西宮市大谷記念美術館にて行われた追悼特別展「高倉健」の看板 2018年4月撮影

西宮市大谷記念美術館にて行われた追悼特別展「高倉健」の看板 2018年4月撮影

2022.4.23

美術館から見た高倉健 西宮市大谷記念美術館学芸員・下村朝香さんが見た「俳優と時代」

2021年に生誕90周年を迎えた高倉健は、昭和・平成にわたり205本の映画に出演しました。毎日新聞社は、3回忌の2016年から約2年全国10か所で追悼特別展「高倉健」を開催しました。その縁からひとシネマでは高倉健を次世代に語り継ぐ企画を随時掲載します。
Ken Takakura for the future generations.
神格化された高倉健より、健さんと慕われたあの姿を次世代に伝えられればと思っています。

ひとしねま

下村朝香

「美術館から見た高倉健」と題して、追悼特別展「高倉健」巡回の美術館の学芸員から見た高倉健やその作品を語った記事を再掲載します。
2回目は西宮市大谷記念美術館学芸員・下村朝香さん執筆の5回シリーズ一挙公開です。

2018年04月27日掲載

1 非常線(1958年) 

日本を代表する俳優・高倉健は1931(昭和6)年、福岡県中間市に生まれ、2014年、83歳で亡くなるまで、生涯で205本の映画に出演しました。56年に銀幕デビュー、12年公開の「あなたへ」が最後の出演作となりました。本展覧会では、高倉健が出演した205本全てから抜粋された映像を、モニター、プロジェクター合計29台で映像展示します。
大学卒業後、希望する就職がかなわずいったん郷里へ戻った高倉健は、芸能事務所のマネジャー採用の面接に行った喫茶店で、マキノ光雄(当時の東映専務)にスカウトされます。55年、東映に入社、翌年「電光空手打ち」の主役でデビューを果たしました。当時の東映には、時代劇専属の俳優は多数在籍していましたが、現代劇の俳優は少なく、スター候補となる人材を探していたのです。
高倉健がデビューした56年は、経済白書が「もはや戦後ではない」と記述し、その言葉が流行した年であり、石原裕次郎がデビューし、新世代のシンボルとして「太陽族」が注目された年でもありました。日本経済の成長とともに、日本映画が量産されたこの時代、東映では専属俳優が求められ、高倉健の存在はうってつけだったのです。
デビューの年に11本の映画に出演、翌年には10本というハイペースで出演。戦前からの大スター・片岡千恵蔵と共演、また人気歌手・美空ひばりとも「青い海原」で共演して以来、美空主演の「べらんめぇ芸者」シリーズへも出演するなど、映画量産体制の一翼を担う俳優として出演映画本数を重ねました。
58年に公開された「非常線」は無実の罪で追われる男を描いたアクション映画。高倉健は銀行ギャングの容疑者として疑われた千代太役を演じ、犯罪者にでっちあげられた青年の心理を好演しました。
 
18年05月02日掲載

2 昭和残俠(きょう)伝 唐獅子牡丹(1966年) 

高倉健がデビューした2年後の1958年、映画観客人口が11億人を超えました。映画は娯楽の王者であり、映画産業は第二の映画黄金時代を迎えていました。この年に高倉健が出演した映画は13本、これは彼にとって年間映画最多出演回数となりました。
高校時代にはボクシング部、大学時代は相撲部に属するなど、実際にスポーツマンだった高倉健は、身長180センチを超える恵まれたスタイルを生かし、スポーツマン、学生、サラリーマンと役柄こそ異なりますが、熱血青春映画のアクションシーンを次々と演じました。
しかしテレビの普及とともに映画は次第に衰退、61年には映画観客人口がピーク時の半分へと減少します。映画不況が始まったこの頃、東映は高倉健と鶴田浩二のコンビによる「人生劇場 飛車角」で任俠(にんきょう)映画ブームを起こします。そして、64年「日本俠客伝」の大ヒットで、高倉健は任俠スターとして歩み始めたのです。
「日本俠客伝」、「網走番外地」に次ぐ第三のシリーズが65年公開の「昭和残俠伝」。全9作で、高倉健演じる主人公花田秀次郎と池部良演じる風間重吉の名コンビで知られています。1作目は第二次世界大戦後の東京・浅草を舞台に露天商の世界が描かれていますが、2作目以降は時代設定を昭和初期とし、役柄も「やくざ」へと変更しています。
毎回物語の内容も場所も異なりますが、勧善懲悪のパターンは共通。2人の道行きのシーン、高倉健の背中の鮮やかな「唐獅子牡丹」の刺青、高倉健が歌う主題歌が定番となった本シリーズは、一種の様式美を完成させたと言っても良いでしょう。「昭和残俠伝 唐獅子牡丹」は66年製作の第2作目です。
 
18年05月05日掲載

3 神戸国際ギャング(1975年) 

1968年、GNPが世界2位となり、日本はアメリカに次ぐ経済大国になりました。70年には、高度経済成長を成し遂げた日本の象徴的なイベントとして大阪万博が開催され、時代は大きく変化していきます。映画界でも高倉健と多数共演した藤純子が72年に引退。またこの頃、石原裕次郎や勝新太郎が、活躍の場を映画からテレビに移すなど、映画の世界にも変化が現れました。
60年代に「日本俠客伝」、「網走番外地」、「昭和残俠伝」の三大シリーズで任俠(にんきょう)スターとして絶大な人気を博した高倉健。68年には、任俠映画が質量ともにピークに達し、高倉健は主演三大シリーズに加えて、「俠客列伝」、「博徒列伝」などの東映オールスター作品にも出演します。しかしシリーズ化された任俠映画は、次第にマンネリズムを起こし、観客が離れていきます。71年には「日本俠客伝」シリーズが11作目「刃」で、72年には「網走番外地」(「新」も含む)シリーズが18作目「嵐呼ぶダンプ」、「昭和残俠伝」シリーズは9作目「破れ傘」で、いずれもシリーズに終止符を打ちました。
これまでのクラシカルな任俠映画が終わりを迎え、73年には深作欣二監督、菅原文太主演の「仁義なき戦い」が封切られ、爆発的な人気となりシリーズ化されていきます。東映映画の主流は、これまでの義理人情を貫く主人公が登場する任俠映画から、実録やくざ映画へと移行していったのです。その流れの中で高倉健も実録やくざ映画「山口組三代目」「三代目襲名」などに出演します。
またこの頃、高倉健の活動も過渡期に入り、人気劇画原作の「ゴルゴ13」、アメリカ映画「ザ・ヤクザ」など多岐にわたる作品に出演しました。「神戸国際ギャング」は実在のやくざ菅谷政雄をモデルに、戦後の闇市が立ち並ぶ神戸を舞台にした作品。本作は高倉健が東映専属俳優として出演した最後の作品となりました。

18年05月09日掲載

4 君よ憤怒の河を渉れ(1976年) 

1955年、東映ニューフェース2期生として東映に入社し、翌年、「電光空手打ち」でデビューした高倉健は「神戸国際ギャング」(75年)を最後に東映を退社し、独立しました。高倉健が生涯で出演した映画は205本、そのうち183本が東映在籍中の作品であり、出演映画の約90%が東映時代に撮影されたことになります。
高倉健が東映退社後、最初に出演した映画が76年公開の「君よ憤怒の河を渉れ」です。本作は、戦後の日本映画をリードした大映の永田雅一が、大映倒産後にプロダクションを設立し、プロデューサーとして映画界復帰を果たした作品で、制作費は当時としては破格の1億5000万円をかけたと言われています。監督は「新幹線大爆破」と同じく佐藤純彌。西村寿行の同名の小説を映画化したものです。
高倉健は身に覚えのない犯罪で追われる検事の杜丘を演じ、彼を追う矢村警部を原田芳雄が演じました。権力闘争に巻き込まれ、犯人に仕立て上げられた主人公が、無実を証明するために逃亡する物語であり、ロードムービー的な要素も含むサスペンス・アクション。劇中、「法律の条文だけで裁いてはいけない人間の行為があること。法律では裁くことができない大きな壁があることもわかった」という高倉健のセリフがあります。検事という権力の中にいた人物がアウトサイダーになることで、世の中の矛盾を痛感するこの役柄に、東映という組織から離れアウトサイダーとして生きていこうとする高倉健の思いが重なる作品です。
本作は、中国で「追捕」というタイトルで文化大革命後初めて公開された外国映画として大ヒットしました。また2017年にはジョン・ウー監督によって本作のリメイク「追捕 MANHUNT」が中国で公開。リメーク版では矢村警部の役を福山雅治が演じ、18年には日本でも公開されました。
 
18年05月11日掲載

5 鉄道員(ぽっぽや)(1999年) 

東映退社後、フリーとなった高倉健は1970年代から80年代には1年に約1本のペースで、そして90年代には3本の映画に、その後、2000年以降は12年の遺作「あなたへ」を含め3本の映画に出演しました。晩年を迎えた高倉健は、慎重に吟味し出演作品を決めていたのでしょう。「鉄道員(ぽっぽや)」の出演について、当初は気乗りしなかった高倉健ですが、かつて共に苦労した東映スタッフたちの定年が間近になり、彼らが「最後に記念写真(映画のクランクアップ時に関係者全員が集まって一緒に撮る写真)を健さんと一緒に撮りたい」と言っているのを聞き、出演を決めたそうです。
東映を辞した高倉健は、「動乱」(80年)以来、18年ぶりに、故郷ともいうべき東映東京撮影所へ足を踏み入れました。この時、昔を思い出して、「走馬燈のごとく頭の中でグルグルと絵が回った」といいます。また製作発表記者会見で高倉健は、素晴らしいスタッフとキャストに恵まれたことへの感謝、懐かしい撮影所、衣装合わせで感慨無量になったことを述べ、「一生懸命、燃焼しようと思っています」と、この映画への意気込みを語りました。
「鉄道員(ぽっぽや)」の撮影現場では、「生きることの哀(かな)しさ、切なさを知ったスタッフたちが自分の仕事を黙々とこなしていた」と高倉健は述懐しています。その切ないほどに一生懸命に生きる彼らの姿、間もなく定年を迎え人生をささげた仕事場から去らなければならない彼らの名残惜しさを、高倉健は自身が演じる北海道のローカル線の終着駅の駅長・乙松役に重ねていたのかもしれません。
20世紀も終わりに近づき、時代が昭和から平成へと移って11年目になろうとしていた99年に公開された本作を通して、高倉健は自分の時代が終わりに向かっていることを感じずにはいられなかったことでしょう。

ライター
ひとしねま

下村朝香

西宮市大谷記念美術館学芸員

カメラマン
宮脇祐介

宮脇祐介

みやわき・ゆうすけ 福岡県出身、ひとシネマ総合プロデューサー。映画「手紙」「毎日かあさん」(実写/アニメ)「横道世之介」など毎日新聞連載作品を映像化。「日本沈没」「チア★ダン」「関ケ原」「糸」など多くの映画製作委員会に参加。朗読劇「島守の塔」企画・演出。追悼特別展「高倉健」を企画・運営し全国10カ所で巡回。趣味は東京にある福岡のお店を食べ歩くこと。