音楽映画は魂の音楽祭である。そう定義してどしどし音楽映画取りあげていきます。夏だけでない、年中無休の音楽祭、シネマ・ソニックが始まります。
シネマソニック:ノートから生まれる魂の映画祭
2025年1月16日、東京・有明の東京ガーデンシアターで、筆者はこの映画とほぼ同内容のコンサートを観覧した。ちょうど5カ月前の24年8月16日、氷川きよしの活動再開を華々しく祝うはずだった「KIYOSHI HIKAWA+KIINA 25周年記念コンサートツアー」の初日に台風7号が関東に大接近した。日本列島は三宅島などで最大瞬間風速30メートルを観測し、岐阜県美濃市で40.0度を記録するほどの異常気象となり、このコンサートは延期された。「出ばなをくじかれる」とはまさにこのこと。氷川再出発に、文字通り暗雲が垂れこめたように想像する芸能マスコミも少なくなかった。翌17日の2日目は台風一過の好天に恵まれ、コンサートツアーは実質的にここからスタートした。 「氷川のこれから」を見せる 今年1月16日のコンサートは、その「初日」の振り替え公演であり、ツアーの「最終日」となった。まるでメビウスの輪のように、始まりと終わり、裏と表が重なり合い、演歌・ポップスのジャンル、男・女の性別など旧来の線引き価値観における分別概念は意味をなさなくなり、それはまさに氷川きよしという希代のアーティストを象徴しているようであった。このコンサートドキュメンタリー劇場版映画は、その8月17日の「歴史的事件」を余すところなく記録している。 00年2月2日に「箱根八里の半次郎」という時代錯誤のような股旅演歌でデビューした氷川は、可愛らしい風貌、意外性たっぷりの楽曲、昭和30年代の歌手のように伸びと張りのある力強い声、驚くべき歌唱力と、つかみどころ満載で、瞬時にスターダムにのし上がった。その年の「日本レコード大賞・最優秀新人賞」をはじめ各新人賞を総なめにしただけでなく、NHK紅白歌合戦にも出場。22年まで連続23回の出場を果たした。この間に演歌の枠にとどまらぬ歌唱スタイルや楽曲を世に提示し、音楽界・歌謡界のイメージリーダーとなった。22年の紅白をもって活動を休止。その後ほとんど公に姿を現さず24年に個人事務所「KIIZNA」を設立。この「25周年コンサート」は、歌手活動の集大成というだけでなく、1年8カ月の雌伏の意味と「氷川のこれから」を見せる重要な意味を持つものであった。 張り詰めた危うさの魅力 この映像は、ただでさえ1年8カ月ぶりの大舞台なのに、前日の「初日」が飛んだことで2倍のプレッシャーがかかるスターの実像を捉える。明らかに自信より不安が先行する「美しい」スターは、そのことによってさらに「美」が増しているように見える。氷川は、自信と不安だけでなく、満足と不満、喜びと悲しみ、受容と抵抗、動と静……いつも相反する感情をローマ神話の双面神ヤヌスのように備え携えている。その張り詰めた緊張状態の危うさが、氷川の魅力の源泉になっていると感じる。 カメラは、舞台裏やリハーサル風景、打ち上げの乾杯まで捉え、その魅力を映し出そうとする。「氷川きよし」+「KIINA」というダブルネームを合わせたコンサートタイトルにしたのも、単に演歌とポップスを歌う人という二元性ではなく、過去と未来、洋と邦はじめ音楽の対立概念が溶け合う一つの人格を「+」で表現したと思うのだ。 すべてが想像の外にある ことほどさように、このコンサートは「新しい」。見たことがないものだらけである。仕事柄、最先端のアーティストのステージはほとんど拝見するが、それらは「流行の展示会」であり、予定調和である。もちろん、それが求められているのだから結構である。 ところが氷川のこのコンサートはすべてが想像の外にある。ガーデンシアターという最先端の会場で「ズンドコ節」や「白雲の城」が歌われることこそ「新しい」。そこに交じって「ボヘミアン・ラプソディ」や「限界突破×サバイバー」が炸裂(さくれつ)することが「新しい」。自分の来し方や夢を正直に描くオリジナル作品を涙ながらに歌う姿も「新しい」。そんなコンサートは氷川きよし以外不可能である。また、その歌唱レベルが際立っているというのも特筆しておこう。 氷川きよしという「世界サイズ」のアーティストを確認するにはなるだけ大きな画面で見た方がいい。映画サイズになってこそ存在の大きさを実感できるというものだ。
川崎浩
2025.1.30
映画を見終わり、頰を拭う。熱い思いがほとばしり、感動の涙となって流れ落ちる。そんな映画に出会えたときは充足するのだけれど、映画「 デヴィッド・ボウイ 幻想と素顔の狭間で」でにじんだ涙は、感動とはかけ離れた哀れみと悲しみが入り交じった感傷的なものだった。なぜ? それは、ロックの金字塔アルバム「ジギー・スターダスト」のバンドメンバーたちが突如デビッド・ボウイに解雇されて、一文なしになったと知ってしまったから。 自分だけ膨大なお金を受け取り、姿を消した ロックに演劇的要素とアートを取りこんだ革新者。時代を深く考察する哲学者。知的で純粋で、魅力的な優しい紳士。映画監督・大島渚に「彼は天使だ」といわしめ、ベルリンの壁の崩壊に導いたことでドイツの首相から「今のドイツがあるのはあなたのおかげです」とお悔やみの言葉をもらい、世界中のファンを喪に服させたデビッド・ボウイ。そんな彼が、自分だけ膨大なお金を受け取り、姿を消したというのだから、いたたまれない。 この映画はデビッド・ボウイのXワイフ(元妻)のアンジー、そしてアルバム「スペース・オディティ」(1969年)から「ピンナップス」(73年)までに関わった人々が、いかにしてデビッド・ボウイがスターダムへ駆け上がり、どのように一つの時代が終焉(しゅうえん)したかを語る貴重な証言ドキュメントフィルムだ。 独特のコードとリズムを斬新なロックに デビッドは60年代、ボブ・ディランに憧れてカーリーヘアにし、アコースティックギターを抱えてフォークを歌っていたが、今ひとつヒットが出なかった。69年、宇宙飛行士をテーマにした「スペース・オディティ」がようやく注目されたものの、フロントマンとして大きなステージに立つには力が弱かった。成功するためにはもっとエネルギッシュでエレクトリックなサウンドが必要だった。そこで、当時マーキュリー・レコードのインターンだったアンジーがプロモーターとなり、アメリカ人のトニー・ビスコンティをプロデューサーに迎え、ロックのバンドメンバーが次々と起用されていく。 リードギターに、「俺のジェフ・ベック」と デビッド に敬愛されたミック・ロンソン。ベースにトレバー・ボルダー、ドラムにウッディ・ウッドマンゼイ。彼らはブルースミュージシャンやジミヘンやクリームを聞いて育ったフォーク嫌いの才能豊かなミュージシャンたちだ。彼らがやるべきことはただ一つ。 デビッド が作った独特のコードとリズムを斬新なロックに仕上げていくことだった。彼らは デビッド と同じ家に住み、朝起きてコーヒーを飲むとジャムセッションをした。そんなバンド生活を1年ほど続けてできあがったアルバムが世界のキッズや若者たちを熱狂の渦に巻き込んだロックオペラ、究極の名盤「ジギー・スターダスト」だ。 ツアー絶頂でのバンド解散宣言 5年後に滅びようとする地球に異星からやってきたスーパースター「ジギー・スターダスト」にデビッド・ボウイがふんし、彼らもまたジギーのバンド「スパイダース・フロム・マーズ」にふんした。それまで中性的なイメージだったデビッドは長い髪を切って赤く染め、男性的でパワフルなイメージに変身した。アンジーのアイデアでメンバー全員がシャイニーでタイトなゴールドの衣装に身を包んだ。 ロックスターの成功から没落までをエキセントリックなサウンドで描く「ジギー・スターダスト」の演劇的なステージは英国、アメリカ、日本で大ヒットした。ツアー中は高級ホテルのワンフロアを借り切り皆で泊まり、毎晩パーティーを楽しんだ。そして、ツアーが絶頂を迎えた73年夏。ロンドンのステージで、突然 デビッド はバンドの解散を宣言する。ところが、解散のことはバンドメンバーに知らされていなかったというのだ。 野心的なマネジャーの手を借りてスーパースターの座へ ベースのトレバーはこう語る。「一文なしで追い出された。俺たちは一緒に始めて、一緒に成長したんだ。デビッドはいつも言っていた。最後は全員大富豪だね、みんなでリッチになるんだ、ってね。しかし、お金はデビッドだけに支払われ、彼は姿を消した。自分には家族もいる。車も買えると思っていた。なのに、失業手当の生活さ」。当時のマネジャー、元証券マンのトニー・デフリーズがトレバーにこう言ったという。「莫大(ばくだい)な金を デビッド に支払った。君たちとは約束してなかっただろう?」と。 なんてこった!労働基準法違反ではないか!と終映後、すぐさま本を数冊取り出してデフリーズについて調べてみる。彼は50万ドルでデビッドの権利を買い取り、利益の半分を受け取る契約を結んでいた。アーティストには不利な内容だけれど、成功を求めていたデビッドは野心的なデフリーズの腕を信じた。契約は82年まで続いたとも言われ、デビッド本人もこの理不尽な契約に長年悩まされたようだ。 ちなみに、ロックが巨大産業として確立していく50〜70年代は悪徳マネジャーがゴロゴロしていた時代とも言われる。プレスリーもビートルズもストーンズも、マネジャーとのトラブルを抱えながらも、その手腕を借りながらスーパースターの座へと駆け上がっていった。 天才も人間であったと気付かされる映画 先鋭的なアーティストとして成功し、偉大なインフルエンサーとなったデビッド・ボウイ。最初は彼も大衆に埋もれた一人の若者だった。必死にチャンスをつかもうとし、ようやく手にしたジギーのヒットを足掛かりにして、彼は次々と新たな物語の主人公へと変身していった。そして、並外れた創造力で奇抜な世界を絶え間なく生み出し、多くの協力者を得ながら深遠な美とサウンド、興奮と喜びを私たちに届けてくれた。 この映画ではデビッドの類いまれな才能と、周囲の人々の貢献が語られる。しかし、映画は同時に、若きデビッド・ボウイがバンドメンバーを犠牲にしたことを、これまで語られることがなかった事実を私たちに突きつける。だからといって、彼の輝かしい功績や魅力が損なわれるわけではない。ただ、そこに至るまでの経緯はあまりに人間的だ。この映画によって、天才デビッド・ボウイが人間デビッド・ボウイだったことに改めて気づかされる。 フリードリヒ・ニーチェは言う。「才能が一つ多いほうが、才能が一つ少ないよりも、より危険である」と。 ( 「人間的な、あまりに人間的な」より)
北澤杏里
2025.1.10
B.B.キングは1925年アメリカ南部に生まれた。 そこは、奴隷制度を推進し、連邦を離脱して南北戦争を引き起こした保守的な場所で、今も貧困層が多いエリアだ。私はそんな南部を、ゴスペル取材のために旅したことがある。ニューオーリンズからミシシッピ川に沿って、南北戦争の激戦地ビックスバーグに向けて北上した。選んだ道は、ルート61。ブルースハイウエーと言われるその道を走り、ルイジアナ州からミシシッピ州に入ると、様相がまったく異なるいくつかの小さな町に出会った。 貧富の明暗がくっきり分かれるディープサウス 昼だというのにどの店も閉店中でだるそうに眠り込んだ黒人の町。バルコニーに花を飾る小奇麗な白人のホームタウンがあるかと思うと、その横にスラム化した黒人のゲットーがあったりする。綿花畑では数百年前と変わらず、黒人の男たちが綿花を摘み取っていた。トラクターで摘み取るたびに、白いコットンは湿気でまどろむ南部の空に舞い上がった。 ルート61では、綿花で財を築いた大富豪の屋敷にも出くわす。オークの並木道が敷地の奥へ続き、背伸びをしても屋敷が見えないこともある。それに比べたら、映画「風と共に去りぬ」に出てくるお屋敷なんて小さなものだ。南部の農園主たちの富豪ぶりにあぜんとしていると、次に寂れた修理工場や売店、屋根のトタンが外れた廃虚同然の家々が目に飛び込んでくる。富と貧困の明暗がくっきりと分かれたアメリカ南部、ディープサウス。肥沃(ひよく)な大地から湧き上がる生気と虚脱感が一緒くたになったルート61は、人種差別の激しさを十分に物語っていた。ブルースの巨人、B.B.キングが生まれたのはこうした環境だった。 ブルースの王者が誕生して100年 映画「ブルースの魂」の中で、B.B.キングはこう語る。「子どもの頃からミシシッピの綿花畑で働き、教会ではゴスペルを歌っていた。ある日、ブルースを歌ったら一晩でいつもの何倍も稼げたんだ」と。彼は、幼少から教会でハリのあるパワフルな歌い方を身につけ、ある日、プランテーションを飛び出して、メンフィスでいとこのブッカ・ホワイトからブルースギターを学び、1949年にデビューを果たす。 1950年代に数々のヒットを飛ばし、1970年45歳で名曲「Thrill Is Gone」(原曲:ロイ・ホーキンス)でグラミー賞を獲得。翌年にはロンドンの音楽シーンをけん引したアレクシス・コナー、ピーター・グリーン、リンゴ・スターなどと共にご機嫌なR&Bアルバム「In London」をレコーディングしている。 ジェフ・ベックやスティービー・レイボーンとよくコラボし、エリック・クラプトンにビブラートの影響を与えたB.B.キング。タイトなリズムセクションをバックに、キレのあるギターを弾き、タキシードでリムジンのオープンカーに乗るイカしたブルースの王者が誕生して100年になる。 究極のブルースは愛する人に捨てられた時さ 映画「ブルースの魂」(初公開1973年)は、彼の 生誕 100年を祝ってリバイバルされる貴重な映画だ。映画は、 テキサスの刑務所に服役中の黒人たちが労働歌を歌うドキュメント映像から始まり、「ブルースとは何か?」というテーマで進んでいく。 主軸に描かれるのは、NYハーレムで苦悩しながら暮らす黒人カップルの物語だ。その物語の合間に、伝説のブルースマンたちが次々と登場して、ブルースについて語り、演奏する。物語とドキュメントを織り交ぜた大胆な構成で、映画はブルースの世界観を伝えようとしている。 例えば、ブルース界のレジェンド、ロバート・ピート・ウイリアムズは、自宅のキッチンでこう語る。 「カミさんが怒った時や機嫌が悪い時にギターを取って今の気持ちを歌うんだ。するとブルースが降りてくる」「ブルースはフィーリングなんだ。望みがかなわない、行きたいのに行けない、金がない、そうした心に浮かぶ感情を歌う。究極のブルースは愛する人に捨てられた時さ」。そう語るのは、テキサスのマンス・リプスカム。 ブルースの根源への旅 映画には、B.B.キングを筆頭に、ブッカ・ホワイト、ソニー・テリー、ブラウニー・マギー、ファリー・ルイスなど多くのレジェンドたちが登場する。彼らのブルースを聴くだけで、彼らがとてつもなく霊的で感情豊かな人間だということがよくわかる。彼らは自分の感情に正直で、その感情をすぐに捉えて歌にしてしまう。 ブルースは、恋人を失ったり、失業したり、社会の厳しい現実や孤独を語る。 〝うまくいかないこと〟を歌わせたら、黒人の横に並ぶものはない。感情を絞り込むような感覚。心の一番深い部分まで到達して、さらにその奥へと入って行こうとする恐ろしいほどの深さがブルースにはある。 ブルースには悲しみという感情を包み込む深々としたぬくもりがあるだけでなく、ブルーな感情をはじきとばして進んでいく粋なリズムもある。悲しさを俯瞰(ふかん)して、笑いに変えてしまう知性もある。 大きな負は、大きな正をもたらせるものだ。南部は奴隷制や人種差別という負の遺産が残る地だけれど、ゴスペルやブルース、R Bやロックンロールという世界中の若者を熱狂させる正の遺産を生み育てた場所でもある。もしあなたがブルースに関心があるなら、BBキングが南部の綿花畑に生まれたことを念頭に置きながら、この映画を通してブルースの根源へと旅することをおすすめしたい。
2024.12.24
この映画「トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代」ができたと聞いた時、周囲の音楽関係者は「なぜ、今?」といぶかった。彼らは、加藤和彦が「天才的発想と行動力を持った音楽家」であると知っている人々である。いや音楽家としてだけでなく「人格」「存在」として付き合っていた方々もいる。ただ、話していて「確かに、彼のことを記録としてちゃんと残していなかった。僕らもじきにいなくなっちゃうから、そんなタイミングかもね」という結論に落ち着いたものだ。そして、こうやって映像を見ると「よくできている」という感想と「そんな人だったっけ」という気持ちが相半ばする。それは、彼と同じ時代を生きてきた人間の目と、今のこの時代から彼を振り返る視点の差なのかな、と感じるのだ。 世界的サウンド 「美的人生」の象徴的存在に まずは、映画の主人公・加藤和彦を紹介しよう。ベビーブーム真っただ中の1947年3月に京都に生まれ、大学時代からプロの音楽活動を始めた。バンド「ザ・フォーク・クルセダーズ」の解散記念として発表した「帰って来たヨッパライ」が67年、社会的ヒットになる。次作予定の「イムジン河」が北朝鮮まで巻き込んだ大騒動になって発売中止になるが、代わりに出したコミックソング「水虫の唄」もヒットする。 ソロになってからは、欧米の先端音楽から世界の民族音楽まで視野を広げて学び取り、71年「サディスティック・ミカ・バンド」を結成して世界レベルのサウンドを生み出す。70年代半ば再びソロに戻ると、トップ作詞家・安井かずみと結婚。80年代にかけて映像や舞台、アニメと活動の場を広げるとともに、ファッションや料理、生活スタイルなど「あこがれの美的人生」を提案する象徴的存在にもなる。 その後も、活発な活動を行う中、安井が94年に死去。2009年10月2日に松任谷由実のコンサートにゲスト出演した半月後の17日、軽井沢のホテルで遺体で発見される。これが、音楽人名録的加藤像である。 〝最高の瞬間〟共にした人たちの証言 この映画でも語られている通り、加藤は、ほぼ音楽的天才である。その派生として洗練されたセンスがライフスタイルににじみ出たと感じられる。どうやら加藤は、どんな時も最高に美しいものを探し、手に入れると、また見たことのない「新たな最高」を探しに行っていたようだ。映画は、その折々の最高の瞬間を共にした、あるいは目撃した人々の証言ででき上がっている。 最高を探し尽くし味わい尽くしやり尽くしたのか、加藤は自ら命を絶つわけだが、その理由が本作で明らかになったわけでもない。映画に登場するきたやまおさむの見立てがほぼ正答であろうと、想像するのみである。 時代の先行く〝天才〟から〝変人〟へ では、なぜこれほどまでに、加藤和彦が死の直後でなく「今」話題になるのか。 冒頭にも触れたが、同時代の空気を吸ってきた者には、加藤は常に何歩も前を走り続けて追い付けない憧れであり、見方を変えれば憎たらしい存在だった。このことを大抵の人は感じていた。裏を返せば「知りはしないが後ろ姿は見慣れた人物」だったのだ。 ところが、令和の時代から見直すといわゆる「変人」である。命を削ってまで何かを追い求める必要や根拠や動機があるのか。若い人々はそう問うに違いない。昭和では見慣れていたものが令和では違和感を持たれる。その逆目をなでられるような肌触りが、時代の興味を引くのではないか。 才能散財したレジェンド 戦前の文化も含めて昭和時代は「無駄」や「無意味」に対して寛容だった。若旦那がぜいたくをして身上(しんしょう)をつぶしても、笑える一夜話だった。もちろんそれで泣く人はいたろう。現代社会は泣く人だけが大切であり、「無駄」「無意味」は「ぜいたく」としてできうる限り排除される。あれだけデザインも機能も豊富で華やかに展開されていた「ガラケー」は、白物家電のような個性のないスマホに取って代わられた。あの素晴らしい日々を送っていた加藤に、進化系統樹の先端まで到達したガラケーの華やぎを見るのは失礼だろうか。今の若い人々には加藤が「無駄に才能を散財したぜいたくの極みの」輝かしいレジェンドに映るのではないか。 ただ、疑問が残るところがある。相原裕美監督は、「加藤が正当に評価されるべきだ」という一点だけで、この映画を撮ったのだろうか。そのことと「加藤とは何であったのか」を探ることとは少し違う。音楽関係者は以前から「正当に評価」していたからだ。もし「加藤とは何であったのか」の解を求めるのならば、3人の妻(安井は亡くなっているが、著作は多い)の証言が必要であったろう(監督は百も承知であろうが……)。そこは、積み残しの大切な荷物のような気がする。 相原裕美監督が誠意込めた加藤和彦像 音楽記者を30年以上やっているので、加藤を含め登場人物のほとんどと面識がある。また、長い間取材をしていると、人は、問いに「すべて」本当のことを答えるとは限らないということを学ぶ。「うそはつかない」が「完全な真実ではない」ということが少なからずあるのだ。実は本人が書いた自伝よりジャーナリストの評伝の方が信用できる場合が少なくない。ジャーナリストの技は、多数の証言の中から真実を類推して抽出し、それを重ね合わせて対象を浮き彫り、透かし彫りすることである。 つまり、現れた像はジャーナリストの誠意を担保に入れた、極めて真実に近いであろう創作物なのである。このドキュメンタリーで浮かび上がってくる「トノバン」は、相原監督が誠意を込めて作り上げた、見事な人格であることは間違いない。 加藤の肉声が知りたければ、書籍の「あの素晴しい日々」(加藤和彦・前田祥丈著)の方が詳しいだろう。また、安井かずみに関しては証言集「安井かずみがいた時代」(島崎今日子著)も参考になる。
2024.7.03
激動する時代に、京都で生まれたコミカルな歌 映画「トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代」の公開にあたって改めて「帰って来たヨッパライ」を聞いてみた。酔っ払い運転で事故死した東北弁の主人公が長い雲の階段を上って天国へ行く。そこでも酒と美女に浮かれていたら、関西弁の神様から天国を追い出されて生き返る。ラストに般若心経が読経され、ビートルズの「ハード・デイズ・ナイト」の歌詞が一言読まれた後、ベートーベンの「エリーゼのために」のピアノ演奏でフェードアウトする。風刺仕立てのストーリーと、テープを高速回転した甲高い声がコミカルで、今聞いても新鮮だ。 当時、京都の大学生だった加藤和彦、北山修、はしだのりひこの3人で結成したザ・フォーク・クルセダーズによるこの曲がヒットしたのは1968年のこと。折しもマイカーブーム到来の頃で、交通事故が増えていくなか、学生運動が激化した時代でもある。必死に社会を変えようとする学生たちと機動隊との衝突があちこちで繰り返されていた頃だ。ベトナム戦争が激化し、アメリカではキング牧師やロバート・ケネディが暗殺され、パリでは若者たちによって5月革命が起こった時代でもある。激動する時代に、京都で生まれたこのコミカルな歌は日本の社会現象となり、日本音楽史上初の280万枚というミリオンセラーを記録した。 ギンギンのロックバンド「サディスティック・ミカ・バンド」 このカレッジバンドは結成1年後、大学卒業を機に解散。北山は医学、加藤とはしだは音楽の道へ進むことになる。ビートルズが好きだった加藤はその後、大好きなロンドンに出向き、本場のロックを肌で感じ取りながら、「向こうに負けない音楽を作りたい」という思いにかられていった。 盛んだった学生運動は、70年代に入るとやがて終焉(しゅうえん)する。若者たちの挫折した姿を描く「神田川」や「赤ちょうちん」といった「四畳半フォーク」がはやり出し、小さな幸せが歌われ始めたその時に、加藤はギンギンのロックバンド「サディスティック・ミカ・バンド」を結成する。メンバーは高中正義、小原礼、高橋幸宏、妻の加藤ミカ、そして加藤和彦。 ファーストアルバムは日本では売れなかったものの、イギリスの音楽誌で取り上げられ、当時の名プロデューサーのクリス・トーマスからセカンドアルバムのプロデュースのオファーを受ける。クリスは、ビートルズの「ホワイトアルバム」やピンク・フロイドの「狂気」などを手がけた敏腕プロデューサーだ。クイーンからのプロデュース依頼を断って来日し、レコーディングが行われた。 この時、日本で初めての試みが数々行われたという。当時の日本は1時間でシングル1曲をレコーディングするのが常識だったそうだが、このレコーディングにかけた時間は450時間。全員がジーンズをはき、ジッパーを上げ下ろしする音を取り込んだり、OKテークのマルチテープをカットしてつなげたり、独創的な方法で誕生したのが、ロンドンのグルーブ感たっぷりのグラムロックの名盤「黒船」だ。 ちんまりした四畳半フォークがはやる時代に、名曲「タイムマシンにおねがい」が歌われる。ジュラ紀の世界に飛べば、散歩中のティラノザウルスやお昼寝するアンモナイトに、そして鹿鳴館の時代へ行けば、ワルツを楽しむ人たちに出会える。そんなピカピカでイキイキしたぶっ飛んだ内容の歌詞とガツンとしたギターサウンドが日本の音楽界に強烈なインパクトを与えた。その後、彼らはイギリスでロキシー・ミュージックのツアーのフロントアクトを務めるが、やがて加藤とミカとの離婚を機にバンドは解散する。 ヨーロッパ3部作 加藤は2年後、作詞家の安井かずみと結婚し、ソロミュージシャン、作曲家、音楽プロデューサー、編曲者としてマルチに活動していく。79年には高橋幸弘や坂本龍一などと共にバハマで録音した、安井かずみとの共作アルバム「パパ・ヘミングウェイ」をリリース。レイジーでしゃれたムードのリゾートサウンドと加藤の軽やかで甘い歌声が、来るバブルの幕開けを予感させた。 さらに、彼はデビッド・ボウイが「ロウ」「ヒーローズ」を録音した西ベルリンのハンザスタジオで「うたかたのオペラ」を80年に録音し、耽美(たんび)的な世界を表現。81年にはパリでベルエポック時代の退廃的な雰囲気のアルバム「ベル・エキセントリック」を録音。レゲエ、スカ、シャンソン、タンゴ、ルンバなどのエッセンスを取り入れたこれらのコンセプトアルバムはヨーロッパ3部作と言われ、今も名盤として聞き継がれている。 バブルが終息した90年代には、彼はスーパー歌舞伎「新・三国志」のためにクラシック音楽を作曲し、演奏はロシアン・シンフォニー・オーケストラに依頼するなど、舞台芸術でも活躍している。 自ら人生の幕を閉じる 2000年代に入ると、世界は多様性と個の時代へと変化していく。情報はあふれ返り、誰もが情報の発信者になれるようになる。03年にヤマハから歌声合成技術ボーカロイドが登場すると、人間では不可能な高速で高音域の歌声を自由に生み出せるようになり、レコード会社を通さずに多くのヒット曲が誕生していった。音楽界に新風が吹き始めた09年、加藤和彦は自ら人生の幕を閉じることを選択する。愛読した作家アーネスト・ヘミングウェイのように。 洒脱に生きた 加藤和彦 60年代に忽然(こつぜん)と現れ、イギリスのフォークシンガー、ドノバンをカバーしたことから「トノバン」という愛称で親しまれ、ダントツの神的位置で時代を生きた加藤和彦。この映画は、「彼はもっとフューチャーされるべきだ」という高橋幸宏の一言から始まったという。 この提案に応じたのが相原裕美監督だったことは偶然ではなさそうだ。相原は、「黒船」やYMOのアルバムジャケット、デビッド・ボウイ、マーク・ボラン、イギー・ポップなどを撮り続ける写真家、鋤田正義のドキュメント映画「SUKITA 刻まれたアーティストたちの一瞬」の監督でもある。 ボーカリスト、ギタリスト、作曲家、アレンジャー、プロデューサーとして多方面で活躍するあまりに、これまで加藤和彦の姿は捉えにくかったのかもしれない。この 映画には加藤和彦と親しかったミュージシャンやディレクターなどが次々に登場し、生前の彼を語る。その 多くの言葉から60年代から2000年代初頭まで激変する時代 を一流の音楽と料理とファッションを愛しながら、洒脱(しゃだつ)に生きた 加藤和彦の実像が鮮明に浮かび上がってくる。
2024.5.31
31日公開のドキュメンタリー「トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代」で、改めて注目が集まっている加藤和彦。生前の2005年、戦後60年を機に毎日新聞がインタビューし、「ザ・フォーク・クルセダーズ」が歌った「イムジン河」について聞いている。ドキュメンタリーの中でも「イムジン河」の発売中止など発表にまつわる経緯が語られているが、加藤本人はどう考えていたのか。2005年8月15日、終戦記念日に掲載されたインタビューを再掲し、その思いを確かめてみたい(年齢などは当時)。 隣人への思い流れる純情――アジアにはいろんな問題が山ほどある。解きほぐしていくにはアジアに帰らないと 歌は思いもかけぬ伝播(でんぱ)力を持っている。「イムジン河」はとりわけ、そうかもしれない。平壌で生まれた歌曲が、ひょんなきっかけで京都の大学生グループ「ザ・フォーク・クルセダーズ」の心に届き、平和を願う歌として歌い継がれてきた。 グループのリーダーだった加藤和彦さん(58)に東京・銀座のホテルで会った。いまや日本を代表する作曲家、音楽プロデューサー、すっかりエグゼクティブな人なのに、やんちゃな顔がのぞく。さすが、アングラの元祖なんていわれてただけはある。 「大げさな意識を背負って歌ってたわけじゃないんです。あのころの京都、いまもそうですが、在日韓国人、在日朝鮮人がたくさんいる。クラスにもいたしね。北朝鮮への帰還運動も続いていたのかなあ。問題は日常的に内在してたんです。共存はしているんだけど、どこか垣根がある。韓国がどうだ、北朝鮮がどうだっていうんじゃなく」 少年の純情 鴨川に託し 「イムジン河」とフォークルを結びつけたのは親友のエッセイスト、松山猛さん(59)だった。中学生のころ、サッカーの交流試合を申し込みに銀閣寺近くの朝鮮中高級学校を訪ねると、校門のところでふっと聴こえてきた。その物悲しくも美しいメロディーをそのまま口ずさんでいた。訳詞をつけた。松山さんが振り返る。「引き裂かれた民族の統一を夢見て。少年の純情ですよ。僕らの見立てでは、鴨川がイムジン河でしたけどね」 松山さんうろ覚えのメロディーを加藤さんが採譜し、コンサートで歌いはじめた。「受けました。ベトナム戦争の真っ盛りでしたから、反戦の思いはありました。でも、日本は戦争しているわけじゃない。アメリカの戦争に反対、反対だって歌ってるだけじゃバカみたいでしょ。もっと身近な問題は何か、みんな考えていたと思うんですよ」 ♪おらあーしんじまっただあ……、1968年、フォークルは「帰ってきたヨッパライ」でレコードデビューした。なんともふざけたこの歌が大ヒット、続くシングルが「イムジン河」の予定だった。隣人の現実へ目を向けたのである。大まじめで。だが、13万枚もプレスしながら、発売中止になる。朝鮮民謡だと思い込んでいたこの曲に原作者がいたのである。在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)サイドから抗議を受けた。作者の明示がない、日本語詞が忠実でない、と。 歌そのものに力があった 手記があった。<泣いた。ちくしょう! くやしさがこみ上げた。プロの世界に入って、初めて、権力というか、ある大きな力に敗れてしまった。しかし、このうたが、多くの人に知られ、そして、労音のステージでうたうたびに、全国に広がり、大コーラスとなった。その意味でもアピールしたことが、僕たちの唯一のうれしさでもあり、「イムジン河」自身にとっても、倖(しあわ)せなことだったのかもしれない>(「フォークル懺悔(ざんげ)録」、「婦人公論」68年11月号) 「うーん、そんな気持ちだったかな。ラジオでもピタッとかからなくなったしね。それにしてはイムジン河はものすごく知られている。ナマで聴いた人はほとんど関西だし、自主制作のレコードは250枚、10人聴いても2500人。なのに下の世代まで知っている。まるで『リリーマルレーン』。歌そのものに力があったと思いますね」 原曲(「臨津江(リムジンガン)」)は朝鮮戦争後の57年にできた。植民地時代からのプロレタリア詩人として知られる朴世永(パクセヨン)の詞である。北朝鮮の国歌「愛国歌」の作詞者でもあるが、日本で広まったこの歌の評価は意外にも低い。平壌の「朝鮮大百科事典」をひいても、彼の代表作にすらあがっていない。首領さまを持ち上げる文学のみがもてはやされ、センチメンタルな文学は顧みられなかったからだろう。 とはいえ、原詞の2番は体制礼賛の色がにじんでいた。 河の向こうのあしの原では鳥だけが悲しく鳴き/荒れた野には草むらが生い茂る/協同農場の稲穂は波打ち踊る/臨津江の流れは分けることはできない 「朝鮮語の感じはわからないけど、たしかに北がいいですよってとれますね。この歌詞は歌いたくないなあ。だれも涙しないでしょ。でも、なんだかやわらかいんですよ。雰囲気が。メロディーもそうだし。だいたい国歌の作詞者といえば、バリバリの人でしょ。こんな歌をつくってよかったのかなあって」 第60回毎日映画コンクール表彰式で、「パッチギ!」で日本映画大賞を受賞し喜ぶ井筒和幸監督(左)と同作で音楽賞の加藤和彦=2006年2月、山本晋撮影 「パッチギ!」で再注目 そんな「イムジン河」が戦後60年のタイミングで息を吹き返した。映画「パッチギ!」である。先の松山さんの書いた「少年Mのイムジン河」を原案に井筒和幸さん(52)がメガホンをとった。「日本人は知らんのです。韓国のことも、北朝鮮のことも。祖国が二つに分かれていることも」。♪いむじんがわみずきよくー……。68年の京都の街に流れる「イムジン河」、ヒロインのキョンジャが奏で、思いを寄せる康介が歌ったのだった。 加藤さんは映画の音楽を担当した。その縁あって井筒さんと2人して韓国を旅する。「イムジン河」の舞台、臨津江へ。 「ソウルから近いのに驚きました。東京の都心からだと多摩川くらいかなあ。川は凍っていた。水鳥も飛んでて。歌の通りだった。ベルリンの壁も見たけど、イムジン河は壁じゃないよね。荒涼としてはいたけど。北側には宣伝村があって、トラクターが出て農作業なんかしていた。こちら側には離散家族の人たちがつるしたのか、統一への願いを託した千羽鶴みたいなのがいっぱいあって。改めてイムジン河の重みを感じました」 マルチに活躍を続ける加藤さんはいま、21世紀のアジア人的ライフスタイルを提案する雑誌「わーずわーす」の編集長でもある。それもまた「イムジン河」の支流なのかもしれない。 「日本ってアジアでしょ。なのに、それを意識してこなかった。西洋世界の末席でやってきた。岡倉天心とか、アジア人である自身をプラウド(誇りあるもの)と思っていた。そうした先達の尺度で考えてみたかった。アジアにはいろんな問題が山ほどある。それを解きほぐしていくにはアジアに帰らないと。日本人にそういう意識が芽生えてくれば、中国も韓国もへそまげないですよ。少しは違ってくると思うんですがね」 おしまいにこんなアイデアが出た。「九州ってアジア的ですよ。僕の感覚では。だから博多に遷都したらどうかな。おもしろいかもしれない。これまでにない日本になるよ、きっと」
鈴木琢磨
2024.5.30
ある夏の日、ハワイ・マウイ島ラハイナスクエアの駐車場に大きなオープンカーでさっそうと現れた加藤和彦さんに会えたのは奇跡だったのかもしれない。 相原裕美監督とは 2018年に公開された「SUKITA 刻まれたアーティストたちの一瞬」をご存じだろうか。1970年代初頭にT・レックスの写真を撮るべくイギリスへ渡り奇跡的にデビッド・ボウイらと出会った鋤田正義。その後イギー・ポップ、日本ではYMO等のレコードジャケット写真で、ロックミュージシャンの撮影写真家として世界中のファンに認められた彼に迫るドキュメント映画である。被写体であるミュージシャンとそれを撮る鋤田の〝言葉では言い表せない対峙(たいじ)の関係性〟がこの映画ではうまく描かれている。この秀作をもって映画監督デビューしたのが相原裕美監督である(裕美といっても60過ぎのおじさまです。笑い)。その相原監督の3作目がこの「トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代」になる。 ドーナツ盤を手にして歌い踊った 加藤さんは47年3月21日生まれで僕の一回り上、存命ならば77歳である。小学生の僕はテレビから流れてきたどこかで聞いた事が有るような、無いような、マンガのような声と音で奏でられる奇妙な歌を聴く。当時のテレビマンの遊び心からか映像もサイケデリックな演出がなされていたこの曲に僕は熱狂した。ザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」だ。まだ幼くラジオの深夜放送を聴かない僕らは、お兄さん、お姉さんより少し遅れてヨッパライのとりこになりドーナツ盤を手にして歌い踊った。そこにいたのが加藤さんである。 やがて中学生になりビタースウィート・サンバを口ずさみラジオの深夜放送常習聴視者と育った僕は日本語なのにロックでカッチョイイすてきなナンバーを知ることになる。サディスティック・ミカ・バンドの「タイムマシンにお願い」の登場だ。そこにいたのも加藤さんである。 リズム感良く描かれた音楽映画 私的な、一方的な加藤さんへのリーチはここまでにして、本作品は加藤さんが音楽家として生きた時代と、その時代を一緒に生きた人々が見て、感じて、忘れられない加藤さんへの思いが、リズム感良く描かれた音楽映画である。 ここで彼を語る証言者たちは同じバンドを一緒に組んだメンバーだったり、関係の濃かったミュージシャン、音楽関係者、ファッションデザイナーだったりと多岐に渡るが、誰も皆一流の匂いがある人たちばかりだ。それぞれの観点、それぞれの思いで加藤が語られていく。 多様な加藤さんをスクリーンに登場させる それは時には明るくコミカルで軽妙だったり、色鮮やかでファッショナブルなパーティー会場のようだったり、真っ青な空を翼を持って自由に飛びまわるスマートな鳥に変身したようだったり、波ひとつない静かな海を優雅に渡るクルーズのようだったり、そして一転にわかにかき曇り嵐がおとずれた荒れ狂う空のようでもあったりした。 それぞれの証言は、それぞれのリズム感による、テンポと喜怒哀楽のコードの使い方で多様な加藤さんをスクリーンに登場させる。やがてそこには次世代のミュージシャンたちも加わり、加藤さんとその仲間たちが繋げた歌が新たに動き出す。少しだけ加藤さんの事を知っていたと思っていた僕は本作品を見ながら途中何度も涙がでてきた。証言者たちの思いがこちらに飛んでくるのだろうか、たくさんのそれぞれの思いが交差しながら加藤さんに近づけてくれているような「錯覚」を覚えた。 加藤さんの事をほとんど何も知らなかったんだ そんな一つ一つの思いに、僕は本当は加藤さんの事をほとんど何も知らなかったんだとつくづくと思った。そして、「ある夏の日、ハワイ・マウイ島ラハイナスクエアの駐車場に大きなオープンカーでさっそうと現れた加藤和彦さんに会えたのは奇跡だったのかもしれない」と再度思い直したのでした。
ANDY 安藤広一
2024.5.28
国境や言葉の壁は溶けてなくなる ボブ・マーリーとアントニオ・カルロス・ジョビンがいなければ、世界の音楽は選択肢がとても狭いものになっていたのではないだろうか。今や音楽はスマートフォンから流れてくるサブスクリプションが全盛期となって、国境や言葉の壁は溶けてなくなりつつある。その国にパッケージのディストリビューターがいなくても音楽の聞ける時代。ヘッドホンからは米英だけでなく、韓国、タイ、イタリア、アイスランド、ブラジル、もちろんジャマイカなどなどの多種多様な言語とリズムが流れてくる。そんな音楽多様性のオリジネーターが彼らなのである。 1970年代はレゲエの時代になる その片方のボブ・マーリーの話。今よりずっと昔、ワールド・ミュージックという言葉が存在していた頃。ビートルズのジョン・レノンをして「1970年代はレゲエの時代になる」と言わしめたのが彼の存在なのである。のちのパンクロックやヒップホップだけでなく、世界の音楽に大きな影響をもたらした。レベルミュージック、反逆の歌を歌い続けた。 そのインパクトが今の時代にも共鳴 そんな彼の人生に迫った映画「ボブ・マーリー:ONE LOVE」が公開される。先行したアメリカでは2週連続ボックスオフィスNo.1になったことが、そのインパクトが今の時代にも共鳴していることを証明している。 2大政党の対立 キングストンに住む黒人は「曲が売れるか、警察に撃たれるか」と言われていた70年代のジャマイカ。2大政党「人民国家党(PNP)」と「ジャマイカ労働党 (JLP)」の対立を音楽の力とラスタファリズムで解決しようとした彼は、銃撃され家族の生命さえも危険にさらされジャマイカを後にする。そして、「寒い国」イギリスを活動の拠点にするのであった。 名盤「エクソダス」制作秘話 そんなボブに妻であり、バンドの一員のリタ・マーリーは「あなたのラブソングが好き」と怒りとともにレベルミュージックに全力を傾注する彼に警告ともアドバイスとも言える言葉を投げかける。そこで歌われる「そっと灯りを消して」が入っている名盤「エクソダス」制作秘話はこの映画の見どころ。 高貴さが作品を貫いている そんなリタとの愛憎劇、母と自分を捨てたイギリス人である父への葛藤、メンバーの脱退、スタッフの裏切りなど音楽映画のお決まり事もきちんと用意されているが、ライオンともキャプテンとも言われた彼の高貴さが作品を貫いている。それは、ボブ・マーリーのファミリーがプロデュースをし、キャストの多くはボブ・マーリー ザ・ウェイラーズのメンバーゆかりの人々が演じているからなのだろうか。 ウェイラーズ誕生を描いた生き生きとした鼓動 彼の36年の生涯から紡ぎ出された名曲の数々。音楽の力で国境と言語、ジャマイカの内戦を乗り越えたオリジネーターの姿がまぶしく見える。ぜひとも大きなスクリーンと音質の良い劇場で体感してもらいたい。もちろん、彼の音楽を聴き続けてもう45年以上になる僕にとってもとても満足のいく一本であった。特にウェイラーズ誕生を描いた、その生き生きとした鼓動が心をウキウキさせてくれた。 レジェンドもとても身近に感じる ちなみに、彼が生きていれば79歳。「アイ・ショット・ザ・シェリフ」をカバーしたエリック・クラプトン、日本で言えば吉永小百合やタモリと同じ年生まれなのである。そう考えると、レゲエのレジェンドもとても身近に感じるのではないだろうか。もちろん、ボブ・マーリーやレゲエに興味がなくても、彼を支えたリタとの愛の物語としても秀逸なラブストーリーなのである。
宮脇祐介
2024.5.13
教授が旅立たれてから1年がたつ。 先日、教授の長編コンサート映画「Opus」を拝見した。この映画は、教授が旅立つ半年前の22年9月、NHKのスタジオ509で一日数曲のペースで演奏した姿を映画監督の空音央さんとビル・キルスタイン撮影監督が収録したものだ。試写会当日、空監督が登場して、「ピアノ演奏だけの102分の映画です。眠くなったら寝てくださいね」とあっさりおっしゃった。いえいえ、空さん、教授の遺言のような大切な演奏を寝てしまうなんてありえないでしょう、と思ううちに映画の幕が開く。 ただならぬ健康状態 映画はピアノに向かう教授の後ろ姿を捉えた映像から始まる。スタジオは優しい白い光に満ちている。ピアノに向かう教授の肩がかすかに動き始める。ピアノから生まれる旋律と共に、闘病で痩せた教授の肩甲骨が上下に動く。この演奏がただならぬ健康状態で行われていることが伝わってくる。 色のないモノクロームの空間に置かれた黒いグランドピアノ。床に伸びる影。白と黒の鍵盤。無数の名曲を生み出してきた美しい手。渾身(こんしん)の力を込めて一音一音を紡ぎ出していく指と指。銀色に光る豊かな髪。そして、レオナール・フジタを思い起こさせる眼鏡の奥で、瞬きひとつせず楽譜を見つめる真摯(しんし)な瞳。カメラは、「世界のサカモト」から生まれるどんな音でも逃すまいとするかのように、ズームレンズでそれらをアップで映し出していく。 存在した命の証し この映画のなかで聞こえるのは、ピアノの旋律だけではない。教授の呼吸音。きぬ擦れのささやかな音。爪と鍵盤が触れ合うかすかな音。それらすべてが、そこに確かに存在した命の証しとして、ピアノの旋律と同じ音楽として大切に扱われている。 封印された感情を解く力 今回の演奏が 教授のラストコンサートだと知っているからだろうか。あるいは、教授の体力が限界を超えているからだろうか。私の耳には始まりの数曲が途方もなく悲しみの曲に聞こえる。その深く切ない音を全身に浴びるうちに、私は教授があるインタビューで語った言葉を思い出していた。 「音楽には封印された感情を解く力がある」 人は、受け入れがたいほど恐ろしいことが起こると、「恐ろしい」「悲しい」という表現ができない状態になり、その感情にロックをかけて封印してしまう。音楽には、そのロックを解く力がある。教授がそれに気づいたのは、9.11のアメリカ同時多発テロがきっかけだった。あまりの衝撃のため音楽に向き合えない日々が続き、ようやく作曲に取りかかった時、自分の指先から生まれる音楽に初めて慰められたという。 「僕は癒やしという言葉は嫌いだけれど、音楽には確かに慰めの力があることをそのとき知った」さらに教授はこう語る。 「喪失感というのは、音楽の根源でもある。音楽の大きなひとつのテーマは、亡くなった者、存在しなくなった者を懐かしみ、悼むことだ」と。 母の手のように 教授はある頃から雨の音や竹林を渡る風の音に耳を傾けながら、繊細な人の心の動きや喪失感を見つめ続けてきたのかもしれない。忙しく動き続ける社会の片隅で埋もれていく人間の孤独感。日々の生活の中でかすかに湧き上がっては消えていくほのかな切なさ。そして、心の奥深くにしまい込んだ悲しみ。教授のピアノの旋律は、そうした心の痛みに触れて震わせ、それを母の手のようにすくい上げる。 思い出を慈しむかのように コンサートの終盤にはピアノで初めて演奏する「Tong Poo」、さらに「シェルタリングスカイ」「ラストエンペラー」と映画音楽の名曲が続き、感動の頂点がやってくる。私の頰はすっかり涙でぬれている。そして、始まる「戦場のメリークリスマス」。 どれだけ多くの人々がこの曲を愛し、教授は何度この曲を弾いただろう。教授は口角をあげてほほ笑みながら鍵盤に向かう。まるで「戦場のメリークリスマス」にまつわる多くの思い出を慈しむかのように、穏やかなテンポで音が紡がれていく。その音は軽やかで、清らかな水のように澄みきり、きらめきを放った。70歳の教授が弾く「戦場のメリークリスマス」は、これまで聞いたどの演奏よりもたおやかで、美しく、温かく、慈しみに満ちていた。完璧だった。生まれたばかりの透明な音のしずくたちは歓喜の面持ちで大空へ舞い上がり、天上界へと吸い込まれていくようだった。教授は演奏を終えて余韻を味わうと、満足したように両手を合わせた。 最後のギフト この澄んだ一編のコンサートフィルムは、私たちへの最後のギフト。残された私たちの感情の封印を解く、教授からの美しい贈り物だ。 コマーシャリズムに侵されることなく、ひたすらストイックに内面の音源に向かい、教授は最後まで新進気鋭の芸術家として在り続けた。 日本の文化をけん引してきた大切な知的財産を失った私たちの喪失感はあまりに大きく、まだ癒えそうにもない。 教授、今年も桜の季節が過ぎていきました。咲き誇り、散り、やがて朽ちていくおおらかな自然のサイクルのなかで、教授のピアノを聞きながら、世界のサカモトが去った1年後の春を過ごしています。封印を解かれた悲しみが、優しい慈愛の光に変わると信じて。
2024.4.20
SNSが出てくる前、バンドやアーティストはその代わりを果たしていたと話していた人がいた。それは、地元に根を張り、何代にもわたってユニークな人々を輩出していく。古くは英リバプールのビートルズだったり、米ニューヨークのアンディー・ウォーホルだったり、福岡のめんたいロックだったり。地元のインフルエンサーから情報が発信され、それがバズり、多くの人に広がっていくのだ。 日本のラッパーがとうとうドームまで! 2000年代に入ってSNSが普及し、アーティストが地元のつながりも、マスメディアも、SNSもと縦横無尽に使って伝播(でんぱ)したのが、例えば今の日本のヒップホップムーブメントなのではないのだろうか? 先日行われた川崎出身BAD HOPの東京ドーム解散ライブは、日本のラッパーがとうとうドームまで来たか!と衝撃を与えた。 岡山県津山市 そのムーブメントの一人、紅桜は1987年岡山県津山市で生まれ育ち、地元の先輩YAS率いる「FAT BOX CREW」に触発されラップを始めたと言う。08年よりMCバトルに参戦。13年リリースしたシングル「Holare!!」の収録曲「What’s my name」でデビューした。やがて、歌謡曲や演歌の歌唱法を取り入れた独自のスタイルが人気を博していった。 再起を懸けた 19年そんな彼が突然表舞台から姿を消すことになる。覚醒剤取締法違反で逮捕、懲役のためである。このドキュメンタリー「ダメな奴~ラッパー紅桜 刑務所からの再起~」は23年、約4年の懲役を終えてから、再起を懸けた復活ライブまでの軌跡を追ったものである。刑務所の近くで出所を祝う仲間たち、地元榎地区、彼らが言うエノックリンまでの道程の涙、エノックリンの生活、地元のラッパーたち、スタジオ入り、復活ライブまで。仲間や家族といるダメな奴(やつ)こと紅桜の素顔がうかがえる。 地元からバズを世界に ところで、ふと気になって津山市出身の著名人を検索してみた。古くはアナウンサーの押阪忍から作家の重松清、B'zの稲葉浩志、俳優のオダギリジョー、芸人の河本準一など個性あふれる才能を輩出している。隣の勝央町には初めて日本語ラップをヒットチャートに送り込んだスチャダラパーのBoseもいる。津山で前出のYASがレーベルParty Gun Paul(パーティガンポール)を立ち上げたことで地元から次々とラッパーが輩出されている。政治屋やビジネスマンが地方創生などと声を上げる前から、バンドやアーティストは常に地元からバズを世界に発信し続けているのである。そんなことを思わせるドキュメンタリーだった。 詳細はこちら TBSドキュメンタリー映画祭|TBSテレビ
2024.3.26
今からほぼ40年前のある夜のこと、アメリカのポピュラー音楽のスターが勢ぞろいして、アフリカの飢餓を救うためのチャリティー楽曲を作った。20世紀の名曲「ウィ・アー・ザ・ワールド」である。その企画がどのように生まれ、どのように実現されていったかを解き明かそうというドキュメンタリー映画である。 「ポップスが最高に輝いた夜」© 2024 Netflix,Inc. MTVブームに乗って この曲が、日本で発売されたのは1985年4月。当時は、音楽を映像と共に制作して売り出す「ミュージックビデオ(MTV)」ブームが最高潮に達し、深夜のテレビで人気だったMTV番組では、毎晩繰り返しこの曲と映像が流れた。当時からメーキング映像も流布していた(そう、小林克也のナレーションであった)。付け加えれば、その後、ジェーン・フォンダを案内役に頼んだメーキング特別番組も作られている。 つまり、このドキュメンタリー映画は〝何番煎じ〟なのだ。ただ、誤解のないように言っておきたいのは決して「出がらし」ではないということである。それは、そのテーマである「アーティストの魂」が不滅の輝きを放っているからである。本編と重なるので事実関係を書くのは、はばかられるが、ざっと記述すると……。 アフリカ飢饉救済に大物歌手が大結集 83年から被害が拡大していた、エチオピアを筆頭とするアフリカ各国の飢饉(ききん)を見かねた黒人歌手の大御所ハリー・べラフォンテが、84年の英国音楽家によるチャリティーイベント「バンド・エイド」のようにアメリカ音楽界でもまとまれないものかと、有力プロデューサー、ケン・クレイゲンに相談。クレイゲンが金銭的・プロダクト的な調整を行い、べラフォンテが音楽的なコーディネートをすることで企画は動き始める。 べラフォンテは、まず、クインシー・ジョーンズに音楽プロデュースを依頼。さらに、スティービー・ワンダーにも声を掛け、2人を中心に詞曲の依頼や歌手の人選などが進む。詞はマイケル・ジャクソン、曲はライオネル・リッチーと決まり(ほぼ共作)、その趣旨に賛同したスター歌手45人が、85年1月28日夜、「全米音楽大賞」発表会(ほとんどの歌手が出席していた!)の終了後にロサンゼルスのA Mスタジオに集結。翌朝8時までかかって、この曲を録音したのである。このドキュメンタリーの原題「The Greatest Night in Pop」の「The Night」はこの夜のことを指す。 米国での発売は、3月28日という異例のスピードで製品化され、全世界で2000万枚以上売り上げた。総計6300万ドルの収入のうち全印税が現地に寄付されたとされる。以上が、プロジェクトの概要である。還暦以上の洋楽ファンなら大概知っている内容であろう。 集まった歌手は、前述のアーティストをはじめ、アル・ジャロウ、ウィリー・ネルソン、ケニー・ロジャース、スティーブ・ペリー、スモーキー・ロビンソン、ホール&オーツ、ビリー・ジョエル、ブルース・スプリングスティーン、ボブ・ディラン、ポール・サイモン、レイ・チャールズ、キム・カーンズ、シーラ・E、シンディ・ローパー、ダイアナ・ロス、ディオンヌ・ワーウィック、ティナ・ターナー、ベット・ミドラー、ラトーヤ・ジャクソンら、超の付くスターばかり。 ベトナム難民2世監督が迫った貧困の根幹 この事典的記述では「才能豊かな人たちが苦労して善行を施した」で終了だが、わざわざ「その夜」から40年もたって映像化する理由が、バオ・グエン監督にはあったに違いない。そこが本稿のポイントである。 グエン監督はベトナム系アメリカ人だが、両親はベトナム戦争時の難民だ。本作の前に評価された作品はアメリカで辛酸をなめた映画スター、ブルース・リーのドキュメンタリー映画「水になれ(BE WATER)」(ディズニー+で配信中)である。そして本作は、アフリカの貧困を救うために立ち上がった歌手たちの物語だ。しかもこの歌手たちは、ほとんどが黒人で、白人でもユダヤやイタリア、アメリカ先住民のルーツを持つ人々が多い。 そこから透かし彫りのように浮かび上がるグエン監督の関心事は、飢餓や貧困や差別の根幹に何があるのか知ることではないか。そして、監督にとってその象徴的でかつ歴史的「事件」の一つが、この「ポップスが最高に輝いた夜」であったと考えられるのである。 そう思って見ると、「音楽は人類向上のために人々を結び付ける。その力を信じている」というクインシーの言葉が、表向きの美辞ではなく、身につまされるほど切実なものに思えてくる。 もちろん、歴史的なスーパースターの元気で輝かしい姿を、さらに、彼らが共に歌える喜びを興奮しながらかみしめていることを、裏話を聞きながら楽しく見るのも結構である。ただ、自我の塊であるアーティストが、クインシーの張り紙通りに自我をスタジオの入り口ドアに置いて「音楽と人間愛への魂」だけで臨んだ「夜」は、当時同様、多数の「困難を抱える現代人」として追体験したくなるものではないか。 ベラフォンテの直電で承諾 さて、音楽記者の目からいくつか、書きとめておきたい。筆者は、この「夜」の参加者のうち15人ほど取材し、プロジェクトのことを尋ねている。その中で、映画と微妙に違うというか、触れていないことを記しておこう。 まずライオネル・リッチーの位置付けだが、リッチーは筆者に「あの曲もイベントもおれが仕切った」と中心人物のように自信たっぷりに語った。実際これは通説であり、映画でもそうふるまっている。が、ハリー・べラフォンテ、クインシー・ジョーンズ、スティービー・ワンダーによれば、リッチーはあくまでも「明るくおしゃべり」で「膨満キャラ」の「音楽家」であり、全体を見通す立場にはなく「曲作りに集中してもらった」と言う。 マイケル・ジャクソンに関しては「べラフォンテに頼まれて、早い時期にコンタクトを取ったが、彼は最初はプリンス同様、参加を断った」とクインシーは言う。困ったクインシーは、よりマイケルと親しいスティービーに頼んだもののスティービーも「僕も断られた」と言う。2人は、ベラフォンテに泣きついた。ベラフォンテは「しょうがない」と電話機に手を伸ばし、マイケルに直電。マイケルは一も二もなく参加を了承したのだと言う。これは、クインシーとスティービーの証言である。これをベラフォンテに直接確認したところ「マイケルは天才だ。彼の参加はこのプロジェクトに欠くべからざるものだ。そうお願いしたら快諾してくれたよ」とにこやかに話した。 自我をスタジオに持ち込んだのは…… もはや、ベラフォンテを語る人は少ないが、アメリカ黒人音楽界の最高の人徳者とされている。白人社会の中に、「芸」だけではなく「人格」で認められ、かつ黒人の地位向上に尽力して黒人の尊敬も集めた最初の音楽家と言われる。ちなみに、この「夜」のスタジオにゲストとして招かれていた黒人初のハリウッドスター、シドニー・ポワチエも黒人から「裏切り者」呼ばわりされていたのだ。ベラフォンテの音楽のすばらしさは、60年7月の来日公演時に、三島由紀夫が毎日新聞に寄稿したコンサート評の絶賛ぶりにとどめを刺そう。 また、クインシーらしいユーモアあふれる皮肉だろうが「私が手紙に書いた『自我を置いてスタジオに入れ(CHECK YOUR EGO AT THE DOOR)』という注意を無視したやつが一人いるんだよね」と笑って名指しした男性歌手がいる。「この夜」のスタジオでも日ごろのスタイルを全く崩していないので、映画を見ればすぐに分かる!?
2024.3.19
昔からトラブルだらけ パンクなんて辞めてしまえ。こうなる……というせりふともざれ言とも取れない言葉から始まるドキュメンタリー映画が間も無く全国で上映される。予定? ……トラブルが起きなければ上映されるだろう。内心ヒヤヒヤしている。無事に上映されるだろうか? 昔からトラブルだらけで、有るはずのものが無くなってしまう。無いはずのものが有ってしまう。そんなふうにファンたちをやきもきさせるのが得意な彼らがいる。彼らはバンドマンだ。否、パンクバンドマンだ。 全世界のPUNKKIDSをとりこ ♪I’mPUNK!って歌ってるのだから間違いないだろう。The Swanky's。彼らの初ドキュメンタリー映画「バカ共相手のボランティアさ」が完成した。完成した? まぁ試写を見せて頂いたから完成しているのだろう? 1980年代以降、全世界のPUNKKIDSをとりこにしてきた(今もなお !)バンドが博多で結成されたのは81 年くらいだと聞く。私が9歳か10歳の頃の話だ。当時の博多と言えば、めんたいロックと言われる音楽が主流だったと思う。と言うより、当時は音楽番組が隆盛を極めていて、松田聖子や中森明菜、チェッカーズやC-C-B等の音楽が昼夜問わずTVやラジオから流れていた 。 原田の知世、南野陽子 ちなみに私は原田知世のファンだった。「時をかける少女」の下敷きを中洲大洋映画劇場(3月末閉館!)で映画をリアタイした際に小遣いで買った。その帰りに、玉屋の隣にあったカレーの湖月でカレーを食べ(地元民ならわかるソウルフード)入れ放題のらっきょうを入れた時、カレーがはねて、その下敷きが汚れてかなりへこんだのを今でも覚えている。当時の下敷き等のラミネートはあまりにも粗雑だった。 原田知世の話をしている場合ではない。話を戻そう。その下敷きを中学2年生まで使い続けた私。カレーの汚れも喉元過ぎればなんとやら。原田知世以外にも好みのタイプが見つかり、原田の知世も喉元過ぎれば誰かしら? 85 年デビュー組の南野陽子である。ナンノ熱は勢いを増しデング熱のごとく私をほだす 。国際センターで行われた自動車ショーに出るナンノに会いに行き、駆け寄って話しかけたかった程の思い入れようであった。 怖いお兄ちゃんの1人が倒れている 話が戻らない。今回はThe Swanky'sについてのエッセイ的なものとのオーダーであったはずだ。どうすれば良い?と、The Swanky'sドキュメンタリーの試写を見返すナウ。大丈夫 ! 記憶は雄弁に語るものだ。今回の映画に少し出演させていただいたのだが、私自身のインタビューで、それこそ原田知世下敷きをしつこく使用し続けていた中2の頃、夜、おなか空いたなあと近所のコンビニに行った帰りの出来事。奈良屋町の大村京染店の角を左に曲がった次のブロックで衝撃的な事柄に出くわす。怖過ぎるお兄ちゃんたちがたむろしている。恐る恐る息を潜め通り過ぎる私の横には、トンがった頭をしているお兄ちゃん、お姉ちゃんも居たなぁ…… なるべく早く、その場を立ち去ろうと思う私の耳に、何かの鈍い拳感な音。ふと振り返ると、怖いお兄ちゃんの1人が倒れている。それがThe Swanky'sオリジナルメンバーのTVさんだ!と言う事もこのドキュメンタリーの中で明らかになるのさ……。 鋲(びょう)ジャンとの出会い ここからは鮮烈に残るイメージの回想。その怖いお兄ちゃんお姉ちゃんたちの電灯に照らされるキラキラした上着がひたすらに奇麗だなあと思った。鋲(びょう)ジャンとの出会いである。いかついトゲトゲをまとった彼等は本当に格好良かった。博多区奈良屋町にある夢工房での話である。とにかく、格好良かった。そして奇麗だった。PUNKは何か奇麗で上品だと今でも思う。そして何かユーモアがある。私にとってPUNKとは上品でぜいたくでユーモアがある人物たちの事である。The Swanky'sとの出会いである。 熱いやら冷たいやら、動きづらいやら そこから、今の私につながるのはさほど、難しくは無い。さて、私は私の過去、そして現在、未来へつなぐべく、このドキュメンタリーをあくまで私事として劇場に見に行くつもりだ 。(ちゃんと上映されれば……)んにしても、仕事着でもある鋲ジャンは基本激しく熱い。冬の時期は冷却枕みたいに冷たい。嗚呼(ああ)、やれん。何故、仕事着を鋲ジャンにしたのだろう。あの時、出会ってしまったThe Swanky’sのせいだ。南野陽子にしとけば良かった……等と思いつつ、今日も振り付けの仕事へ鋲ジャンを着てGO! 熱いやら冷たいやら、動きづらいやらで 、嗚呼……やれん。そしてつぶやく。パンクなんて辞めてしまえ。こうなる……と。うむ。こうなった……と私はせりふともざれ言ともつかぬ言葉を独りごつのである。 皆様、必見よ♡泣くぜ。 3月 15 日より 福岡先行公開 、22日より全国で順次公開。
振付稼業air:man
2024.3.15
デビッド・ボウイやフレディ・マーキュリーが登場した時に、あるいは初めて聴いたパンクロックに、なにやら既視感を感じた人も多いのではないか。「どこかで見たぞ」「どこかで聴いたぞ」と。そう、その感覚の原像はこの映画の主、リトル・リチャードである。オールディーズ好き、ロックンロール好きで知らぬ者はない大物中の大物であるが、絶頂期ははるか昔。2020年に亡くなった折にその存在を思い出した人も少なくなかろう。なぜ今伝記映画なのか、といぶかるのも当然。その回答はこの映画にある。ファンでなくとも泣かせるのでご注意を。 ゲイ、ロックンロールの原点、「ロックは悪魔」そして復帰 人名録的に書けば、1932年に米国ジョージア州の貧しい黒人家庭に生まれる。同性愛者のため父親に嫌われて家を追い出され、苦労をしながら好きな歌の道へ進む。50年代初めに、「トウッティ・フルッティ」「のっぽのサリー」「ルシール」「ジェニ・ジェニ」など、ロックンロールの原点、ロックンロールのスタンダードとも言える作品を立て続けに発表して黒人社会で大ヒット。すぐさま、白人にも広がり、同名映画主題歌「女はそれを我慢できない」(56年)が世界的ヒットを果たして、チャック・ベリーやファッツ・ドミノと並ぶ大スターの仲間入りを果たす。 同性愛者であることを隠さず、派手な化粧に細い口ひげ、動きの激しい歌唱とピアノ演奏、歌に交じってインパクトを与える鳥の鳴き声のような甲高いボイスなど、ほかの歌手と全く異なるキャラクターで唯一無二の居場所を獲得する。 ところが、女性と結婚して、57年に神学を学ぶために引退し、牧師となる。そのころは「ロックは悪魔の音楽」としてゴスペルを歌っていた。が、62年に復帰する。復帰コンサートの前座はビートルズ。86年にはロックの殿堂入りし、96年のアトランタ五輪では閉会式に出演した。2013年に再引退し、20年5月に87歳で死去。 貧富、人種、性指向、信仰……現代を照射 こんなデータ的な文言だけでも十分魅力的な音楽家と認識できるが、その中に現代社会の抱える繊細にして微妙な火薬庫に直接つながるテーマがいくつもちりばめられているのも分かる。それは、貧富、人種、性指向、信仰といった今の社会の最重要課題である。当然のことながら、できたてのこのドキュメンタリー伝記映画は、そこに焦点を当ててくる。過去の映像は見事に的を絞って編集される。 ということで、「ロックンロールの始祖」を描いた音楽歴史学的ドキュメンタリー映画という単線的直線的な作品ではない。もちろん、そのことを抜きにして語ることはできない。ポール・マッカートニーやトム・ジョーンズらスーパースターがリトル・リチャードの音楽的功績を述べるシーンも実に興味深い。だが、胸にザクザクと切り込まれるのは、昔なじみやゲイ仲間の「あいつはね……」という体感的な言葉である。彼自身のインタビュー映像も強烈で、すべてが複層的な様相を見せる。 見る者を魅了する強烈な自我 近年、洋画界ではミュージカル映画や音楽をテーマにした映画が続いている。それだけでなく、伝記ものやドキュメンタリーも少なくない。それらは、はっきり言って地味である。本作品も本人の派手さと比べれば地味である。「ドリームガールズ」のような脚色した物語にした方がテーマも分かりやすかったかもしれない。ただ、見終わったら分かるが、リトル・リチャードの激烈な自我が発する、己が抱えた問題は本人映像でこそ見る者に重く深く印象付けられる。 役者が演じたのでは、一風変わった50年代のポップスターで片付けられたであろう。その点、変人ぶりをまるで道化師や偽悪者・露悪者のごとくユーモアたっぷりにしこたま開陳する映像は、寂しく悲しく哀れでもあるが、社会的、メディア的な記録としても極めて貴重である。 70年前に降り立った現代の予言者 この愛すべきスーパースターの語り口は、歌以上に痛快である。辛気臭くももったい付けもない。ナチュラルで天才的である。それを見るだけでも価値がある。当時からのファンであり字面ではこれらの問題点を読んだことのある筆者も、ナマの語り口は今作で初めて見た。「ガイ・フォークス・マスク」風メークで「おだまり!」的な言葉を発すると、マツコ・デラックスのようなトリックスターのキャラを重ねてしまうが、リトル・リチャードの闇はもっと深い。もっと女性の話を、宗教の話を、差別やおカネの話も聞きたかった。だが、もういい。見終わって思うのはリトル・リチャードはつまり、70年前に地上に降り立った「現代の予言者」だったということだ。安易な解決策を語るわけはない。
2024.3.08
旅には音楽が必要だ。今はスマホ一つあれば、世界中どこでもお気に入りの音楽を聞けるけれど、昔はヘッドホンステレオとカセットテープを持って旅をした。お気に入りのロックに加えて必ず持参したのは、レゲエのテープ。凍える真冬のミラノではカリブ海の陽気なサウンドが心を温めてくれたし、コートダジュールの海岸線を走るバスの中でもレゲエが気分をごキゲンにしてくれた。一人旅の間、過酷な状況に陥ったときも、力強いレゲエのメッセージを聞くだけで、元気が出たものだ。 サウンドジャンキーを卒業 あるとき、1カ月間、西アフリカを巡る旅に出た。世界各国から集まった人たちと共にベトナム戦争で使用したフォード社の改造トラックに乗り込み、毎日、キャンプをしながらオーバーランドするという究極のアウトドアの旅。プロデュースしているのは、元ヒッピーたちが立ち上げた英国企業。この旅では、トラックの座席の下に自分の荷物を置くしかないため、荷物を極力少なくする必要があった。「よし、この際サウンドジャンキーを卒業して、アフリカの大地の音を聞こう!」と決心して、このときだけはヘッドホンステレオもカセットテープも持たずに旅に出た。 アフリカの大地をトラックに揺られながら移動する。村があれば買い物をし、川に出合えば、飛び込んで水浴びをする。夕方までにはキャンプ地を見つけて、そこでキャンプをはる。みんなでたき火を囲んで村で調達した野菜やお肉で料理を作り、食事を済ませる。見上げる空は満天の星。太陽が肌を焦がす昼と打って変わって、夜は過ごしやすい。夜風を受けながら、ゆったりくつろいでいると、トラックの運転席から聞き慣れた音楽が流れてくる。それが、ボブ・マーリーやジミー・クリフだった。 結局、自分は世界の果てまで行っても音楽とは切り離せないな、と苦笑いしながら、イギリス人ドライバーが持参したカセットテープから流れるレゲエをアフリカでよく聞いた。レゲエミュージシャンの祖先はアフリカ人。まるで、彼らの魂が故郷のアフリカに帰ってきたかのような、そんな思いがしたものだ。 串刺しにされたメザシのように この旅の終着地、ガーナで奴隷船が出航した港に立ち寄った。港は博物館になっており、両足におもりを付けられ奴隷となった人の写真と名前、体重などが記された生々しいポスターが展示されていた。奴隷船内図の船底には、横たわる人型の絵がぎっしりと描き込まれていた。動ける隙間(すきま)もなく、おびただしく、串刺しにされたメザシのように。 白人に捕らえられ、無理やり足かせをはめられ、荷物のように船底に積まれたアフリカ人が着いた場所がアメリカ大陸とカリブの島々だ。 やがてアメリカからゴスペルやブルース、そしてジャマイカからレゲエが生まれていくことになる。 山に逃げ込み、自分たちの権利を求めた 先日、ジミー・クリフのドキュメント映画「ボンゴマン ジミー・クリフ」(1981年製作)を見た。ジミー・クリフの絶頂期を捉えたこの映画には、彼がプロデューサーとなって大きなフリーコンサート会場を地元の村に造りあげていく様子や、海外公演のシーン、 アフリカ回帰の思想をもつラスタファリアンの歴史や仲間との会話などがちり ばめられている。 ジャマイカがスペインの支配下から英国の植民地に変わった17世紀、一握りの奴隷たちは山に逃げ込み、自分たちの権利を求めた。18世紀になると英国が彼らの自由を守ると約束する。ラスタファリアンの誕生である。そして1960年代、スカやカリプソ、ロックを融合したレゲエが生まれた。 愛と自由と平等、そしてワンネスを理想とするラスタのメッセージを うねりのあるビートに 乗せたレゲエは、ボブ・マーリーやジミー・クリフによって世界へ拡散された。 ソウェト、 南アフリカ史上 初のコンサート この映画で、ジミー・クリフが1980年にアパルトヘイト(人種隔離)政策真っただ中の 南アフリカへ出向き、黒人居住区のソウェトでフリーコンサートを行ったことを私は初めて知った。彼は南アフリカで苦しむ同胞たちを解放したいという思いでこのフリー コンサートを企画している。南アフリカを取材したことがある身としては、トタン屋根の掘っ立て小屋が並ぶあの貧しいソウェトでコンサートができたこと自体が奇跡に思えて仕方ない。しかも、野外の会場に集まったのは、黒人、白人を合わせて5.5万人。バスも電車もレストランも、黒人と白人の席が分けられていた時代に、両者が肩を並べてレゲエのバイブスに身を委ねて共に踊ったのだ。これをミラクルと言わずして、なんと言おう。 南アフリカ史上 初のこのコンサートで、ジミー・クリフは「I Am the Living」を歌い、「君たちは自由だ」と熱唱する。そして、ボブ・マーリーの「No Woman No Cry」を歌うのだ。「全てはうまくいく」というフレーズで大合唱になる。圧政下にある 南アフリカ の男たちがステージに駆け上がって、ジミーにハグをする。この貴重なシーンは涙なくしては見られない。 人々が結ばれる日が来る 彼は1980年にドイツでもコンサートを開いている。このとき、ジミーは69年の反戦歌「ベトナム」を歌った。ジミーは歌う。「アフガニスタン! イラン! 南アフリカ! 誰か戦争を止めてくれ」と。そして、彼は歌う。「抑圧すればするほど、やつらは滅んでいく」と。 ジミー・クリフが人種の壁をぶち破った 南アフリカ のコンサートから11年後の1991年にアパルトヘイトは廃止されたけれど、いまだに世界では闘争や戦争が続いている。このドキュメント映画で村の長老はジミーにこう語る。「いつの日か、人々が結ばれる日が来る。レゲエでそのことを世界に伝えてくれ」と。 この映画を 見てほしい 。ジミー・クリフやボブ・マーリーがレゲエのサウンドに乗せて伝え続けたことを再確認するために。ジミー・クリフは、虹の戦士。ボンゴマンのまっすぐな瞳と熱い歌声とほとばしる汗が、眠りについた多くの魂をスッキリと目覚めさせるはずだ。
2024.2.21
クイーン、そのカリスマにしてスター、フレディ・マーキュリー体験は僕にとってトラウマでしかなかった。 ラジオから聞こえてきた「ボヘミアン・ラプソディ」はえたいの知れない悪魔のコーラスに聞こえ、映画「メトロポリス」を一緒に見に行った初めての彼女には振られ、テレビで見た「ブレイク・フリー」のひげヅラ女装はLGBTQなど知るよしもない1980年代の田舎の高校生を困惑のどん底にたたき落とした。「ライブ・エード」の最高のパフォーマンスも脚の短いマイクスタンドとタンクトップばかりが目を引いた。そして、最後にはエイズという当時正体不明の病に倒れた。 そんな彼との邂逅(かいこう)は多くの人と同じく2018年公開「ボヘミアン・ラプソディ」だった。大ヒットしたこの映画を見るには分別を持った50代になっていた。2時間18分に凝縮した彼の人生と孤独、まさにグレーテスト・ショーマンであり、スターとしての生きざま。あらゆる要素で人間フレディに迫る物語に涙した。 そして、現在公開中の「フレディ・マーキュリー The Show Must Go On」もさらにフレディやクイーンを理解する助けになる作品だった。 彼らの作品のアート・ワーク、影響を受けたアーティスト、フレディの発声法の原点、そして「ブレイク・フリー」のPV、ライブ・エードの舞台裏などここだけの秘話が語られる。妹のカシミラ・バルサラやカメラマンのミック・ロックなど身近な人々の証言はひと言ひと言に愛が満ちていた。印象的だったのはフレディは「スター像を生きるようになった」ことで非業の死を迎えることになると言う証言だった。 そんなドキュメンタリーを見終わった時には前出のトラウマ体験は全て消し去られた。改めて「ブレイク・フリー」のビデオを見返して、最高のアンセムであることを確認した。 蛇足だが、運命は奇なるものでQUEEN THE GREATEST FIREWORKS 2022 IN Kitakyushuを担当した。故郷の夜空に花火とシンクロしたクイーンの名曲はまだ新型コロナウイルス禍明けやらぬ不安の中でミクニワールドスタジアム北九州の観客を魅了した。先日のアダム・ランバートを迎えた東京公演も大盛況に終わったと聞く。 よく人は2度死ぬと言う。一つは生物的な死。もう一つは人々の記憶から消え去ってしまうこと。フレディにはまだまだ多くの人々の心の中でスター像を生き続けてもらうことになる。