Y2K=2000年代のファッションやカルチャーが、Z世代の注目を集めています。映画もたくさんありました。懐かしくて新しい、あの時代のあの映画、語ってもらいます。
2023.8.01
「東京」ってものは、つくづく夢追い人を集めてしまう場所、カメラマンの娘が見た「ニライカナイからの手紙」
私は写真屋の娘として兵庫で生まれた。父も兄もカメラマン、祖父はフィルム会社で働いていたらしい。そんな家族が口をそろえて教えてくれた。「写真というものは時間を超えて思いを伝えることができるし、何年たっても人の気持ちに寄り添えるモノだ」と。流動的な今の世の中で何かを〝 残す 〟という行為は忘れがちだが、実はとても大切なことなのかもしれない。この映画は、私の家族と見事なまでにリンクした作品だ。
「ニライカナイからの手紙」は亡くなった母から送られる毎年一通の手紙によって主人公・風希が自分の夢を必死に追いかける物語である。
東京で夢を追いかける
沖縄県の竹富島で母と暮らしていた風希は7歳を境に母と離れ離れになる。郵便局で働く祖父のもとで青春時代を送るが、誕生日の日には必ず東京にいる母から一通の手紙が届く。思春期になると母のいない生活で母を恨むようになるが、高校卒業を目前にして次第に自分の中に抱いていた風希の父と同じ「カメラマン」という職業に憧れて東京に行くることを決意。そして、毎年手紙でしか感じられなかった母親から20歳になればすべてを教えてくれるという手紙が届き、その言葉を信じてスタジオマンとして東京で夢を追いかける。
あれ、自分って何がしたかったんだっけ?
「東京」ってものは、つくづく夢追い人を集めてしまう場所である。私もその一人であった。芸能界というキラキラした世界を夢見てこの東京という街にやってきた。でも今は「まるでアリ地獄のような場所だ」と感じてしまう時もある。間違いなく、そんな場所ではないだろうか。
風希が東京で何を感じていたのか、少しわかる気がした。地元沖縄の小さな図書館で見た写真集の中の東京はまさに輝いていた。東京タワーのはるか上空から撮影された東京一望のそのアングルは、まさに夢に描くような東京の姿であった。しかし、上京後は寝床とスタジオを往復するだけの毎日。カメラマンを目指しているはずなのに、カメラを触ることさえ忘れ、アシスタントとしてボロ雑巾のように扱われる日々。次第に自分の夢をも忘却していた。
あるよね、「あれ、自分って何がしたかったんだっけ?」って思う瞬間。好きなことして、ここにいるはずなのに「自分、何やってんだろ」って。なんだか、ぐちゃぐちゃになったラテアートみたい。
竹富島で伝わる「うつぐみ」の心
そんな風希の消えかけた灯をともしたのは、他でもなくお母さんからの手紙だった。忘れかけていたカメラを再び握り、自分の作品を撮り始める。
20歳のお誕生日、すべての真実が打ち明けられる。なぜ母は自分の元に居られなかったのか。なぜ毎年一通の手紙が自分の元に届いていたのか、その全部が。そこで初めて知る母親の姿は、風希にとっての全てが奪われる瞬間だっただろう。しかし、そんな風希を支えたのは、竹富島で伝わる「うつぐみ」(人と人が協力して助け合う)の心だった。母親の存在に支えられていた風希を次は周りのみんなが支える、母からのバトンがしっかりつながれていた。
能動的に行動していきたい
人って、基本余裕ないじゃないですか。自分のことで精いっぱい、他人は二の次。そんな社会の中で「うつぐみ」の心を教えてくれる作品だった。
しんどい時に声をかけてくれる人。ダメ人間になりそうな時にちゃんと叱ってくれる人。これも助け合いだと私は思う。心をなくしてしまいそうな流動的な世界線で生きる人には、そっとこの言葉を教えたい。
以前、ある人に言われた言葉がいまだに忘れられない。
「共感力は人間力」。この言葉はまさに、「うつぐみ」だと思った。「協力」って共感からくるもので、その力がある人はかっこいい。大学生で経験する、ノリで浅い飲み会も大事だけど、本当に大切な人は、じっくり話を聞いて、聞いてもらって心の内をぶつけあえる人だと私は感じる。振り返るとまだまだ私はおこちゃまだなぁ、と少し恥ずかしくなる。
風希の周りにいる温かい人たちのように立派な人にまだ私は程遠いけど、心が救われる瞬間は知っている。これは、私がまだ風希側にしかたったことがないから。だけど、こんなにもあの温かさに心地よさを感じているということは、きっと自分もそうなりたいと願っているからだと思う。だからこそ、能動的に行動していきたい。きっと風希も同じことを考えているんじゃないかな。
映画は忘れかけた気持ちを気付かせてくれると思う。私はこの作品で「支え」という言葉の意味を思い出した。ぜひ、皆さんも鑑賞して探してみてほしい。
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