ひとシネマには多くのZ世代のライターが映画コラムを寄稿しています。その生き生きした文章が多くの方々に好評を得ています。そんな皆さんの腕をもっともっと上げてもらうため、元キネマ旬報編集長の関口裕子さんが時に優しく、時に厳しくアドバイスをするコーナーです。
2023.9.02
高倉健「ザ・ヤクザ」のエッセーを書いた20歳のひとシネマライターに,元キネマ旬報編集長が「目からうろこが落ちる」
「ひとシネマ」の高倉健を次世代に語り継ぐ企画によって、高倉健作品を見るようになった小田実里さん。高校生のときに映画「今日も明日も負け犬。」の脚本を書き、現在は一般社団法人MAKEINU.代表を務めるZ世代の小田さんがコラムを書いた作品は「ザ・ヤクザ」。
いまの知識と感情を飾ることなく文章化できる彼女のコラムには、私には思いつくことのできない解釈が満載で、目からうろこが落ちる思いを味わった部分も多かった。他者が書くものを読む楽しさはここにある。
小田さんは教えてくれる。Z世代が「重たい映画を見たがらない」傾向にあることや、リアルだと感じることは「『クズ男』や『シーシャ』などを題材として人間を描いたもの」であるなどを。Z世代への興味が高まり、いま一度、彼らが構築する文化の背景をおさらいしようと思わせた。
「ザ・ヤクザ」は、戦争の傷跡を描いた作品でもある。舞台は、第二次世界大戦が終結して29年後の1974年。主演のロバート・ミッチャム演じるハリーはかつて日本の進駐軍憲兵だった設定。当時の恋人・英子(岸恵子)は戦後ひとり娘を抱えて身を売る寸前だったところをハリーに救われ、彼女から兄だと紹介された元ヤクザの田中健(高倉健)も戦後6年間もジャングルに取り残されたのちに発見された復員兵だった。みんな戦争に人生を狂わせられた被害者といえる。
小田さんがこの作品を見るポイントしてあげたのは「義理」。監督のシドニー・ポラックおよび原作のレナード・シュレイダーが描く義理は、義理と人情を秤にかけりゃと歌う「昭和残俠伝 唐獅子牡丹」(高倉健主演・66)的な解釈だと思うが、小田さんは“義理チョコ”の義理から解釈を試みている。この解釈は実に刺激的だ。人も自分と同じように考えていると信じたく思う私の甘っちょろさに鉄槌(てっつい)を下す勢い。隔世の感は禁じ得ないが、簡単に世代差と言ってはいけない何かを感じた。
この義理についてハリーたちは「Obligation(義務、責任)」と、田中はダスティとのやり取りで「Burden(義務、責任)」と説明している。Obligationには「習慣や約束を守るために行わなければならないこと」という意味が、Burdenには「精神的な重荷や責任を負うもの」という意味がある。ハリーたちは義理とは規範を守るためのものと考え、田中は決めごとではなく気持ちの問題と考えていることが分かる。
幾度となくこの映画を見ているが、ここに注目したことは初めて。繰り返しの言葉だが、他者が書くものを読む楽しさはここにある。
小田さんのエッセー
重たい映画を見たがらないZ世代もいる中で、私は演者のハッピーな感情が全く浮き彫りにならない映画を見ている。私がこの作品を見ている意義はなんなのだろう、と終始思考を巡らせる。正直、世のZ世代には最後まで見る勇気が出ないような映画だ。「エモ」とは遠くかけ離れているからだ。任俠(にんきょう)映画だからだ。「クズ男」や「シーシャ」などが題材となった人間のリアルを描いたものがZ世代に好まれる一方で、この作品は生死を彷徨(さまよい)いながら生きる人間のリアルな魂が描かれている。リアルというよりリアルすぎる。前回見た映画「ブラック・レイン」の影響で、高倉健の演技を見たいと思った私が選んだ作品は前回に続き、裏社会を描いたものだった。
ヤクザの教科書
物語は、元アメリカ兵のハリー・キルマーが、旧友から依頼を受け、日本に渡るところから始まる。依頼は、旧友の娘をヤクザの元から救出すること。キルマーは、彼に恩義のあるヤクザの田中健と協力し、日本のヤクザ組織と対峙(たいじ)する。日本に向かったキルマーは田中と再会するも、すでに彼はヤクザの世界から足を洗っていることを知る。それでも田中はキルマーへの義理を返すため協力するが、依頼の解決に大切な人までも巻き込まれていく。その中で人物がさまざまな葛藤を乗り越える様子がドラマチックに描かれている。
作品におけるヤクザの描き方は丁寧で、任俠映画初心者の私でもわかりやすいものだ。冒頭部分に登場するのは「ヤクザ」という名称の由来の説明で、劇中には小指を落とす意味の説明まで登場する。それはまるでヤクザの教科書のようで、「ザ・ヤクザ」というタイトルにも納得がいく。見ているひとを冒頭から、世代問わず誰も置き去りにしない丁寧な映画だ。ハリウットで作られただけあって、実に分かりやすい。
映画のテーマは「義理」
ヤクザの世界は裏切りの連続だ。昨日の友は今日の敵、という言葉がお似合いで、いつ誰に裏切られるかわからない憎しみが転がっている世界は、「裏社会」とも呼ばれる。殺し合いのない平和な世界を見続けていたいという素直なZ世代の願いもかなわない。
そして、本映画のテーマは「義理」だ。敵であることを隠す米出身の護衛役ダスティの「義理は借りか」という問いに対し、高倉健演じる田中は「義理は耐え難いほどの重荷である」と答えるシーンがある。それに対し、ダスティは「天罰が下るわけでもないのなら放り出せばいい」と言うが、この意見に「気にしないほどのことだ」と田中はあっさり返してしまう。
私にとっての義理は、うまく関係を築くためのその場しのぎで、さらには相手に見返りさえ求めない行為であると考えている。相手から嫌われないための先手を打つ行為とでもいえばいいのだろうか。バレンタインの義理チョコなどはまさにそうであるのだが、恋愛的に好きでもない相手にチョコを渡すような「義理」の概念が、ヤクザの世界にも共通するというのならバレンタインを含めた「義理」から生じる日常の行為は、無駄に労力を消費するだけで本当に面倒臭いなあ、とダスティ的思考に陥る。私も日本人であるというのにだ。みんな面倒臭いと思いながら義理の行いをやっているのだろうか。だんだん日本人のことが分からなくなってくる筆者である。
義理は「恩を返す」とは違って、関係を0段階から築くための行為でありそこには愛のひとかけらもない。ただ、逆にいえば愛がないからこそ面倒臭いこともできてしまう。人を殺(あや)めることも。好きでもない相手にチョコを渡すことも。うそでも義理といえば、物事を小さな衝突も起こさずに進められるから、古来、日本人は問題をそのように解決してきたのかもしれない。
義理は競争や対立をできる限り最小限にするためのものでもある。物事の本質的解決よりも解決に向かう過程を慎重に進める日本人の特性に本質的解決だけを追い求める米国人はいつだって驚いてきたのかもしれない。それを示すようなダスティと田中のやりとりに、私は日米文化の対立構造を見た。
気の抜ける感じがふとした時に見える。一瞬だけ目が優しくなる
監督のシドニー・ポラックはアメリカにはない、そんな日本の文化を描きたかったのだろうか。そして、その日本の雰囲気を高倉健を通して映し出したかったのは、高倉健という人物が日本の考え方を貫き通しているような人間だったからだろうか。それとも義理を体現していたからだろうか。
高倉健の演技は、気の抜ける感じがふとした時に見える。一瞬だけ目が優しくなるところがある。セリフを吐き出す時も、役者としてではなく、高倉健という人の優しさがこぼれる瞬間がある。それが今回見られるシーンが、高倉健演じる田中が自分の無意識の行為に罪を感じて小指を落とす場面だった。その時の高倉健は肩の力が緩くなっているように感じる。張り詰めたシーンの空気感ではそれを見せるのは難しいように思えるのだが、それが彼の静けさから生まれた柔らかな雰囲気から溢(あふ)れているようにも見える。
彼について調べていくと、自分の出番がない撮影の日にも現場に顔を出し、差し入れを持っていくような人間だったという。演技にこぼれ出る彼の人間性はまさにそんなところからきているのだろうか。それは、彼にとっての義理の行いであったのだろうか。もし義理であったとしても、その行動をとったということが「美」なのだと思う。日本人のそんな静けさの中にある優しさがまたポラック監督の目には「美」として映っていたのかもしれない。
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