ロシアとの激しい戦闘が続くウクライナ。ニュースでは毎日、町が破壊されていく様子が映されています。映画は無力かもしれませんが、映画を通してウクライナを知り、人々に思いをはせることならできるはず。「ひとシネマ」流、映画で知るウクライナ。
映画で知るウクライナ
ドキュメンタリー映画「マリウポリ 7日間の記録」は2022年3月、ロシアのウクライナ侵攻が始まった直後の、ウクライナ東部・ドンバス地方にある港湾都市マリウポリを記録している。マンタス・クベダラビチウス監督は侵攻直後に現地入りしたが、同30日、親露派に拘束され、殺害された。残された撮影素材を元に、製作チームが完成させたのがこの映画である。背景にある、マリウポリとロシアの歴史的、地政学的関係について、元モスクワ特派員の田中洋之記者に解説してもらった。 戦禍にさらされた歴史 「マリウポリ 7日間の記録」の舞台であるウクライナ南東部のマリウポリは、2022年2月に始まったロシアのウクライナ侵攻で徹底的に破壊された末、ロシアが占領した。23年3月にはプーチン露大統領がマリウポリを訪れ、ロシアの支配下にあることをアピールした。 ロシア軍による住民の大量虐殺が起きた首都キーウ(キエフ)近郊のブチャと並び、ウクライナ戦争の悲惨さを象徴する場所となったマリウポリ。映画をより理解するため、これまで何度も戦禍にさらされてきた歴史をふりかえってみよう。 ドネツク州南部のマリウポリは、アゾフ海に面する風光明媚(めいび)な港湾都市だ。周辺で産出される豊富な石炭や鉄鉱石を使った製鉄業など重工業で栄えてきた。ドネツク州とルガンスク州からなるドンバス地方やクリミア半島などウクライナ南部は18世紀半ば、ロシア帝国に併合された。最初にマリウポリが形作られたのもそのころになる。 エカテリーナ2世皇太子の妻に由来 地名の由来は諸説あるが、当時の女帝エカテリーナ2世が皇太子(のちの皇帝パーベル1世)の妻マリアにちなんで名付けたとされる。「ポリ」はギリシャ語の「ポリス(都市)」で、「マリアの都市」という意味だ。 マリウポリのようにウクライナ南部にはセバストポリ、シンフェロポリ、メリトポリなど「ポリ」の付いた地名が多い。黒海やアゾフ海の沿岸は古来、ギリシャ人が入植しており、ロシア帝国は征服した場所にギリシャ風の「ポリ」を地名につけたとされる。エカテリーナ2世はクリミアに住んでいたギリシャ人をマリウポリに移住させたため、現在もギリシャ系の少数民族がいる。 マリウポリが最初に戦場となったのはクリミア戦争(1853~56年)だ。ロシアの南下を阻止しようとする英仏艦隊がアゾフ海に入り、艦砲射撃や上陸部隊の攻撃で港の倉庫や市の一部が破壊された。1917年にロシア革命が起きると、革命側の赤軍と反革命の白軍による内戦がマリウポリでも繰り広げられた。 ナチス・ドイツ占領も さらに第二次世界大戦ではナチス・ドイツ軍が約2年間にわたりマリウポリを占拠した。その間、ドイツ軍は約1万人の住民を殺害し、子供ら約5万人をドイツに連行。ドイツの捕虜となったソ連兵の収容所では約3万6000人が飢えと病気で死亡したという。 戦後に復興したマリウポリは48年、地元出身でソ連共産党幹部のアンドレイ・ジダーノフの死去に伴い、「ジダーノフ」と改名された。ジダーノフは独裁者スターリンの側近として文化人や知識人の抑圧に加担し、一時はスターリンの後継者と目されたこともあった。 ただ、悪名高き政治家に由来する地名は半世紀で消えることになる。ゴルバチョフ共産党書記長によるペレストロイカ(改革)で民主化が進むと、住民の要請で89年に元のマリウポリに戻された。 ロシアが併合を宣言 ソ連崩壊とウクライナ独立後のマリウポリに再び暗雲が垂れ込めたのは2014年だ。ウクライナで親露派のヤヌコビッチ政権を追放した「マイダン革命」が起きると、ロシアのプーチン政権はクリミアを一方的に併合。ドネツク、ルガンスク両州でもロシアの支援を得た親露派武装勢力が蜂起し、マリウポリも支配下に収めた。その後ウクライナ政府軍がマリウポリを奪還したが、両州の大部分を親露派勢力が実効支配する状況となった。 その8年後。ロシア軍はウクライナ侵攻の重要目標の一つとしてマリウポリになだれ込んだ。産婦人科や小児科がある病院が爆撃され、1000人以上が避難していた劇場にミサイルが命中し、多くの犠牲が出た。多数の子どもたちがロシアに連行されたとも伝えられる。 ロシア軍がマリウポリを包囲するなか、ウクライナ側は内務省直轄の軍事組織「アゾフ大隊」がアゾフスターリ製鉄所の地下に立てこもって抗戦したが、最後はロシア軍に明け渡し、マリウポリは完全制圧された。ドネツク州などウクライナ4州は〝住民投票〟を経て、ロシアが併合を宣言した。 侵略下の市民に寄り添い 本作のマンタス・クベダラビチウス監督は16年にマリウポリを訪れ、市民の日常生活をとらえた映画「Mariupolis(マリウポリ)」(日本未公開)を製作していた。監督はロシアのウクライナ侵攻に胸を痛め、「マリウポリで撮影しなければならない」とリトアニアからポーランド経由で現地に入った。 本作は軍事侵略にさらされた人々に寄り添った貴重な映像記録となっている。クベダラビチウス監督は取材中に親露派勢力によって殺害されたが、その遺志を継いで製作チームが完成させた本作の原題は「Mariupolis 2」で、続編の意味が込められている。 M・クヴェダラヴィチウス監督「マリウポリ 7日間の記録」 出口見えぬ戦争 進むロシア化 ウクライナが奪還したブチャと異なり、マリウポリは1年以上もロシアの占領下にあり、社会や経済などあらゆる面で「ロシア化」が進められている。ウクライナは「すべての領土を取り戻す」と攻勢を強めるが、ロシア側は本土とクリミアをつなぐ回廊の要所にあるマリウポリを死守する構えだ。 戦争の出口が見えないなか、本作に登場するマリウポリの住民たちは現在どうしているのか、そしてこの先どうなるのか。それを最も撮影したかったであろうクベダラビチウス監督が戦争の犠牲となったのは残念でならない。
田中洋之
2023.4.13
寄宿舎に渦巻く激しい暴力 ウクライナにはなぜか、少し変わった刺激的な映画が多い。2015年4月に日本で公開されたこの作品もその一つ。手話を言語に、字幕や吹き替え、音楽も存在しないまれな作品だ。それが逆に、あふれるほどの発見を与えてくれる。ウクライナ映画の多様性と発想や視点の自由さ、豊かさを強烈に印象づける。 ろう者が主人公というと、古くは松山善三監督の「名もなく貧しく美しく」が浮かぶが、日本では病気や福祉、社会の無理解を訴える映画のイメージが強い。しかしこの映画、寄宿舎を舞台にしたろうあ者の少年少女による激しい暴力が渦巻く驚くべき作品になっている。 人の動きが雄弁に語る 登場人物は全員ろうあ者だ。手話でコミュニケーションを取っているが字幕はなく、手話が分からないと、会話を理解できない。動作や表情から話していることを推測するしかない。会話を聞いて理解する力を、動作や表情を見つめて想像する力に転換する。無声映画や理解できない言語の映画を見ている感覚に近い。 手話ではなく映像に集中する作業は、時間が進めば少しは慣れてくる。実は、これが結構面白い。少しぐらい分からないところがあっても、気にせず見入っているうちに、リズムが生まれ、音のない世界が創る新たな魅力に気づかされる。人の動きは雄弁だ。 セルゲイはろうあ者専門の寄宿学校に入学するが、学校は売春や強盗などを仕切る悪の組織=族(トライブ)に支配されていた。強要された殴り合いで屈強さを示し、組織のリーダーに気に入られ頭角を現していく。一方で、組織のボスの女アナにひかれていく。セルゲイは他人から奪った金で、アナに売春をやめさせようとするが拒絶され、リーダーたちからリンチを受ける。満身創痍(そうい)となったセルゲイは怒りと憎悪にとりつかれ、ある行動を起こす。 聞こえない世界を映像で見せる 電車内や路上、寄宿舎内での暴力シーンは壮絶だ。加害者側の感情をあまり感じさせないから、一層不気味で怖い。カット割りも鋭利な刃物で切りつけるようなクールさで、感情の存在を極力避けているような演出。アナの堕胎のシーンも目を背けたくなるような映像だが、そうしたシーンでさえ感情を極力排し、固定カメラで淡々と見せる。説明的な描写は意図的に排除。ミロスラブ・スラボシュピツキー監督は暴力について問いかける。 暴れ回る少年少女たちはもう一つのテーマもあらわにする。音が聞こえない世界とはどういうものなのか。耳が聞こえないと不便や支障が生じてしまうと考えがちだが、本当にそうだろうか。彼らは手話が見えるよう常に向き合わなければ通じないし、教室の机がコの字形に配置されているのも象徴的。ろうあ者の若者たちは、障害とは何かも突きつけている。14年のカンヌ国際映画祭批評家週間でグランプリを受賞した。 Amazonプライム・ビデオで配信中
鈴木隆
2022.3.15
クラウドファンディングで資金募る 3月29~31日、東京・渋谷で、ウクライナ映画の緊急上映会が企画されている。バレンチン・バシャノビチ監督の「アトランティス」(2019年)、「リフレクション」(21年)の2作品。日本では劇場未公開だが、ウクライナとロシアとの緊張関係を背景にした作品だ。 19年の東京国際映画祭のコンペティション部門で「アトランティス」が上映された縁で、当時の同映画祭プログラミングディレクター、矢田部吉彦さんの元に、ポーランドのセールスカンパニーから「作品の上映を通して支援しないか」との呼びかけがあったという。矢田部さんは有志を募り上映を企画。字幕制作などの経費をまかなうため、200万円のクラウドファンディングを開始、3月16日までにすでに240万円が集まっている。経費以上の資金は、ウクライナの映画人が映画を作り続ける活動に役立てるという。 「アトランティス」は近未来のウクライナ東部が舞台。戦場のトラウマに苦しむ主人公が、戦死者の遺体を掘り出すボランティア活動に参加する。バシャノビチ監督は「戦争が残したものを描こうと考えた」とコメントしている。 毎日デジタル 東京国際映画祭グランプリ予想「アトランティス」 「リフレクション」の一場面 「リフレクション」はクリミア紛争が始まった14年ごろの設定で、戦地に赴いた外科医の過酷な体験を描いている。 矢田部さんは「両作品とも、まず作品としてすばらしい。ロシアとの戦争と人間の心理を描いていて、まさに今見るべき映画。美的にも優れている。収益を寄付できれば、意義もあるのではないか」と話している。 バシャノビチ監督は家族を疎開させ、キエフに滞在中という。クラウドファンディングは こちら から。 カメラを武器に代えて、ベネチア映画祭受賞監督の戦い 動画:カメラを武器に代えて、 #ウクライナ 出身ベネチア映画祭受賞監督の戦い pic.twitter.com/QDyvEcuQNZ ロイター (@ReutersJapan) March 16, 2022
ひとシネマ編集部
悲劇繰り返さぬように 強い思念 映像は、視覚的なイメージをダイレクトに「伝える」ことが可能なメディアだ。それが記録映画であれば事実をありのまま観(み)る者に届けることができ、劇映画であればより作り手の意志を強固に織り交ぜることができる。 直近であれば、米国の移民政策を題材にした「ブルー・バイユー」は劇映画の特性を十二分に活用した作品と言えるだろう。ドラマ性を強めに付加させることによって、より広い層に、よりビビッドに伝えることが可能になる。やはり人は、感情を揺さぶられた方が鮮明に記憶に残るものだ。そして、「感動」という言葉の通り、口コミや募金、支援活動など、能動的に行動を起こすようになる。影響を受けた観客が、物語を次の段階に連れていく運び手となるわけだ。 世界で起こっていること、起こってしまったこと。それらを知ってもらうために、そして繰り返さぬように伝える――。そうした意味で、史実を題材にした映画には、強い「思念」が込められているものだ。ロシアのウクライナ侵攻によって再注目を浴びている「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」(2019年)にも、観る者を圧倒する憤怒や慟哭(どうこく)といった激情が宿っている。 モスクワの供宴とウクライナの飢餓地獄 ポーランド・ウクライナ・イギリス合作の本作は、1930年代のソビエト連邦に赴いた英国人記者が目の当たりにした恐るべき実態を暴き出すもの。世界恐慌のなか栄華を極めているソビエト連邦を不審に思った記者ガレス・ジョーンズ(ジェームズ・ノートン)は現地に飛び、当局の監視の目をかいくぐって手がかりが隠されているであろうウクライナへと向かう。そこで彼が見たのは、想像を絶する地獄だった……。 餓死者と凍死者が道端に転がり、飢えに耐えかねて樹皮をしゃぶる者や、先に死んだ家族の死肉を食べている者――。「太陽と月に背いて」や「ソハの地下水道」で知られるアグニェシュカ・ホランド監督は、観る者がショック状態になってもおかしくない苛烈な描写を、覚悟と信念をもって見せつけてくる。 また、映画の前半では当局に懐柔された者たち(政府高官や各国の記者)の狂乱の宴が描かれており、この落差には愕然(がくぜん)とさせられることだろう。高級な料理や酒が床にこぼれようとも意に介さないモスクワの人々と、尊厳を踏みにじられ命の危機に瀕(ひん)するウクライナの人々――。両者が別世界ではなく、汽車で行ける距離に存在するということ。今現在の両国の状況にも重なる、あまりにもエグい対比だ。 身の安全と正義 どちらを選ぶか さらに恐ろしいのは、この極端な「アメとムチ」状態が、人為的に引き起こされているということ。アメと言えば聞こえはいいが、その実態は徹底した情報統制が敷かれ、真実を知らしめようとすれば圧力をかけられ、連行に投獄、最悪処刑の危険もあるという恐怖政治だ。 従わなければ命の保証はない状況に放り込まれたとき、人は己の安全と正義のどちらを選ぶだろうか? 本作は権力に与(くみ)した側の懊悩(おうのう)にも切り込んでおり、ジャーナリズムとは何か、観る者に鋭く問いかける。ジョーンズに先輩記者が告げる「大義の前では、一人の人間の大義などかすむ」というセリフは、権力の前で筆を折られたジャーナリストの悲痛な叫びであり、一個人の限界を突きつける。 くしくも現在、ロシアでは情報統制が活発化し、反戦デモを起こした人々が拘束されるなど深刻な状況が続いている。対抗して国際ハッカー集団「アノニマス」が国営放送をジャックする事件も起こっており、事態は迷走を極めている。また、ウクライナではTwitterやInstagram、TikTokを使って一個人が発信することで、戦地の現状が世界に拡散された。フェイクニュースの氾濫という問題もあれど、「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」で描かれた〝一個人の限界〟には、変化が生じているのかもしれない。 次代に語り継ぐ教訓と無念 「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」はウクライナとロシアの歴史を知るためにも重要な映画であり、同時に「いま」とオーバーラップする物語に戦慄(せんりつ)させられもする。前述したように胸をえぐられるような描写が続くが、それは平和への切なる願いあってこそ。 この力作が個々人の胸に刻み付ける〝教訓〟や〝無念〟を忘れることなく、次代へ語り継いでいくこと――。その意義をいま、改めて痛感させられている。 ブルーレイ(1800円)、DVD(1200円)がハピネットファントム・スタジオから発売中 U-NEXTなどで配信中
SYO
2022.3.14
社会主義リアリズムと芸術重視の伝統が生んだ傑作たち 「ひまわり」 1970年 ビットリオ・デ・シーカ監督 「火の馬」 1964年 セルゲイ・パラジャーノフ監督 「戦艦ポチョムキン」 1925年 セルゲイ・エイゼンシュテイン監督 「ザ・トライブ」 2014年 ミロスラブ・スラボシュピツキー監督 「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」 2019年 アグニエシュカ・ホランド監督 初めて撮影された西側映画「ひまわり」 ウクライナと関わりのある最も有名な映画は、 「ひまわり」 (1970年、ビットリオ・デ・シーカ監督)だろう。ソフィア・ローレンがひまわり畑で夫を捜す場面は、ウクライナ南部ヘルソン州で撮影されたという。東西冷戦下のソ連で、いったいどうやってイタリア映画の撮影を行ったのかは不思議だが、これがウクライナで撮影された初めての「西側」作品だったとされている。 東西冷戦と聞いてもピンとこない世代も増えてきたかもしれない。イタリアなど「西側」、つまり資本主義国からソ連への入国や、国内の移動が制限されていた時代である。映画の撮影などもってのほか。ウクライナ大使館のホームページによると、日本で発売されたビデオの説明に「ひまわり畑はウクライナではなくモスクワだ」と断ってあるという。「外国人はクレムリンから80キロ以上は離れてはいけないという規則があり、観光客がウクライナに押しかけるのを恐れたせいかもしれない」そうだ。ヘルソン州はロシア軍に制圧されてしまった。 社会主義体制の光と影 「火の馬」 パンドラ提供 1991年までのソ連時代、映画は製作から興行まで国家に管理されていた。つまり国家予算で製作費をまかない、国立撮影所で撮影し、国営映画館で上映された。ソ連を構成した15の共和国のそれぞれが撮影所を持ち、モスクワやレニングラードの大学で映画を学んだ卒業生が〝配属〟され、各地で映画製作に当たった。 国家の管理は、映画の内容にも及ぶ。社会主義リアリズムと理想国家建設の理念に基づいて検閲が課され、当局からにらまれれば弾圧される。ウクライナで撮影された 「火の馬」 (1964年)は、その映像美で世界にウクライナ映画を知らせたが、セルゲイ・パラジャーノフ監督は当局に理解されず迫害され、長く苦難の時期を過ごした。 一方でソ連には、帝政ロシア以来の芸術を重んじる文化的風土もあった。芸術や文化は社会で高い評価を与えられ、他の芸術家と同様、映画監督も生活を保証された。パラジャーノフ監督は弾圧されながらも映画を作り続けた。その芸術的才能が多くの映画人から支持され、政治的にも影響力を持ちえたからだろう。ソ連で映画の芸術性を追求した作品が多く作られたのは、社会主義体制のおかげでもあったのだ。ウクライナからはモンタージュ理論を提唱した「大地」(1930年)のアレクサンドル・ドブジェンコ、アカデミー賞外国語映画賞を受賞した「戦争と平和」(1967年)のセルゲイ・ボンダルチュク、「灰色の石の中で」(1983年)のキラ・ムラートワといった監督が知られている。 近年では、ミロスラブ・スラボシュピツキー監督の 「ザ・トライブ」( 2014年 ) が世界を驚かせた。ろうあ者の寄宿学校に入学した主人公が、学校がある組織に暴力で支配されていることを知る。主人公の生き残りをかけた闘いと、組織の女性との恋を描く。映画に一切セリフはなく、全ての会話は手話のみ。激しい暴力描写を交えた物語を、字幕も吹き替えもなしで通すという斬新さで、カンヌ国際映画祭批評家週間のグランプリを受賞した。 戦火迫る「戦艦ポチョムキン」の階段 さて、映画とウクライナといえば、忘れてならないのが1925年、セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の 「戦艦ポチョムキン」 の階段の場面だ。南西部の港湾都市オデッサで撮影された。階段は今も残っているが、ウクライナ大使館によれば「上から下まで広告という味気ない風景」になっているとか。オデッサは黒海への海運の拠点で、この原稿を書いている3月初旬の時点で、ここにもロシア軍の侵攻が迫っているという。 1991年のソ連崩壊後に各共和国が独立し、経済が回復し社会が安定すると、ウクライナでの映画作りも再開した。広大な草原やカルパチア山脈、歴史的建造物が、欧米作品のロケ地となってきた。1996年、ジャッキー・チェンが主演したアクション映画「ファイナル・プロジェクト」、2008年の「トランスポーター3 アンリミテッド」などが撮影された。2015年の日本映画「クレヴァニ、愛のトンネル」は、西部にある「愛のトンネル」と呼ばれる場所が重要な舞台だ。鉄路を覆った緑のアーチが続く場所で、カップルが歩くと願いがかなうという言い伝えがあるとか。 スターリン独裁下の大飢饉 「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」 今回の紛争に至るウクライナの歴史も、映画の題材となっている。2019年のポーランド映画 「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」 は、スターリン体制の下で起きたウクライナ大飢饉(ききん)の背景を描いている。この時のソ連中央への不信感が、反ロシア感情の下敷きになっているという見方もある。 1986年、キエフの北約130キロにあるチェルノブイリで起きた原発事故は、多くの映画の題材となり、ドキュメンタリーも数多く作られた。日本の本橋成一監督による1997年の「ナージャの村」は、放射能に汚染された村の生活を記録した。 2014年には「マイダン革命」と呼ばれる激しい騒乱が起きた。当時の親露派大統領、ヤヌコビッチの腐敗に対し、親欧米派の市民が大規模な抗議行動を起こす。政権は厳しく弾圧するが、抗議は激化して3カ月に及び、ヤヌコビッチ大統領はロシアに逃れて政権が崩壊した。その経緯を記録したのが、ネットフリックスのドキュメンタリー 「ウィンター・オン・ファイヤー:ウクライナ、自由への闘い」 だ。ロシアへの反発の強さをうかがうことができるだろう。 2022年秋公開予定の「オルガ」は、このマイダン革命を背景にしている。15歳のウクライナ人体操選手が、一人スイスに旅立つ。ヤヌコビッチ政権の汚職を取材していたジャーナリストの母親が襲われ、安全のために父親の故郷に逃れたのだ。ウクライナでの紛争に心を痛めながら体操に打ち込む少女を描いている。 ウクライナ大使館によれば、ウクライナの国土面積は日本の1・6倍、人口4140万人。映画に描かれた豊かな文化や風土が、失われることはあまりに悲しい。 毎日jp プーチン氏批判しないロシア 芸術 家、欧米で締め出しも 深まる分断
勝田友巳
2022.3.11
戦争が引き裂いた愛 ウクライナが舞台の映画といえば、多くの人が真っ先に思い浮かべるのは、イタリアの2大スター、ソフィア・ローレン、マルチェロ・マストロヤンニ主演の悲しい愛の物語「ひまわり」だろう。大地の隅々まで埋め尽くす黄色いひまわりの風景に目を見張り、ヘンリー・マンシーニの哀感極まる音楽と、戦争によって引き裂かれた男女の愛に涙腺を刺激された方も少なくないのではないか。1970年9月に日本で初公開され、その後もリバイバル、名画座などで愛され続け、50年の時を超え恋愛映画を代表する一本となっている。 帰らない夫を捜してソ連へ 第二次世界大戦下のイタリア。ジョバンナ(ローレン)とアントニオ(マストロヤンニ)は結婚して幸せな日々を送っていたが、アントニオは兵士としてソ連に送られる。ジョバンナは終戦になっても帰らない夫の無事を信じて単身ソ連に行き、夫を捜し出す。アントニオは過酷な戦場で倒れ、命を救ってくれた地元の女性マーシャ(「戦争と平和」のリュドミラ・サベーリエワ)との間に家庭を築いていた。ジョバンナは逃げるようにイタリアに戻っていく……。 監督は「靴みがき」「自転車泥棒」などのイタリアの巨匠ビットリオ・デ・シーカ。イタリア、フランス、ソ連、アメリカの合作映画で、冷戦期にソビエトで初めて撮影された西側諸国の映画といわれている。 無数の兵士と農民、老人と子供が眠るひまわり畑 ジョバンナとアントニオの、ユーモアあふれる陽気で情熱的な愛の日々は戦争で一転し、極寒の戦地のアントニオ、その消息を懸命に捜すジョバンナ、かれんで芯が強いマーシャへとトーンを大きく変えていく。たくましさと気丈さ、切なさと悲しみを抱えた女性2人の姿が、風にそよぎ咲き誇るひまわりと重なる。ジョバンナとアントニオの別れと悲痛な再会、数年後のさらなる別れと人生の分岐点を列車の駅で彩る演出も情感を揺さぶる。 広大なひまわり畑は、首都キエフから南に500キロほど離れたへルソン州で撮影された。映画に登場するのは3度。冒頭とラスト、ジョバンナが夫の行方を探してウクライナの地を踏んだ時だ。ひまわりの壮大な畑の下には、「イタリア兵とロシア人捕虜、無数のロシアの農民や老人、子供らが眠っている」という地元女性のセリフがある。丘陵を埋め尽くす墓地も映される。ウクライナは幾度も戦禍に見舞われてきた。 ウクライナの国の花はひまわりだ。ロシア侵攻後、ウクライナ人女性が、ヘルソン州ヘニチェスクでロシア兵士と相対した時、「戦死しても花が咲くようにひまわりの種をポケットに入れて持って行きなさい(あなたがウクライナの土地で死んだときに花が育つように)」と話したことが、インターネット上で話題になった。女性は銃にひまわりの種で相対したのだ。 ウクライナ支援の象徴に 各地で上映会も いま日本でも世界各国でも、ひまわりの花を身につけることでウクライナへの支援、ロシアへの抗議の意を示す人たちが絶えない。3月初めにヘルソン州政府の庁舎がロシア軍によって占拠され、人口約30万人の都市ヘルソンも制圧されたという。戦火がまたしてもあの地を襲っている。 「ひまわり」の中で、再会したアントニオがジョバンナに声を詰まらせ、切々と話すシーンがある。「戦争は残酷なものだ。実に……ひどいものだ。残酷だ」 ウクライナ情勢を受け、「ひまわり」公開50周年HDレストア版での上映が大阪・シアターセブンで3月19~25日、新潟・高田世界館で3月28日~4月8日、横浜・シネマリンで4月16~22日まで予定されている。
2022.3.09
映画史に残るオデッサの階段 「戦艦ポチョムキン」なくして今の映画なし。といっていいくらい、重要視されている1本。映画草創期の1920年代、ソ連で「モンタージュ」理論、つまり物語と感情を伝える編集の技術を理論化する動きが起きた。 エイゼンシュテインもその論争に加わった1人で、「戦艦ポチョムキン」はその効果を劇的に実証した作品だ。階段を落ちていく乳母車の場面は、ウクライナ南部の港湾都市、オデッサで撮影された。あの階段、今でも残っているそうだ。しかし海運の拠点であるオデッサは、ロシアの侵攻にさらされている。 「戦艦ポチョムキン」はセルゲイ・エイゼンシュテイン監督が、第1次ロシア革命20周年記念映画としてソ連当局から製作を委託された。ロシア帝国の圧政に対する革命運動が高揚し、1905年1月、大規模なデモ行進に軍隊が発砲。 この事件をきっかけに、ロシア帝国が崩壊に向かった。ポチョムキン号はロシア海軍の中から反乱を起こした実在の軍艦だが、エイゼンシュテインはこの事実を劇的に脚色し、英雄的な物語に仕立てている。 上官の横暴に反乱起こす兵士たち オデッサ沖に停泊していたポチョムキン号の水兵が、甲板につるされた牛肉にウジがわいていることに気づく。上官に待遇への怒りをぶつけるが相手にされず、腐肉の入ったスープが供される。兵士たちは抗議の意を示して誰も手を付けない。やがて兵士たちは甲板に呼び出され、艦長はスープに不満を表明した者に銃殺刑を言い渡す。しかし兵士たちは命令を無視して艦長らに立ち向かい、艦を制圧した。反乱はオデッサの町に伝わり、市民はポチョムキンと同調することを決めた。しかしロシア帝国軍は、集まった市民に向けて発砲する。 ダイナミックなカメラと的確な編集 モノクロ、サイレントのこの映画でエイゼンシュテイン監督は、ポチョムキン号の艦内で、兵士たちの間に不満と怒りが満ちていく過程を的確な構図とテンポ良い編集で見せていく。 そして後半、軍隊が広場に集まった群衆を発砲しながら追い立てる6分間の階段の場面は、映画のクライマックスだ。ダイナミックなカメラの動き、兵士の非人間性を強調した構図、隊列を組み銃を構えて階段を降りてゆく帝国軍兵士と、群衆の恐怖と怒りの表情を交互に見せる編集と、今見ても緊張感と情感にあふれている。 親日家のエイゼンシュテイン 漢字が着想の原点? エイゼンシュテイン監督はこの作品で一躍世界に名を知られ、モンタージュ理論は映画製作の基礎となる。しかしエイゼンシュテイン自身は、ソ連を独裁的に指導したスターリンの思想統制によりしばしば干渉され、思うような映画作りを阻まれた。 親日家でもあり、文字を組み合わせて意味を作る漢字の成り立ちが、バラバラの映像の組み合わせで感情を生み出すモンタージュ理論に影響を与えたとされる。 オデッサ階段の乳母車の場面は、ウディ・アレン監督の「ウディ・アレンのバナナ」(1971年)、ブライアン・デ・パルマ監督の「アンタッチャブル」(1987年)など、多くの映画でオマージュやパロディーとして引用されている。
ウクライナ版ロミオとジュリエット ウクライナの山間で撮影された、山岳民族が登場人物のロミオとジュリエットの物語。ではあるのだが、極めて前衛的、芸術的。今見ても、不思議な映画だ。発表当時、各国の国際映画祭で高く評価されながら、ソ連国内では社会主義リアリズムに反しているとして批判された。セルゲイ・パラジャーノフ監督は、苦難の道を歩むことになる。 山あいの村で、パリイチューク家とフテニューク家は長年対立していた。山で事故死したパリイチューク家の息子の葬儀の最中に起きたいさかいが両家の間の決闘となり、パリイチュークの家長が殺される。この日、パリイチュークのイワンとフテニュークのマリーチカが出会い、やがて恋に落ちる。反目し合う大人たちの反対をよそに、2人は将来を誓い合う。 強烈な映像の芸術性 映画は2人の恋の行方を点描する。山の中で遊ぶ幼い2人は、成長して愛を確かめ合い、貧しいイワンが出稼ぎに行って離ればなれになってしまう。その間に、マリーチカが崖から落ちて死んでしまった。悲しみに沈んだイワンはパラグナと結婚して立ち直るものの、マリーチカが忘れられない。一方パラグナも、別の男にひかれていく。 劇的なメロドラマよりも、強く印象づけられるのは映像だ。時代設定は20世紀のはずだが、登場人物の生活はあたかも前近代。民族衣装を身につけ、葬儀や結婚式で儀式を執り行う。コントラストを強めた色彩の絵画的な構図に加え、幻想的な場面や一人称の鮮烈なショットが挿入される。 映画の冒頭、イワンを助けようとした兄が倒木の下敷きになって死ぬ。カメラは倒れる木の一人称となって、兄に迫ってゆく。後半には雷に打たれる場面があって、ここでは静止画像が赤や黄色の影となって点滅する。デジタル技術のない時代に、光学処理の凝った特撮である。民族的、宗教的なイメージに満ちた、映像叙事詩のような趣だ。 国際的な評価と国内での苦境 パラジャーノフ監督はソ連・ジョージアで生まれ、モスクワの映画大学を卒業、キエフ撮影所に入所する。その斬新な映像表現はパラジャーノフに国際的な注目を集めたが、ソ連当局には理解されず、再編集を求められる。 拒否したパラジャーノフは以降、企画が通らず、細々と映画を撮り続けるが、1974年に投獄された。タルコフスキーやロッセリーニ、トリュフォーらソ連と欧州の著名監督が釈放を求めて運動し、釈放されるとジョージアに移って映画作りを模索した。85年、ソ連のペレストロイカ政策によりようやく自由な映画製作が可能になり、88年の「アシク・ケリブ」は国際的に称賛された。90年没。 2014年、生誕90年記念特集として「火の馬」「ザクロの色」「アシク・ケリブ」などが上映され、改めて注目された。パラジャーノフ監督は今も、唯一無二の映像作家として、異彩を放っている。 「火の馬」は紀伊國屋書店からDVD、ブルーレイが発売中。