「毎日映画コンクール」は1946年、戦後の映画界復興の後押しをしようと始まりました。現在では、作品、俳優、スタッフ、アニメーション、ドキュメンタリーと、幅広い部門で賞を選出し、映画界の1年を顕彰しています。日本で最も古い映画賞の一つの歴史を、振り返ります。毎日新聞とデジタル毎日新聞に、2015年に連載されました。
毎日映コンの軌跡
昭和10(1935)年、毎日新聞の前身「東京日日新聞」は、「全く未曽有の企て」で映画界に「旋風のようなセンセーション」を起こした。「全日本映画コンクール」の開催である。日本映画の向上を目的に、映画会社に呼びかけて未公開の新作を出品してもらい、一度に上映して審査し賞を決めようというのだ。映画はようやく音が付いたばかり。当時の大手4社が、日活「うら街の交響楽」(渡辺邦男監督)▽松竹「若旦那春爛漫(らんまん)」(清水宏監督)▽新興「男・三十前」(牛原虚彦(きよひこ)監督)▽PCL(東宝の前身)「放浪記」(木村荘十二(そとじ)監督)を出品した。 5月14日、東京・日本青年館で上映し、その場で審査した。審査員は長谷川如是閑(にょぜかん)、山田耕筰、久米正雄、菊池寛らそうそうたる7人。夜には、東日コンクール賞「うら街の交響楽」▽俳優演技特賞 夏川静江(「放浪記」)――などが決まった。監督や俳優の舞台あいさつもあって盛況だったが、内容は充実していたとは言い難い。東日紙面では、各社の「秘策を練った自信作」になっているが、「若旦那春爛漫」は完成が間に合わず、上映されたのは半分だけ。 選評では「うら街の交響楽」も「もっとスマートに出来上がらなかったか」(久米)、「最初のところは失敗」(菊池)とほめられていない。「映画年鑑」の総括になると「その意図やよく、その結果や惨憺(さんたん)たるもの……愚劣な作品ばかり」とさんざんだ。当時の日本映画は技術、内容とも米ハリウッドに及ばず、批評家は厳しい目を向けていたのだ。 同年12月には第2回が開催され、PCLの「噂(うわさ)の娘」(成瀬巳喜男監督)が、翌36年8月の第3回では「風流深川唄」(清瀬英次郎監督)が東日コンクール賞を受賞。しかし同年の2・26事件に続いて37年7月には盧溝橋事件が起き、時局は緊迫化。戦時体制に入ってコンクールは立ち消えになる。ようやく平和が訪れた46年、映画賞は「毎日映画コンクール」と名前を変えて復活する。
2022.2.14
1946年5月31日の毎日新聞に、「第1回映画コンクール」の社告が掲載された。表裏2ページしかなかった時代である。「日本映画界の発展に資するとともに大衆娯楽としての正しい育成に乗り出す」と宣言している。同じ紙面には「南方・満洲の引き揚げ状況と消息」「食糧事情は憂慮ジャワ」などの見出しが躍る。日本は戦後の荒廃からようやく復興に取りかかったばかり。映画は疲れた人々に活力を与える格好の娯楽となり、映画界は活気を取り戻しつつあった。45年に11本だった公開本数は、46年に77本と急増する。コンクールは戦前の「全日本映画コンクール」を引き継ぎ、日本映画の復興を後押しし、優れた作品とスタッフを顕彰しようと始まったのだ。 東宝、松竹、大映の大手3社のほか映画各社から参加を募り、審査員に石川達三、尾上菊五郎、志賀直哉、河盛好蔵らが名を連ねた。この年の8月には東京、大阪、名古屋などで審査上映会を開催。コンクール賞と大衆賞に「或(あ)る夜の殿様」(衣笠貞之助監督)が決まった。他の賞は、▽脚本賞=久坂栄二郎「大曽根家の朝」▽演技賞=小沢栄太郎「同」▽撮影賞=立花幹也「檜(ひのき)舞台」▽音楽賞=早坂文雄「民衆の敵」。「或る夜の殿様」は、明治初期を舞台に、鉄道利権をめぐる商人たちの喜劇だ。 当時映画賞は大正時代から続く「キネマ旬報ベストテン」と、戦前からの「映画世界社賞」があったが、脚本・撮影・音楽とスタッフにまで目配りした賞は見当たらない。その後、映画は娯楽の王様として成長し、47年に「都民映画コンクール」(東京新聞など主催)▽50年には「日本映画文化賞」(ブルーリボン賞の前身。東京映画記者会主催)など、他の映画賞も次々と創設された。
第二次世界大戦が終わって、日本映画界は混乱の中でも息を吹き返した。撮影所は軍の統制から解放され、連合国軍総司令部は民主主義を注入しようと、啓蒙(けいもう)的、解放的な映画作りを指導した。 1946年にはシンガポールにいた小津安二郎が、47年には南方から吉村公三郎が復員してくる。「陸軍」が軍部の不興を買って不遇だった木下恵介、戦争中に「姿三四郎」でデビューしたものの思うような映画作りができなかった黒澤明も、一線に復帰。戦意高揚映画「望楼の決死隊」などを撮った今井正は、左翼に回帰した。慣れない主題と格闘しながらも、監督たちは張り切って映画を作った。いずれも30代から40代で、脂が乗り切っている時期だ。 東宝、松竹、大映に加え、新東宝、東横(東映の前身)も製作を開始。50年代には量産体制に入り、日本映画の黄金時代へ駆け上がっていく。そんな中、毎日映画コンクールは回を重ねていった。 第2回(47年)の日本映画賞は、五所平之助監督の恋愛映画「今ひとたびの」。吉村による戦後の貴族の没落を描いた「安城家の舞踏会」と争った。監督賞は「素晴らしき日曜日」の黒澤。第3回(48年)は黒澤の「酔いどれ天使」が日本映画賞、「女」などの木下が監督賞。第4回(49年)は小津の「晩春」が日本映画賞と監督、脚本賞を制した。第5回(50年)は今井の「また逢(あ)う日まで」が日本映画賞、監督賞は「偽れる盛装」の吉村である。スター監督が覇を競うように賞を分け合う。 フィルムなど物資は不足がち、電力供給も不安定な中で、映画は人気に応えて量産体制が続く。そして大衆的な娯楽作に交じって、日本映画史に残る秀作が作られた。
第8回(1953年)毎日映画コンクールの日本映画賞は、今井正監督の「にごりえ」だった。樋口一葉の三つの短編を原作としたオムニバスである。キネマ旬報ベストテンの1位、ブルーリボン賞も獲得し、この年を代表する作品となった。しかし同じ年、後年の「世界映画史上の傑作」投票などで必ず上位に含まれる作品が賞を逃した。小津安二郎監督の「東京物語」である。映コンでは次点、キネ旬でも2位に甘んじた。 毎日映コンの日本映画賞は当時、映画会社の自薦と審査委員の推薦作品を候補とし、公開投票で決められた。第8回では2作の他、溝口健二監督の「雨月物語」など計18本が候補となっていた。54年2月5日、東京・大阪の審査会場で実施された投票には123人が参加。予選で5本に絞られ、決選投票で「にごりえ」53票▽「東京物語」31票▽「雨月物語」14票と大差で決定する。今井は監督賞も、小津、溝口を抑えて受賞した。 監督賞の選評は「小津はマンネリズムを脱せず」と辛口だったのに対し、今井は「女のかなしみを一貫して描いた鋭い感覚とひたむきな情熱をより高く評価された」とたたえられている。「にごりえ」は当時珍しかったオムニバス映画で、大手映画ではなく独立プロが製作したことも評価の背景にあったようだ。 こうした例は珍しくない。54年公開の木下恵介監督「二十四の瞳」は、戦争の悲劇を離島の女教師を通して描き、第9回毎日映コン日本映画賞、ブルーリボン賞、キネ旬1位を席巻した。映コンで大差を付けられて次点となったのが、黒澤明監督の「七人の侍」だ。映画賞は時代の空気とともに決まる。後世の評価とはまた別物なのだ。
第1回(1946年度)、27人。第20回、300人。毎日映コンの選考委員の合計数である。賞の数が増えるにつれて、選考委員の数は増えていった。 第1回で設けられた賞は、作品に贈られる「コンクール賞」と「民衆賞」、個人賞として脚本▽演出▽演技▽撮影▽音楽――の7賞だったのが、第20回では、作品賞「日本映画賞」に加え、個人賞は、監督▽男優主演▽女優主演▽男優助演▽女優助演▽脚本▽撮影▽美術▽音楽▽録音――と10賞、ほかに教育文化映画賞とニュース映画賞、大藤信郎賞があり、各賞ごとに10~20人の選考委員がいた。委員の顔ぶれは多士済々。第20回の名簿には、飯田心美、大黒東洋士ら映画評論家、牛原虚彦、田中絹代ら映画人、岡本太郎、東郷青児、司馬遼太郎ら文化人、中曽根康弘の名前まである。 個人賞は討議で決めた。もめると大変だ。第19回では録音賞が決まるまで、3時間半。「赤い殺意」の神保小四郎を支持する委員と、「仇討(あだうち)」の野津裕男を推す委員が拮抗(きっこう)。討議と投票を6回繰り返しても決着せず、所用で中座し熱海へ向かった委員に、到着するのを見計らって電話を入れて投票させ、ようやく神保に決定した。選考は、映画の斜陽化や毎日本社の経営状況の影響も受けた。第26回から俳優の助演賞がなくなり、第30回から個人賞の選考が投票のみになったが、いずれも第38回から復活。苦しい時代を乗り越えた。 現在は作品賞「日本映画大賞」など21賞を、100人を超す映画評論家、文化人、映画製作者らが原則として討議で決めている。「(評論家だけでなく)映画を作る側の者まで加わって選ぶ賞があれば、映画の向上に役立つだろう」。毎日映コンの構想段階で、東宝重役だった森岩雄はこう語ったという。その精神は脈々と受け継がれている。
映画の華は、やはり俳優。映画賞も男優、女優の顔ぶれが注目される。第1回(1946年度)毎日映コンは演技賞を小沢栄太郎に贈った。 「大曽根家の朝」で旧弊な陸軍士官を演じた小沢は脇に回ることが多かった。第1回からその渋い性格俳優に賞を与えたことにも、芸術性を重んじようという映コンの姿勢がうかがえる。その後、演技賞は男女優各1人が選ばれるようになり、断続的だった助演賞も第38回から定着する。受賞者の顔ぶれを見ると一貫して、演技派に支持が集まるようだ。 第17回の男優主演賞は「人間」の殿山泰司。牛原虚彦監督は講評で「内的なゆたかな蓄積が、この人の演技の無限のひきだし、内臓から身体全体へ、また、その機能へ、毛細管をつたわる血のように自然に流出する」とたたえた。第22回は「若者たち」の田中邦衛、第37回では「マタギ」の西村晃。いずれもいぶし銀の名優だ。一方、長谷川一夫、市川雷蔵、石原裕次郎ら時代のスターは分が悪く、候補にはなっても受賞には至らない。男優の最多受賞は、小林桂樹の5回(第10回「ここに泉あり」で助演▽第13回「裸の大将」▽第15回「黒い画集」▽第18回「白と黒」など▽第54回「あの、夏の日とんでろじいちゃん」で主演)。小林は「受賞はこの上ない励み」「対象になった映画が、演技開眼をもたらした作品。それだけコンクールの受賞は意味がある」と語っている。 第56回の男優主演賞は、大ベテランの三橋達也。ほぼ30年ぶりに、「忘れられぬ人々」に出演した。「女の中にいる他人」で第21回の助演賞を受賞したが、この時は「成瀬巳喜男監督に報告に行ったら『あれは主演じゃないのか』と言われましてね」とずいぶん悔しかったという。念願の主演賞を喜んで「お礼を言いたい」と、毎日新聞東京本社を訪ねてきた。
演技派の名前が並ぶ男優賞に対し、女優賞にはスターが目立つ。第2回(1947年度)から男女それぞれに演技賞が設けられ、第2、第3回は連続で田中絹代が受賞した。この後第12回まで、女優の主演賞は高峰秀子3回、原節子、山田五十鈴が各2回と、戦前からのスターが妍(けん)を競った。 この間“戦後派”で気を吐いたのが、京マチ子。「偽れる盛装」で第5回の主演賞を受賞した。 この年は、戦前からの大スターで「雪夫人絵図」「帰郷」に主演した木暮実千代が最有力と見られていた。第4回「青い山脈」で助演賞も受賞しており、木暮のおい、黒川鍾信(あつのぶ)の著した評伝によると、「帰郷」の原作者大佛(おさらぎ)次郎が声援を送りに木暮の自宅を訪れ、ファンクラブは祝賀会の準備までしていたという。 選考でも本命と目され、実際、当初は木暮が優勢だった。ところが討議が進むにつれ、次第に「そろそろ既成スターじゃなく、新人から選びたいという考え方が支配的に」なって形勢が逆転した。京は、大阪松竹歌劇団から前年、大映に引き抜かれ、鳴り物入りでデビューしたばかり。「羅生門」「偽れる盛装」での妖艶なたたずまいと演技が高く評価された。一方、賞を逃した木暮は大いに落胆した。黒川によれば、結果を知った木暮は「食事がノドを通らないほど落ち込んだ」という。 50年代後半になると、映画会社がこぞって新しいスター発掘に精を出す。第13回で宝塚から松竹に転じた淡島千景(「蛍火」「鰯(いわし)雲」)、第15回は松竹の撮影所でスカウトされて映画界入りした岸惠子(「おとうと」)、第17回は東宝のニューフェースとしてデビューした岡田茉莉子(「秋津温泉」など)が主演賞に選ばれ、世代交代が進んでいく。
女優賞受賞者は、映画が斜陽化した1970年代以降、次第に個性的な顔ぶれが増えていく。映画会社の専属制は崩れ、撮影所体制も崩壊。自前のスターを育成できなくなって、映画界の外に人材を求めるようになっていた。 女優主演賞を見ると、第31回「あにいもうと」の秋吉久美子は公募オーディションで芸能界入りのきっかけをつかみ、第34回「もう頰づえはつかない」の桃井かおりは、文学座から映画界へ入った。両者とも、アイドル風の媚(こ)びや猫かぶりとは無縁、素のままのような演技が“シラケ”世代の象徴のように見なされた。 第33回「曽根崎心中」の梶芽衣子は、撮影所出身の最後の世代。日活にスカウトされて入社し、東映に転じて「女囚さそり」シリーズなどがヒットするものの撮影所は先細りする中、独立プロでの増村保造監督作品で演技開眼。受賞に「賞が欲しかった」と喜び、本格女優としての一歩を踏み出した。 第41回「火宅の人」などのいしだあゆみ、第43回「快盗ルビイ」の小泉今日子はアイドル歌手から女優に転身。人気歌手を主役に起用したアイドル映画は映画界の定石だが、ともにそこにとどまらぬ確かな演技力を見せている。桃井は第52回「東京夜曲」などで、小泉も第66回「毎日かあさん」で、いずれも再受賞するなど、現在に至る活躍は周知の通りである。 外国人で唯一の受賞者は、第48回「月はどっちに出ている」のフィリピン人、ルビー・モレノ。当時のラモス大統領から「祖国を後にする困難な道を選んだ全てのフィリピン人女性の威厳を高めるだろう」との祝辞が届いた。 ちなみに、これまでの女優賞の最年少は第75回で助演の蒔田蒔珠の18歳、最高齢は第68回主演の赤木春恵の89歳だ。
毎日映コンに賞の名称としても名前の残る田中絹代(1909~77年)。14歳で松竹に入社しデビュー、黎明(れいめい)期の映画界でスターとなった。日本で2人目の女性監督としても6作品を残している。映コンでも第2回(47年度)で初の女優賞受賞者となって以来、計5回女優賞を獲得。いまだ破られぬ大記録である。 映コンは田中の女優人生に大きな影響を与えた。47年12月、毎日新聞紙面に「三名を米国へ映画コンクールの個人賞」との記事がある。米ハワイの映画興行会社の松尾達郎が、映コンに日米映画人の交換招待への協力を求め、第2回の監督・俳優賞受賞者に米国訪問の副賞を贈ることになったのだ。結局翌48年、第3回「夜の女たち」で連続受賞した田中が渡米することになった。海外渡航が厳しく制限されており、戦後初の渡米女優だった。 49年10月21日、田中は羽田空港を出発、ハリウッドでジョーン・クロフォードらスターと会い、ハワイでの公演もこなして、約3カ月後の50年1月19日に帰国する。渡航中は毎日新聞に現地便りを寄稿し、帰国第1作を松竹と新東宝のどちらが獲得するかでも注目されていた。 帰国した田中はすっかり変わっていた。旅立った時の着物姿は、洋装にサングラス、ハリウッド仕込みの派手な化粧となり、集まった群衆に投げキスで応える。この変貌(へんぼう)ぶりが「アメリカかぶれ」と揶揄(やゆ)され、帰国直後の松竹「婚約指環(ゆびわ)」、新東宝「宗方姉妹」も不評。「明眸(めいぼう)老いたり」と酷評され、人気も急落した。 しかし田中はそのままで終わらなかった。51年の成瀬巳喜男監督「銀座化粧」、52年の溝口健二監督「西鶴一代女」で絶賛され、復活。53年には、訪米中に読んだ記事に刺激を受けたこともあり、「恋文」を初監督。映コンでも第12、第15回で女優助演賞、第29回で演技賞を受賞した。
1978年3月21日付の毎日新聞社会面に「田中絹代さん きょう一周忌 宙に浮く“大いなる遺産”」との見出しの記事がある。毎日映コンで女優賞を最多受賞した大女優、田中絹代は前年、67歳で亡くなっていた。「映画と結婚した」と称した田中は生涯独身で身よりも見つからず、神奈川・油壺の別荘など総計1億円ほどの遺産の相続先がないというのだ。遺産を管理していたのは田中の遠縁に当たる映画監督の小林正樹で、遺産の有効活用法として「『田中絹代賞』を設けるとか」と語っていた。 この時はまだ具体的な動きはなかったものの、その後、毎日映コン関係者と小林らの間で賞の設立が話題に上る。小林が病に倒れた85年、小林と親しかったプロデューサーで、毎日映コン運営委員だった佐藤正之が田中絹代賞創設を提案した。ちょうど毎日映コンは40回を迎えることもあり、運営委は満場一致で採択した。 賞の対象者について小林と相談し、「偉大な女優を継ぐ可能性のある有望な女優」とすることが決定。選考では、吉永小百合▽岩下志麻▽倍賞千恵子▽十朱幸代――ら10人ほどが挙がる。さらには、現役女優▽映画が中心▽人気と実績――といった選考基準が挙げられ、最初の受賞者として吉永が選ばれた。吉永はデビュー間もない頃に「光る海」(63年)で田中と共演。映画評論家の双葉十三郎は「映画女優として大成しつつあり、今後の活躍も期待される。第1回受賞に最もふさわしい」と評した。 歴代受賞者には香川京子、久我美子、淡島千景、倍賞千恵子、美津子姉妹ら、日本を代表する映画女優が名を連ねる。賞金はないものの副賞として、田中の故郷、山口県下関市からふぐ、うに、くじらの詰め合わせなどが贈られている。
毎日映画コンクールの特徴の一つは、技術部門を手厚く顕彰していることだ。 第1回(1946年度)から、監督▽脚本▽撮影▽音楽――の各賞を設け、第2回で録音、美術両賞が加わって、現在と同じ形になっている。米国のアカデミー賞をお手本としたようだ。毎日映コンの選考委員でもあった映画評論家の飯島正は48年、技術賞について「日本映画の技術を進歩させるうえに効果があることと信ずる」と書いている。 当時、技術部門の賞は、47年度から始まった日本映画技術協会(後の日本映画テレビ技術協会)の「日本映画技術賞」があった。撮影、照明、録音、美術などの部門で、協会員である技師が賞を選んだ。その後、各職能団体が賞を設け、78年には「日本アカデミー賞」が創設された。技術部門では毎日映コンの区分に加え、撮影賞と抱き合わせの形での照明賞と、編集賞も設けている。 毎日映コンは、選考方法でも独特だ。「日本映画技術賞」は、各部門で技術者が討議して選考に当たり、「映像技術が作品にどう貢献しているか」を基準とする。作品そのものよりも、技術水準に重きを置いて、専門的な観点から評価している。一方の「日本アカデミー賞」は、日本アカデミー賞協会員の映画人の投票によって賞が決まる。作品賞を受賞した映画に賞が集まる傾向があり、これまで38回のうち、最優秀作品賞と監督賞が異なるのは10回だけ。 対する毎日映コンは、技術者と映画評論家が議論を戦わせて賞を決めている。専門家の意見を聴きつつ、作品全体の完成度にも目配りし、単純な多数決によらず評価する。作品賞の監督が監督賞を受賞したのはほぼ半分である。
2022.2.13
映画賞は数多くあれど、ほとんどが対象は作品、俳優とせいぜい監督、脚本まで。縁の下の力持ちたる技術者に目配りした賞は少ない。だから、毎日映コンの技術賞は「あこがれ」ともなる。 録音賞を3度受賞し、技術部門の選考委員も務めた紅谷愃一(べにたにけんいち)は、第23回(1968年度)、「黒部の太陽」で初受賞した。大映京都撮影所から日活に転じ、助手から技師に昇進して間もなくだった。黒部ダム建設現場の効果音と、その中でのセリフのやりとりなど、「音の処理を計算し整理することで、迫力あるドラマに仕上げた」と評価された。 紅谷は「当時技術者への賞は、毎日映コンしかなかった。いつか取りたいと思っていた」と当時の喜びを振り返っている。「励みになりました。半面、荷が重くなるという思いもありました。後輩のためにも、自分の水準を上げていかないといけない。責任感も出てきます」 その後、第35回で南北米大陸を縦断ロケした「復活の日」、第38回では、南極で撮影した「南極物語」での仕事が評価されて受賞した。「大変な撮影で賞をもらったのは、うれしかった。他の技師へのライバル意識もあった。運、不運もあるけれど、名前も売れるし」と笑う。 選ぶ側として、厳しい意見をあえて主張することも。毎日映コンの選考委員は、評論家と専門的知識を持った技術者が半々。ともすれば作品の評価に引きずられがちだが、「作品が良くても技術水準が低いものに賞は出せない。技術が作品とどう関わったか、どう貢献したか。監督の功績か技師の腕なのか。見極めが大事」と語る。そして「“格”を維持し、技術者に夢を与える賞であってほしい」と注文をつけるのである。
“クールジャパン”の代表選手のようなアニメーションも、戦前からの長い歴史は苦難の道のりだった。毎日映画コンクールにも、その足跡が刻まれている。毎日映コンは第4回(1949年度)、「教育文化映画賞」を設立した時に「漫画、影絵」も対象とした。 国産アニメは、大正期に初めて作られた。アニメ製作は時間と金がかかり、映画館での上映も限られていた。それでも、アニメ作家たちは、厳しい環境の中でその可能性を追求した。49年は、子供向けの教育的、文化的短編アニメの製作本数が少しずつ増えてきた頃だ。 53年、独創的な手法のアニメを個人で製作していた大藤信郎による「くじら」が仏カンヌ国際映画祭で絶賛された。テレビ放送も開始されて発表の場が増え、56年、大手映画会社の一角、東映が「東映動画」を設立して本格的にアニメ製作に乗り出す。状況は変わり始め、恵まれない製作環境から米ハリウッドなどに後れを取っていた日本アニメも、次第に力を付けていく。 第12回で漫画家の横山隆一が演出を担当した短編「ふくすけ」が教育文化映画賞の一本に選ばれ、アニメ初の毎日映コン受賞作となった。頭の大きなかえるのふくすけと、父蛙を描いた作品だ。 横山は「おとぎプロ」を主宰し、アニメ製作に乗り出していた。作品は「奇抜な着想と豊かな感覚から生まれた色彩漫画でとかく不振だったこの分野に新しい道標をうちたてた」と評された。 続く第13回、東映動画による日本初の長編カラーアニメ「白蛇伝」が、その年に顕著な功績を残した人や作品に贈られる「特別賞」を受賞。アニメの作品性がようやく認められた。とはいえ、社会的にはまだまだ子供の娯楽扱いだった。 大藤信郎が61年死去し、毎日映コンは特別賞を贈る。これが「大藤信郎賞」創設のきっかけとなった。
最初の受賞者は手塚治虫 独自のアニメ技法を追求し世界的に知られた大藤信郎が1961年7月28日、61歳で死去した。18歳で日本アニメの始祖の一人、幸内(こううち)純一に弟子入り。17年に下川凹天(おうてん)が日本初のアニメを発表した1年後だ。大藤は千代紙や色セロハンを使ったアニメを考案し、53年「くじら」が仏カンヌ国際映画祭で絶賛されるなど国外でも知られた。しかし商業的成功は得られず、姉八重に物心両面で支えられ、生涯、個人製作を続けた。その功績から第16回(61年度)毎日映画コンクールで特別賞を贈られる。 大藤は晩年「困難なアニメ製作者の励みになる賞を作りたい」と語っていた。受賞を機に62年、八重は毎日映コンと相談、「大藤信郎賞」新設が決まる。実験的なアニメの作り手を選び、八重が寄贈した大藤の遺産を基金に、賞金とトロフィーを贈ることになった。選考委員には岡本太郎も加わり、第17回で最初の受賞者に手塚治虫が選ばれた。漫画連載などで得た資金でアニメ製作に取り組み、「ある街角の物語」を完成させていた。 大藤賞はアニメに光を当てた唯一の賞で、この後、和田誠や久里洋二らの実験的作品が並ぶ。テレビアニメの増加に伴って劇場公開されるアニメも増え、密度の濃い意欲作が増えていく。流れを変えたのが、宮崎駿監督だった。第34回「ルパン三世 カリオストロの城」が、商業映画として初めて大藤賞を受賞。第43回には宮崎監督の「となりのトトロ」が大藤賞と日本映画大賞を同時受賞する。これを機に、第44回からアニメーション映画賞が設定され、大藤賞で先駆的な試みに光を当て、アニメ映画賞で作品全体の完成度などを評価することになった。 もっとも、第68回「かぐや姫の物語」でアニメ映画賞を受賞した高畑勲は、「大藤賞が欲しかった」と慨嘆した。大藤の存在感は、今も大きい。
映画は時代につれて変わり、毎日映画コンクールも映画に合わせて賞を用意してきた。中でも5年の短命に終わったのが、色彩技術賞だ。第9回(1954年度)で初めて、大映「千姫」の杉山公平撮影監督ら技術関係者に贈られ、第13回を最後に廃止された。 日本初の国産カラー映画は、51年の松竹「カルメン故郷に帰る」だった。53年公開の大映の「地獄門」が仏カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞、日本映画のカラー化が本格的に始まった。だが、この頃はフィルム会社によって発色の質が違い、大映が採用したイーストマン・コダック社が群を抜いていた。第13回までの5回のうち、4回を大映技術陣が占めている。この間カラー映画は、54年の5本から58年には160本に急増。同年に松竹が富士フイルムで撮った「楢山節考(ならやまぶしこう)」が成功し、賞も使命を終えた。 後発ながらすっかり定着したのはファン賞だ。評論家らの目で選ぶ日本映画大賞と異なり、映画ファンの投票で決まる。実は第1回でも大衆賞があった。候補3作を全国8カ所で上映し、観客が投票。選考委員によるコンクール賞と同じ「或(あ)る夜の殿様」が選ばれている。第2回から姿を消し、第31回で復活。事前に決めた参加作品から郵便投票を募った。この年、同じ作品を候補にした日本映画大賞は「不毛地帯」、ファン賞は「犬神家の一族」だった。第38回からは年間公開全作品が対象となり、第44回で外国映画ファン賞も加わった。第60回からTSUTAYA映画ファン賞と改称、インターネットでの投票を募っている。 第31回以来、ファン賞と大賞が一致したのは、9回だけ。第56回の「千と千尋(ちひろ)の神隠し」が最後だ。 ◇ファン賞と大賞が一致した9作品 35回 影武者 37回 蒲田行進曲 42回 マルサの女 46回 息子 47回 シコふんじゃった。 51回 Shall we ダンス? 52回 もののけ姫 54回 鉄道員(ぽっぽや) 56回 千と千尋の神隠し