学生の菅井(河合優実)と文学談議に花を咲かせる。亡妻(黒沢あすか)への思いも断ちがたい。落ち着いた年配者然としながら、隠しきれない下心が透けて見える。
そして支離滅裂な夢を見る。鷹司に誘われて押し倒すものの焦って失敗する。亡妻が現れて恨み言を言う。現実と夢を境目なく描写して、悪夢はシュールな笑いともなる。やがて〝敵〟が侵入してくる。パソコンに「敵について」と題したメールが送られてくる。北から敵が迫っている、難民が逃げて来る……。儀助にも観客にも、どこまでが夢なのか判然としなくなる。固定カメラが中心だった静かな画面は次第に揺れ動き、不穏で不確かになっていく。
誰にでも訪れる〝老い〟を一人称の視点から描くのである。気づかぬうちに意識が混濁し記憶が曖昧になる。その姿はある面では喜劇だし、同時に底知れず恐ろしい。筒井が言葉で達した表現に吉田監督は映像で挑み、映画ならではの強度と豊かさを創りだした。1時間48分。東京・テアトル新宿、大阪・テアトル梅田ほか。(勝)
ここに注目
網でサケを焼き、かたまりのハムを切ってハムエッグを作り、食後にはちゃんと豆からひいたコーヒーを飲む。手慣れた手つきで洗いものや洗濯物も、きちんと片付けていく。自分を律することができる人の丁寧な暮らしぶりに、一気に引き込まれた。序盤にこの淡々とした美しい描写があるからこそ、終盤に向けた揺らぎが効いてくる。思い出と現実、プライドと不安。あらゆることがないまぜになる主人公の感覚が、じわじわと伝わってくるかのよう。老いへの解像度が少し上がるような体験をさせてくれる。(細)
ここに注目
老境の主人公を描いた映画はいくつもあるが、本作のようなスリラー濃度の高い作品は珍しい。何もかも整然とした儀助の日常に小さなゆがみや亀裂が生じ、えたいの知れない緊張感がせり上がってくる。悪夢映画としても一級の出来ばえで、いつしか見ているこちらも混乱する主人公に同化し、現実と妄想の境目を失っていく。立派な日本家屋のロケセット、コントラスト強めのモノクロ映像、〝井戸〟や〝せっけん〟などモチーフの描写も秀逸。演技、演出はもちろん、技術スタッフの精緻な仕事ぶりにも驚嘆した。(諭)